第63話 森を洗う闇
遅くなりました!投稿用原稿ストック執筆に集中しており、投稿作業や清書の方が滞っておりました。その分いいお話が書けてはいますので、乞うご期待!
エルディア大森林は、遠くから眺めた時よりも遥かに巨大だった。
何十年、あるいは何百年もの時を生きた大樹が隙間なく立ち並び、空を覆う枝葉は日の光さえ拒んでいる。
森の内側へ一歩踏み入れた途端、空気が変わった。外よりも冷たく、湿っている。
風はほとんど吹かず、濃密な土と苔の匂いが肺の奥まで入り込んできた。
「ここが、エルディア大森林……」
リネアは頭上を見上げる。絡み合う枝葉の隙間から、細い光の筋がわずかに差し込んでいた。
陽光が届いているのは樹の天辺に近い場所だけだ。地表付近には薄暗い緑色の闇が広がっている。
「まだ浅層だぞ」
先頭を歩くザラが答えた。
「奥へ行けば、昼間でも明かりなしじゃ自分の足元すら見えなくなる。森の中じゃ距離じゃなく、光が届くかどうかで浅いか深いかが決まるんだ」
「分かりやすいのね」
シゼが周囲を油断なく見回す。黒いナイトドレスの裾が、丈の長い草を撫でていく。
数日間の徒歩移動を経た今も、その衣装には目立つ汚れ一つ付着していない。
「なんだか妙だな」
ザラがふと足を止めた。
「どうしたの?」
「どうにも静かすぎる、嫌な予感がするぜ」
言われてみれば、森の中は不自然なほど静まり返っていた。
風がないとはいえ、鳥の声一つ聞こえないし、虫の羽音もない。
リネアは右眼へ意識を集中させた。義眼の黒地に浮かんだ碧い菱形が回転し、視界へ周辺情報が次々と表示される。
『音響走査開始。周辺に大型生物の移動音なし』
ルクスの単眼から、不可視の走査波が放たれた。
樹木の密度が高いため、王都近郊の平原ほど広範囲を確認することはできない。それでも、半径百メートル以内に大型の魔物がいれば、その動きは捉えられるはずだ。
『熱源走査。周辺に大型熱源反応なし』
「何もいねぇのか?」
『正確には、探知可能な範囲に該当反応が存在しません』
「同じことじゃねぇか」
「いや、違うよ」
リネアは狙撃銃を肩から下ろした。
「ルクスは、いないとは言っていない。見つからないと言っているだけ」
ザラが戦斧の柄へ手を添える。
「そりゃ、余計に嫌な答えだな」
次の瞬間。
『警告。飛翔体多数』
ルクスの声と同時に、木々の間から無数の黒い影が飛び出す。それは矢だった。
正面からだけではない。右手の低木、左手の岩陰、背後の林、頭上の枝葉の隙間。
四方八方から放たれた無数の矢が、三人と一機へ一斉に降り注ぐ。
「オレの後ろへ!」
ザラの全身を赤い魔力光が覆った。強力な肉体強化魔術によって硬化した腕へ矢が突き刺さる直前で、乾いた音を立てて弾かれる。
胸部へ迫った数本だけを戦斧の腹で防ぎ、そのままリネアたちの前へ踏み込んだ。
ルクスの折り畳まれていた可変盾が展開し、幾重もの装甲板が左右へ伸び、瞬く間に巨大な防壁が形成される。
盾の表面で矢が次々と砕け、粗末な矢柄が折れて地面へ落ちていった。
「シゼ!」
リネアの声に、シゼが盾の内側へ身を滑り込ませる。だが、わずかに遅かった。
「あら」
一本の矢が、魔術師用ナイトドレスから露出した右肩へ突き刺さっていた。傷口から血が滲む。
矢尻の周囲では、既に皮膚が紫色へ変色し始めていた。
『矢尻に毒性物質を検出。即時の処置を推奨』
「見せて!抜かなきゃ」
リネアが腰の鞄から解毒剤を取り出そうとする。ザラはシゼの前へ立ち、飛来する矢を戦斧で弾いた。
「待って。抜かなくていいわ」
シゼは平然と慌てることなく、突き刺さった矢へ左手を添える。
「【アブソーブ】」
傷口から黒い霧が溢れ出した。皮膚の下へ広がっていた紫色の毒が、逆流するように傷口へ集まっていく。
黒い霧は毒と血を包み込み、シゼの掌へ吸い込まれた。続いて肉体から押し出された矢先が、地面へ転がる。
矢によって裂かれていた皮膚も瞬く間に塞がり、最後には傷跡さえ残らなかった。
『毒性反応消失。生体損傷の修復を確認』
「もう治ったのか?」
ザラが少し驚嘆しつつ振り返る。
