第五話 修理師は嘘をつく
表扉を叩く音が、夜の修理店に響いていた。
こん、こん、と規則正しい音だった。怒鳴り声もなく、乱暴でもない。
だからこそ余計に怖かった。家賃の取り立てでも、酔った客でも、近所の職人でもない。
扉の向こうにいる相手が、きちんとした手続きを踏んでいることが分かってしまったからだ。
「夜分に失礼。王都警備隊です」
リネアは工具を握ったまま、裏庭を振り返った。
そこには黒い機械獣、ルクスが伏せている。左前脚の外装は剥がれ、胸部装甲の割れ目からは応急処置の銀線がかすかに光っていた。
雨除けの布を被せてはいるが、どう見ても大きすぎる。古材と壊れた棚で囲っても、隠しきれるものではなかった。
『外部接近、二名。金属装備音あり。警戒を推奨』
ルクスの声は低く、平坦だった。
「分かってる……分かってるけど、どうしよう」
『選択肢を提示。第一、対象二名を無力化。第二、当機が離脱。第三、虚偽情報による誘導』
「一番目は絶対に駄目。二番目も駄目。今のあなたが外に出たら、もっと大騒ぎになる」
『第三案を推奨』
それはつまり嘘をつく、ということだった。
リネアは唇を噛むと、胸の奥が嫌な音を立てる。
彼女は腹芸が得意な方ではない。まして警備隊を相手に嘘などついたこともなかった。
けれど、扉の向こうの兵士たちにルクスを見られたらどうなるかは、考えるまでもない。
押収、解体、その後に軍事転用。
ルクス自身が告げた言葉が頭をよぎった。
「……音を立てないで。絶対に」
『了解。隠密行動を開始』
巨大な機械獣が、少しだけ身を低くする。
ぎしり、と関節が鳴った。
「音鳴ってる」
『隠密行動、困難』
「もう黙ってて」
リネアは深く息を吸い、工具を作業台に置いた。
手についた油をエプロンで拭い、表へ向かう。
扉までの短い距離が、やけに長く感じた。
かんぬきを外し、細く扉を開ける。
外には警備兵が二人立っていた。
ひとりは若く、もうひとりは中年で、目つきが鋭い。
どちらも革鎧の上から王都警備隊の紋章が入った外套を羽織っている。
腰には剣。手には小さな魔法灯。
「夜分にすみません。こちら、ギアライト修理店で間違いありませんか」
「は、はい。店主のリネア・ギアライトです」
声が少し裏返った。リネアは慌てて咳払いをする。
中年の兵士が、店の奥を覗くように視線を動かした。
「北街道付近で、大型の魔物らしき影を見たという通報がありましてね。こちらの職人街の方へ入っていったようだと」
リネアの背中に冷たい汗が流れた。
「大型の、魔物ですか」
「ええ。金属を引きずるような音も聞こえたそうです。何か変わったものを見ませんでしたか」
変わったものなら、裏庭にいる。
リネアはそう思いながら、首を横に振った。
「いえ……ただ、私は北街道でグレーハウンドに襲われました」
若い兵士が目を見開く。
「グレーハウンドに? ひとりでですか」
「はい。未開拓遺跡の近くまで、古い部品を探しに行っていて。帰りに群れに遭ってしまって……何とか逃げてきました。もしかすると、その影を見間違えたのかもしれません」
言いながら、リネアは自分の心臓の音が大きくなるのを感じていた。
半分は本当だ。グレーハウンドには襲われた。北街道も通った。逃げてきたのも事実だ。
ただ、助けてくれた存在だけを隠している。
中年の兵士は納得した様子を見せなかった。
「グレーハウンドにしては、足跡が大きすぎるという報告もあります。それに、碧い光を見たという者もいる」
リネアの指先が震えた。
裏庭で、かすかに金属が軋む音がした。
若い兵士がそちらを見る。
「今の音は?」
「修理品です。古い魔道具を分解していて」
「確認しても?」
中年の兵士が一歩踏み出した。
リネアは扉の前から動けなかった。断れば怪しまれる。通せば終わる。
裏庭に回られたら、布を被せた程度のルクスなどすぐに見つかる。
どうしても状況を打破できるような言葉が出てこない。
そのときだった。
「あんたたち、こんな夜更けに若い娘の店先で何をしてるんだい」
路地の奥から、しわがれた声が飛んできた。
リネアが振り向くと、杖をついたマルタ婆さんが立っていた。
肩掛けを羽織り、手には小さな籠を下げている。こんな時間に出歩くような人ではない。
けれど彼女は当然のような顔で、警備兵たちの前までやってきた。
「マルタさん……」
「リネアちゃん、無事かい。北街道で魔物に遭ったって聞いて、心配で来たんだよ」
その言葉に、警備兵たちの視線が少し緩んだ。
中年の兵士が尋ねる。
