第六話 戻りたくなかった場所
冒険者ギルドの扉の前で、リネアは足を止めた。
朝の王都グランベルはすでに動き始めている。
大通りには荷馬車が行き交い、露店の準備をする商人たちの声が重なり、武装した冒険者たちがそれぞれの依頼へ向かっていた。
ギルドの大きな木扉は半分開かれ、内側からは酒と革鎧と鉄の匂いが流れてくる。
三年前と、何も変わっていない。
リネアは工具鞄の持ち手をしっかりと握りしめた。
あの日もこの扉を通ったのだ。決別して出ていくために。
「リネア。お前、もうパーティを抜けてくれないか」
レオンの声が、耳の奥に蘇る。
ミーナは目を逸らしていた。
エリスは申し訳なさそうに指を組んでいた。
カイルは椅子にもたれ、早く終われと言わんばかりに退屈そうな顔をしていた。
五人で村を出て、五人で冒険者になると誓った。
けれど、現実には修理師に覚醒したリネアだけが置いていかれた。
あの日、彼女がここから持って出たものは工具鞄だけだった。
そして今、その同じ鞄の中にはグレーハウンドの魔石が入っている。
自分を守ってくれた機械獣を直すための、最初の資金源だ。
「……もう、ここに認めてもらいに来たわけじゃない」
小さく呟いて、リネアは扉を押した。
ギルドの中は朝から騒がしい。依頼板の前には冒険者が群がり、受付には報告待ちの列ができている。
酒場区画では徹夜明けらしい男たちが木杯を傾け、奥の査定台では魔物素材の確認が行われていた。
そこへリネアが入ると、数人がちらりとこちらを見る。
「あれ、外縁の修理屋じゃないか」
「昔、どっかのパーティにいた子だろ」
「修理師だっけ。冒険者はやめたんじゃなかったか」
悪意というほどではない。
ただの記憶であり噂、それに向けられた軽い視線。
しかしリネアには、それが少しだけ痛かった。
受付に並び、順番を待つ。前にいた剣士が討伐証明の魔物の耳を袋から出し、次の魔導士が薬草束を提出する。
リネアの番が来ると、受付嬢は少し驚いたように目を瞬かせた。
「ギアライトさん?今日は修理依頼ではないようですが」
「素材の換金をお願いします」
リネアは鞄から小さな布袋を取り出した。
中には、昨夜のグレーハウンドから回収した魔石と牙が入っている。ルクスが倒したものだ。
リネア自身が倒したわけではないので、そう思うと少し後ろめたかった。
受付嬢は袋の中身を確認し、奥の査定台に控える職員へ渡した。
「グレーハウンドですね。数は……三体分ですか。おひとりで?」
「帰り道で襲われて、何とか」
「それは大変でしたね。少々お待ちください」
査定台の向こうで、白髪混じりの鑑定士が魔石を手に取る。
最初は流れ作業のように見ていた男の表情が、途中で変わった。
「……おい、これを持ち込んだのは誰だ」
リネアの心臓が跳ねる。
鑑定士が魔石を灯りにかざす。表面には細かなひびが入り、内部の魔力核が偏った形で潰れていた。
牙にも同じように、不自然な欠け方がある。
「嬢ちゃん。これ、どうやって倒した?」
「えっと……その、罠に」
「罠?」
鑑定士の目が細くなる。
「剣傷でも魔法焼けでもない。潰れてる。しかも、かなり重いものに叩きつけられたみたいな傷み方だ。グレーハウンド相手に、どんな罠を使った?」
リネアは喉が乾くのを感じた。
ルクスのことは言えない。
黒い機械獣が自分を守ってくれたなどと言えば、その時点で終わりだ。
「廃材です」
「廃材?」
「北街道の古い荷置き場に、崩れかけた資材置き場があって。追われていたので、そこに誘い込んで、魔力測定針で音と光を出して怯ませて……それで、棚が崩れて」
半分は嘘だった。
けれど、完全な嘘ではない。魔力測定針で怯ませたのは事実だ。
廃材も使えそうな場所は見たことがある。
鑑定士はしばらくリネアを見ていた。
「運が良かったな」
「はい。そう思います」
「運だけで群れからは助からんがな」
その言葉に、リネアは何も返せなかった。
結局、魔石と牙は通常より少し安い価格で買い取られた。
傷みが強く、魔道具素材としての価値が落ちているらしい。
それでもリネアにとっては大きな額だった。
だが、作業台の上で思い描いた修理素材の一覧を考えると、胸が沈む。
高純度の魔鉱銀。
大型魔道具用の魔力伝導線。
結晶炉の安定器。