「ええ。もう問題ないわ」
「なら立て。まだ来るぞ」
ザラが差し出した手を、シゼは微かに目を見開きながら取った。
リネアも傷が癒えたことを確認すると、すぐに狙撃銃を構え直す。
「シゼ、後ろをお願い」
「……私の魔術について、何も聞かないの?」
「毒を消せるなら助かるよ」
「そういう魔術なんだろ?」
リネアとザラはそれだけ言って、再び矢の飛んできた方角へ向き直った。
「魔術の話は、こいつらを片づけてからにしようぜ!」
枝葉の陰から、甲高い鳴き声が上がる。それに続けて第二射が飛来した。一射目とは全く異なる方向からだ。
ルクスが可変盾の角度を変更し、矢の群れを効率的に受け止める。
リネアはその背後で片膝をつき、装甲の隙間から銃身を突き出す。
「ルクス。矢の軌道から発射地点を逆算して」
『実行。推定射撃地点を共有します』
義眼の視界へ複数の赤い円が瞬時に表示されていく。
飛んでくる矢そのものは粗末だった。細い枝を削っただけの矢柄。石や獣の骨を加工した矢先。
弓も小型で、射程や威力は低いようだが、その分だけ連射が速い。
わずかな傷でも毒を標的の体内へ送り込めば、相手を殺すことができる。正面から戦えば勝てない冒険者を、弱い武器で効率的に仕留めるための知性ある魔物の戦術だった。
「姿は見えなくても、矢筋は残る」
リネアが引き金を絞ると、銃声が森を揺らす。
弾丸は低木を貫通し、その奥で身を伏せていた何かの頭部を撃ち抜いた。
倒れたのは、人間の子供ほどの背丈をした緑色の魔物だった。
通常のゴブリンよりも一回り大きく、手足には締まった筋肉が付いている。
その体表のほとんどは灰褐色の泥で覆われていた。
『対象をホブゴブリンと推定。体表面に低温の泥を塗布しています』
「泥で姿を隠してたのか」
『視覚的な迷彩効果に加え、体表温度を周辺環境と同程度まで低下させています。当機の熱源走査を回避する意図があるものと推定』
「魔導具を使う冒険者のことまで知ってるみたい」
長く生き延びたゴブリンは、稀に通常種を超えた存在へ進化する。
肉体能力だけでなく、知能も大きく向上する。恐らく、この群れは何度も冒険者を襲ってきたのだろう。
魔道具を持つ者、盾を持つ者、治癒魔術を使う者。
自分たちよりも遥かに強い人間を殺し、その装備を奪い、生き残った個体がさらに知恵を蓄える。
リネアが二体目を狙おうとした時には、すでに赤い円の内側から気配が消えていた。
『推定地点に反応なし。敵性体は射撃後、速やかに移動しています』
「同じ場所から二度は撃たないらしいわね、賢いこと」
右側で枝が大きく揺れた。直後、反対側の岩陰から矢が放たれる。即興の囮戦術らしい。
「舐めやがって!」
ザラが地面を蹴り、数本の矢を肉体強化で弾きながら一気に距離を詰め、戦斧を横薙ぎに振るった。
低木ごと三体のホブゴブリンが両断されるが、周囲にいた個体はすでに散開していた。
樹上から三射目が飛来する。ルクスが盾を跳ね上げたが、その間にも別方向から矢は飛んでくる。
リネアはザラの背後を狙っていた射手を撃ち抜く。さらに、弦の音を捉えてもう一体。
だが、義眼の視界には新たな推定射撃地点が次々と表示されていった。
「多すぎる」
『敵性体の正確な総数は不明。最低でも三十体以上が周囲に展開していると推定』
「面倒な森だな!」
ザラは楽しそうに叫んだが、このまま追いかけ回すのが得策でないことは理解していた。
敵は森林の地形を知り尽くしている。一体ずつに固執すれば、さらに深い場所へ誘導される可能性もあった。
粗末な矢とはいえ、何度も射撃を受ければ守りを抜ける一本が現れる。
そうして誰か一人が毒を受ければ、そこへ矢が集中するだろう。これは明らかに、負傷者を作ってからその他をも仕留める残忍な戦い方だ。
再びホブゴブリンの鳴き声が響く。前方、左側、遥か後方。
ホブゴブリンの群れは互いの姿が見えないほど広範囲へ散りながら、それでも高度な連携を維持している。
「リネア、ザラ、ルクス」
シゼが静かに三人の名を呼んだ。
「私の近くへ集まってくれる?」