「この店主とお知り合いで?」
「知り合いも何も、この子はうちの人の形見の時計を直してくれた恩人だよ。壊れたものを捨てられない、馬鹿みたいにお人好しな子さ」
「馬鹿みたいは余計です」
リネアは小さく抗議したが、マルタは聞いていなかった。
「それより、北街道にグレーハウンドが出たんだろう。こんな小さな店を疑ってる場合かい。職人街の子どもたちが朝に外へ出る前に、そっちをどうにかするのが警備隊の仕事じゃないのかね」
若い兵士が気まずそうに姿勢を正す。
「それは、もちろんです」
「だったら早く行きなさい。リネアちゃんは見ての通り疲れてる。魔物に襲われた娘を夜中に問い詰めるなんて、王都警備隊もずいぶん偉くなったもんだねえ」
中年の兵士はわずかに眉を寄せたが、マルタの勢いに押されたのか、それ以上踏み込もうとはしなかった。
「……失礼しました。ただし、北方未開拓遺跡周辺には近日中に冒険者ギルドと魔道具師協会の合同調査が入ります。民間人の接近は禁止される予定です。何か思い出したことがあれば、詰所まで報告を」
「はい。分かりました」
リネアは頭を下げた。
兵士たちは魔法灯を掲げ、路地の奥へ去っていった。
足音が遠ざかるまで、リネアは扉の前で動けなかった。
やがて、マルタが小さく息を吐く。
「危なかったねえ」
リネアは顔を上げる。
「……気づいて、いたんですね」
マルタは裏庭の方を一度だけ見た。
布の下で、碧い光がほんのわずかに揺れている。
「私は何も見てないよ」
そう言って、老婆は目を細めた。
「ただ、あんたが拾ったものは、きっと最後まで面倒を見るんだろうね」
リネアは何も言えなかった。
マルタは籠から小さな包みを取り出し、彼女に渡す。
中には焼き菓子と薬草茶の葉が入っていた。
「食べなさい。震えてる手じゃ、直せるものも直せないよ」
「ありがとうございます」
「礼はいい。その代わり、無茶はするんじゃないよ」
マルタはそれだけ言うと、杖をついて夜道へ戻っていった。
扉を閉めた瞬間、リネアはその場にへたり込んだ。
足から力が抜けた。嘘をつくのが、こんなに疲れるものだとは知らなかった。
胸の奥がまだどきどきしている。手のひらには爪の跡さえも残っていた。
裏庭から、ルクスの声が届く。
『虚偽申告を確認』
「言わないで……」
『修理師リネア・ギアライトは、当機の秘匿を優先した』
「あなたを解体されたくなかっただけ」
『当機の保全行動として記録』
「記録しなくていい」
『重要記録と判断』
リネアは顔を覆った。
泣きたいような、笑いたいような気分だ。
自分は今、明確に秘密を抱えた。
王都警備隊に嘘をつき、ギルドと魔道具師協会に報告すべきものを隠している。
正しいことではないのかもしれない。けれど、ルクスを差し出すことが正しいとも思えなかった。
この子は物ではない。
少なくともリネアには、一つの人格にしか見えなかった。
「ルクス」
『応答可能』
「私、たぶん上手くやれない。嘘も下手だし、お金もないし、部品も足りないし、警備隊にも目をつけられたかもしれない」
『状況評価、困難』
「うん。困難だよね」
リネアはゆっくり立ち上がった。
「でも、あなたを守るって決めた。だから、まずは直す。ちゃんと動けるようにする。隠れるにしても、逃げるにしても、その体じゃ無理だから」
ルクスの単眼が静かに瞬く。
『行動方針を確認。修復を優先』
「そう。修復を優先」
夜が明ける頃、リネアは作業台の上に三つのものを並べた。
グレーハウンドの小さな魔石。
焼けかけた魔力伝導線。
ルクスの胸部から外した黒ずんだ銀線。
どれも頼りないし、現状どれも足りない。
しかし、何もないわけではなかった。
「まずはお金を作る。魔石を売って、部品を集める。魔道具師ギルドに行くのは危ないから、最初は冒険者ギルドかな」
『同行を提案』
「駄目。あなたは目立ちすぎる」
『隠密行動を試行可能』
「昨日、店に入るだけで鍋を三つ落としたよね」
ルクスは沈黙した。
その沈黙が、少しだけ不満そうに見えて、リネアは小さく笑った。
彼女は工具鞄にグレーハウンドの魔石を入れ、店の扉に臨時休業の札をかける。
向かう先は冒険者ギルド。
かつて追放され、夢を失った場所。
もう二度と戻りたくないと思っていた場所。
けれど今度は、誰かに認めてもらうためではない。
自分を守ってくれた、壊れた機械獣を直すために。
リネア・ギアライトは朝の職人街へ踏み出した。
リネアのように、守る為にこそ、嘘をつきたいですね。