古代規格に近い軸受け。
絶縁布。補強材。工具の交換部品。
今受け取った金貨と銀貨では、家賃を一か月分払って、少し材料を買えば終わりだ。
ルクスの胸部を本格修理するにはまるで足りない。
「……足りないなあ」
思わず漏らした声は、ギルドの喧騒に紛れる。
そのとき、近くのテーブルから困ったような声が聞こえた。
「どうするんだよ、これ。今日の依頼で使う予定だったのに」
若い冒険者が、手の中の小型弩を睨んでいた。
弦を巻き上げる機構が途中で噛み、動かなくなっている。
仲間らしい少女が不安そうに覗き込んでいた。
「魔道具師に持っていく?」
「そんな金ないって。昨日も宿代ぎりぎりだったんだぞ」
リネアは通り過ぎようとした。
関係ないからだ。今はルクスの部品を探す方が先決だ。
そう思ったのに、足が止まった。
壊れたものを見ると、どうしても放っておけない。
「……少し見てもいいですか」
若い冒険者たちが顔を上げた。
「え、あんた?」
「修理屋です。たぶん、軸が噛んでるだけだと思うので」
リネアは小型弩を受け取り、作業台代わりのテーブルに置いた。
工具鞄から細い針と小さなやすりを取り出す。巻き上げ部を少し緩めると、歪んだ金具が見えた。
「無理に回しました?」
「昨日、急いでて」
「ここです。軸がずれて、留め具に食い込んでます。このまま力を入れていたら、弩弓ごと割れてました」
リネアは手早く留め具を外し、歪みを戻して油を差した。
最後に弦をゆっくり巻くと、今度は滑らかに機構が動いた。
若い冒険者が目を丸くする。
「直った……」
「応急です。ちゃんとした修理は店でやった方がいいです。王都外縁のギアライト修理店です」
「いくらだ?」
「今のはいいです。宣伝代で」
リネアがそう言うと、仲間の少女が弩を持った少年の肩を叩いた。
「ほら、言ったじゃん。ちゃんと見てもらえばよかったって」
少年は少し照れたように頭をかいた。
「修理師って、戦えない職だと思ってた」
リネアの手が一瞬止まる。
少年は慌てた。
「あ、いや、悪い意味じゃなくて」
「大丈夫です。実際、戦うための職ではないので」
すると少女が小さく笑った。
「でも、戦う前に必要な職ですね」
その言葉は、思ったより深くリネアの胸に届いた。
戦う前に必要な職。
かつて誰も、そんなふうには言ってくれなかった。
リネアは少しだけ俯き、それから小さく頷いた。
「ありがとうございます」
若い冒険者たちと別れ、リネアは受付へ戻った。
魔石の換金額を受け取り、ついでに古い魔道具部品を扱う店がないか尋ねる。
受付嬢は少し考えた後、奥から小さな木札を持ってきた。
「それなら、ギルドの廃棄倉庫を見てみますか?壊れた装備や古い魔道具、依頼で回収したけれど使い道のない部品を保管している場所です。状態は悪いですが、払い下げなら安くできます」
リネアは目を見開いた。
「見られるんですか?」
「ええ。修理店の登録がありますから。ただし、持ち出しには職員の確認が必要です」
「お願いします」
木札を受け取ったそのとき、背後の酒場区画から聞き慣れた名前が聞こえた。
「聞いたか。《暁の剣》も参加するんだろ、北方未開拓遺跡の調査」
リネアの足が止まった。
「レオンたちか。金級昇格がかかってるらしいな」
「魔道具師協会との合同だってよ。開かずの遺跡が動いたとか何とか」
「大物が出れば、一気に名が上がるな」
レオン。
ミーナ。
エリス。
カイル。
かつて同じ村を出て、同じ夢を見て、最後には自分を置いていった幼馴染たち。
彼らが、ルクスの眠っていた遺跡へ向かう。
リネアは工具鞄の持ち手を強く握った。中には換金しきれなかった小さな魔石と、ギルド廃棄倉庫の許可札が入っている。
怖くないと言えば嘘になる。
会いたくないと言えば、それも本当だった。
けれど、もう逃げる理由にはならなかった。
リネアは冒険者に戻りたいわけではない。
誰かに認めてもらうために、ここへ来たわけでもない。
帰る場所には、傷だらけの機械獣が待っている。
「……まずは、部品を探さなきゃ」
リネアは小さく呟き、許可札を握り直した。
戻りたくなかった場所で、彼女はようやく一つだけ手に入れた。
過去を取り戻すためではなく、未来を修理するための、小さな通行証を。