「何かやるのか? 派手なのを期待してるぜ」
「ええ。少しだけ、この森を洗うわ」
シゼは腰から一冊の《スペルバイブル》を外した。黒い装丁が開き、ページに刻まれた術式が桃色の光を帯びていく。
その瞬間、空気が如実に重くなった。肌へ絡みつくような闇属性魔力が、シゼを中心に森の中へ浸透していく。
ホブゴブリンたちも異変を察し、鳴き声が変わる。
先ほどまでの威嚇や嘲笑ではない。深まり行く闇に対する明確な恐怖だった。
周囲から一斉に矢が放たれる。ルクスの可変盾が閉じ、三人を覆った。
矢の雨が装甲を叩く中、シゼは開いたページへ指先を這わせ、静かに唱える。
「【ブラック・ドミニオン】」
その瞬間、上空で何かが鳴った。金属同士を擦り合わせるような、耳障りな音。
リネアが顔を上げると、空を覆う枝葉が大きく揺れていた。無数の黒い逆十字架が、木々をかき分けながら降り注いでくる。
地面へ、岩の上へ、樹木の根元へと次々と突き刺さった逆十字架を起点として、黒い波紋が広がり始めた。
幾重もの波紋が互いに重なり、土も苔も落ち葉も、一切の区別なく漆黒へ塗り替えていく。
森の一帯が、瞬く間に光を映さない闇へ沈んだ。
ただし、リネアたちの足元だけは違う。ルクスを含む四者の周囲だけが小さな島のように元の地面の色を保っていた。
「敵味方を識別してるのか……?」
「当然でしょう?」
黒く染まった地面に、幾つもの影が浮かび上がる。
岩の裏、低木の奥、太い根の隙間、次の射撃場所を求めて走る個体、そして樹上へ身を潜めている個体まで。
周囲に散開していたホブゴブリンの姿が、黒い地面へ余すことなく映り込んでいた。
その闇に掌握された光景に、シゼの桃色の瞳が細められる。
「見つけたわ。全員」
次の瞬間、影の真下から腕が生えた。
黒い皮膚に鋭い爪、人間よりも遥かに長い指。
悪魔を思わせる無数の腕が、黒い地面を突き破って一斉に這い出してくる。
ホブゴブリンたちがあまりの恐怖に歪んだ悲鳴を上げた。
逃げようとした足首を掴まれる。岩へ縋った腕を引き剥がされる。
樹上にいた個体は幹から伸びた腕に喉を掴まれ、そのまま枝から引きずり落とされた。
一体のホブゴブリンが短剣を抜き、腕へ何度も突き立てる。しかし黒い腕は一切傷つかない。
さらに二本、三本と新たな腕が現れ、腰と首を掴んだ。爪を立てて地面を掻き毟るホブゴブリンの身体が、影の中へ沈んでいく。
地面の下にはもはや土がなかった。ただ、深ささえ分からない漆黒の闇だけが口を開けている。
そのまま、甲高い断末魔が森の至る所から響く。無数の鳴き声が重なり合い、やがて一つずつ途絶えていく。
最後の一体が黒い地面へ引きずり込まれた時、悪魔の腕も全て闇に沈み、逆十字架が灰となって消える。
黒く染まっていた地面に再び波紋が走り、闇が引いていく。土も苔も落ち葉も、何事もなかったように元の色合いを取り戻した。
倒れた木はない。砕けた岩もない。巻き込まれた動物や虫の死骸も見当たらない。
周囲で耳障りな声を上げていたホブゴブリンだけが、一体残らず消えていた。
『周辺を走査。敵性反応なし』
「終わったわ」
シゼがスペルバイブルを閉じる。その声も表情も、戦闘前と何一つ変わっていなかった。
呼吸は乱れておらず、額に汗も浮かんでいない。膨大な魔力を放出した直後だというのに、立ち姿にわずかな疲労さえ見られなかった。
「……今の魔術、どれくらいの範囲だった?」
「この辺り一帯よ。正確には把握していないわ」
「それだけの範囲を、全部一気に?」
「ええ。それが《浸透制圧》と呼ばれる理由の一つだから」
シゼは当然のことのように答えた。
「お前、無茶苦茶だな!」
ザラが豪快に笑う。
「お陰でこいつらを一体ずつ追い回す手間が省けたぜ!」
「もう少し、他に感想はないの?」
「すげぇ魔術だった!」
「そう……」
あまりにも単純な称賛に、シゼは少しだけ肩を落とした。
「怪我は、本当に治ってる?」
リネアが心配そうに尋ねる。
「ええ」
「疲れてもいない?」
「全く」
『シゼの呼吸、心拍、体温に顕著な変化なし』
リネアは碧い義眼を細めた。魔術に関する専門的な知識はない。それでも、今の光景が普通ではないことくらいは分かる。
あれほどの広範囲へ魔力を浸透させ、地形そのものを一時的に支配する。それだけの大魔術を行使しながら、消耗した様子が全くない。
シゼ・ナイトフォールという魔術師について、リネアは何も知らない。
だが、この時点で一つだけ確信できることがあった。彼女の行使する闇属性魔術は、自分がこれまで見てきたどの魔術とも違う。
「シゼ」
「何かしら?」
「ありがとう。助かった」
リネアがそう告げると、シゼは一度瞬きをした。
「そういうところなのね。あなたたちは」
「どういうところだ?」
「何でもないわ」
シゼはわずかに口元を綻ばせる。
自身の魔術を目にした者は、恐怖するか、利用価値を見出すか、その出自を探ろうとする。
少なくとも、これまで出会った者たちはそうだった。しかし、リネアとザラは違う。
異常性には薄々気づいているのだろう。それでも、今すぐ暴こうとはしない。
負傷すれば手を差し出し、敵を倒せば礼を告げる。怪しい魔術師としてではなく、一人の仲間として扱ってくれる。
背中を預ける相手として、これほど理想的な者たちをシゼは知らなかった。
大森林へ同行した判断は、間違っていなかったらしい。
▲▽▲―――▲▽▲
その日の野営地は、ホブゴブリンの襲撃地点から少し離れた小川の近くに決まった。
「こういうこともあろうかと思って、戦う前に水場の音を探しておいたんだ!」
ザラが今一度、得意げに胸を張る。
「いつの間に?」
「森へ入ってすぐだ!」
「随分と思考が先回りしていたのね」
「飲み水の確保は基本だからな!」
小川は大人の膝ほどの深さしかなく、水も澄んでいた。
それでも、大森林では見た目の綺麗さを信用することはできない。
上流で魔物の死骸が沈んでいる可能性もあれば、目に見えない寄生虫が潜んでいる可能性もある。
シゼがおもむろに水へ手をかざした。
「【ピュリフィケーション】」
淡い青の光が、くみ上げた水を包み込む。
水中から黒い粒子が浮かび上がり、光の中で消えていった。
「これで飲んでも問題ないわ」
『水質を確認。有害物質および寄生性生物の反応なし』
「何でもできるんだな、お前!」
「魔術師として必要なことを修めてきただけよ」
「こういう魔術はとても助かる」
リネアは水筒へ清浄化された水を入れた。
天幕を張り終えると、三人は夕食の確保に取りかかる。
ザラは靴を脱いで小川へ入り、大きな岩を退かす。
「いたぞ!」
岩の下から、小さな蟹と幾つもの淡水貝が現れた。
リネアは殻の形や水中での反応を見ながら、食用に適したものだけを拾い上げる。
その横では、ルクスが水中へ機械腕を差し込んでいた。
碧い単眼が素早く動く。次の瞬間、機械腕が水を跳ね上げた。
先端部には、銀色の大きな魚が一匹挟まれている。
『魚類を捕獲』
「お前、それで魚も捕れるのか!」
『当機は漁業用機体ではありません』
「でも捕れるんだろ?」
『捕獲自体は可能です』
「なら、もう二、三匹頼む!」
『……了解』
ルクスが再び機械腕を水中へ差し入れる。
「馬車を引いたり、荷物を運んだり、魚を捕ったり、大忙しね」
「ルクスは何でもできる」
リネアが大いに誇らしげな声で答えた。
『当機の主任務はリネアの護衛です』
「分かってるよ。いつもありがとう」
『任務を継続します』
程なくして、十分な量の魚と淡水貝が集まった。
焚き火を起こし、魚の内臓を取り除く。貝は清浄化した水に浸してから、平たい石の上へ並べた。
味つけは塩と、道中でザラが見つけた香草だけだったが、長い徒歩移動と戦闘を終えた後の食事は格別だった。
「美味い!」
焼き上がった魚へ齧りつき、ザラが声を上げる。
「塩だけで焼いたとは思えねぇな!」
「大森林の水が豊かだから、魚もよく育つのでしょうね」
シゼは貝の身を小さな器へ移していた。
「シゼは、食べ方まで上品だね」
「食事の作法が生活と心を豊かにするって、昔読んだ本に書かれていたわ」
「野営中に作法も何もないだろ。骨だけ喉に引っかけなきゃいいんだよ!」
「あなたは、もう少し気にした方がいいわ」
「腹に入れば一緒だって!」
ザラは二匹目の魚へ手を伸ばす。リネアも焼けた貝を口へ運んだ。濃い旨味とわずかな塩気が広がる。
「美味しい!」
「だろ?」
「ザラが捕った貝じゃないような」
「細かいことは気にすんな!」
『魚類を捕獲したのは当機です』
「お前も主人に似て細けぇな!」
焚き火の周囲に、三人の笑い声が広がった。
森の奥では、何か巨大な生物の遠吠えが響いている。
それでも、今は不思議と恐ろしさを感じなかった。
食事を終えた頃には、辺りは完全な闇へ沈んでいた。
焚き火の明かりが届く範囲だけが、この森の中で唯一の安全地帯に見える。
そんな中、ザラは汗と泥で汚れた服を摘まんだ。
「川で洗っておくか。明日までに乾くか分からねぇけど」
「私の外套も泥だらけ」
リネアは自分の服の袖を見る。
ホブゴブリンの矢を防いだ際に地面へ伏せたため、全身に湿った土と枯れ葉が付着していた。
ルクスの装甲や可変盾も泥で汚れている。
「三人とも、そのまま動かないで」
シゼが二冊目のスペルバイブルを開いた。
「今度はなんだ?」
「【クリーンアップ】」
青い光が瞬く間に全員を包み込んだ。
水の粒子が衣服や装備へ染み込み、繊維の奥へ入り込んだ泥や汗を浮かび上がらせる。汚れが黒い水滴となって宙へ集められた。
続いて、柔らかな風が全身を吹き抜ける。水分と臭いが一瞬で取り除かれ、湿っていた衣服が数十秒も経たないうちに乾いていった。
髪に絡んでいた細かな葉や埃まで消えている。リネアは自分の服を見下ろした。
「綺麗になった!?」
何日も旅をしてきたとは思えない。洗いたての衣服へ着替えた時と変わらない清潔さだ。
ザラも自分の腕や脇の匂いを確かめる。
「汗臭くねぇ!」
「そういう確認は、もう少し慎みを持ってできないの?」
「お前、これ毎日使えるのか!?」
「ええ。特に難しい魔術ではないもの」
「最高じゃねぇか!」
ザラがシゼの両肩を掴む。
「水浴びできねぇ日が何日続くか分からねぇって覚悟してたんだぞ! それが毎晩、汗も泥も全部落とせるのか!」
「ザラ、揺らしすぎ」
「シゼ。明日からもお願いしていい?」
リネアも珍しく、期待の籠もった眼差しを向けていた。
「そのつもりで同行したのだけれど……」
シゼは二人の予想以上の反応に、わずかに後ずさる。
「広域殲滅魔術より、こちらの方が好評なのね」
「大森林で清潔に眠れるのは、それくらい凄いことだ!」
「私も、こっちの方が嬉しいかもしれない」
「あなたたち、少し感覚がおかしいのではなくて?」
「そんなことねぇ!」
「普通だと思う」
『外装表面の異物付着率が正常値まで低下。整備性の向上を確認』
「ルクスまで……」
シゼは困ったように息を吐いた。だが、その口元には微かな笑みが浮かんでいる。
彼女は自らのナイトドレスの裾を摘まむ。泥濘を歩き続けたはずの黒い布には、染み一つ残っていない。
「だから言ったでしょう? この格好でも、大森林を踏破できると」
「納得した」
「これが理由だったのか!」
「理由の一つよ」
「まだ他にもあるの?」
「それは、いずれ分かるわ」
シゼは意味深に微笑み、スペルバイブルを閉じた。
焚き火へ薪が一本追加される。火の粉が舞い上がり、黒い枝葉の向こうへ消えていった。
シゼ・ナイトフォールにまつわる小さな謎は、その夜だけで幾つも解けた。
なぜ森の中でもナイトドレスを纏っていられるのか。
なぜ大森林での生活に、あれほどの自信を持っていたのか。
毒を吸収する闇は、仲間の傷を癒し、地面へ浸透した闇は、森に潜む敵だけを深く沈めた。
水と風の魔術は、旅で積み重なった泥と汗を洗い流した。
それでも、まだ一つだけ分からない。
森一帯を闇の支配領域へ変えるほどの大魔術を行使しながら、シゼが息一つ乱さなかったその理由。
焚き火の向こうで穏やかに微笑む彼女を、リネアは義眼で静かに見つめた。
幾つもの謎が綺麗に解けていたが、最も大きな謎だけが以前よりも深い闇を湛えて、そこに残っていた。
リネア「ルクスはなんでもできる」(ドヤァ!)




