第四話 名前のない機械獣
王都グランベルの外縁に灯る魔法灯が見えたとき、リネアはようやく息を吐いた。
夜はすでに深い。北門へ続く旧街道に人影はなく、遠くの城壁の上で警備兵の持つ槍先だけが月明かりを受けてかすかに光っている。
森の中でグレーハウンドに襲われたせいで、予定よりずっと遅くなってしまった。
それでも、生きて帰ってきた。
リネアは工具鞄を胸に抱き、隣を歩く黒い機械獣を見上げた。
「……本当に、門から入って大丈夫かな」
『大型魔物との誤認、押収、解体調査、軍事転用の可能性あり。正門通過は非推奨』
「うん。分かってたけど、聞かなきゃよかった」
リネアは肩を落とした。
機械獣は傷だらけだった。左前脚の外装は大きく剥がれ、胸部装甲の割れ目からは弱い青い光が漏れている。
右後脚の関節は一歩ごとに低く軋み、背部の箱状機構は完全に沈黙していた。
これを見られて、ただの大きな荷物です、で済むはずがない。
幸い、リネアは王都外縁で暮らして三年になる。
正門を通らずに職人街の裏手へ回る細い搬入路を知っていた。
元は石材や廃材を運び込むための古道で、夜にはほとんど使われない。
「こっち。少し遠回りだけど、人に見つかりにくいから」
『了解』
機械獣は素直についてきた。
ただし、音は隠しきれない。
がしゃり、ぎしり、と壊れた関節の駆動音が夜道に響くたび、リネアは心臓を縮ませた。
民家の窓に明かりが灯るたびに立ち止まり、犬が吠えるたびに路地の陰へ身を潜める。
けれど機械獣は大きすぎて、どう隠れても黒い背中が塀の上から少し見えていた。
「もう少し低く歩ける?」
『可能。ただし左前脚の負荷が増大』
「じゃあ駄目。普通に歩いて。いや、普通って何だろう……」
リネアは小さく頭を抱えた。
それでも何とか職人街の裏通りまで辿り着くと、見慣れた傾いた看板が月明かりの下に見えた。
ギアライト修理店。
小さく、古く、家賃を二か月滞納している、彼女の店だった。
昨日までは、もう畳もうと思っていた場所。
けれど今は、そこが帰る場所に見える。
「着いたよ。ここが私の店」
機械獣の単眼が、碧く瞬いた。
『建造物規模、当機収容に不適』
「……それ、今言わないで」
問題はすぐに現実になった。
正面扉は論外だった。裏口も狭い。作業場に続く搬入口なら少しは広いが、それでも機械獣の胴体はつかえた。
リネアが扉を外し、棚をずらし、古い木箱をどけても、頭部と肩の装甲が枠に引っかかる。
「もうちょっと右……違う、そっちは鍋がある!待って、尻尾みたいなところ、棚に当たってる!」
『姿勢制御、困難』
「そこで無理に動かないで!店が壊れる!」
がたん、と古鍋が落ちた。
からん、と木製の人形の首が転がった。
機械獣の単眼がそれを追い、少しだけ光を弱める。
『周辺物品への損害を確認』
「大丈夫。元から直す予定だったものだから」
リネアはそう言ってから、思わず笑ってしまった。
古代遺跡の奥で目覚めた古代の機械獣が、自分の小さな修理店に入れず困っている。
その光景は奇妙で、少しおかしくて、そしてなぜか胸が温かくなった。
結局、機械獣は店内には入れなかった。
リネアは裏庭の物置を半分解体し、雨除けの布を張り直し、古材を組んで急ごしらえの作業場を作った。
そこに機械獣を伏せさせ、ランタンを三つ灯す。
夜気の中、碧い単眼だけが静かに光っていた。
「さて」
リネアは袖をまくる。
「ちゃんと診せて」
『診断補助を開始。主機関、損傷。左前脚外装、大破。右後脚駆動軸、歪曲。背部兵装、応答不能。記録領域、欠損。旧識別名、参照不能』
「待って。一度に言わないで。多い。壊れてるところが多すぎる」
リネアは額に手を当てた。
けれど、逃げる気にはならない。
胸部装甲の割れ目を開き、遺跡で繋いだ銀線を確認する。
グレーハウンドとの戦闘で何本かが焼け、仮止めした留め具も緩んでいた。
碧い結晶はまだ弱く光っているが、その表面の亀裂は先ほどより深く見える。
「無茶しすぎ」
『保護対象の生存を優先』
「だからって、自分が壊れていい理由にはならないよ」
『当機は兵装個体。損耗は想定内』
「私は想定外」
リネアはきっぱり言った。
機械獣が沈黙する。
リネアは細い銀線を取り出し、焼けた部分を切り離した。
時計の修理に使う部品では細すぎる。魔道具用の伝導線でも規格がまるで違う。
それでも、何もしないよりはいい。
彼女にとって、これは恐ろしい古代兵器ではなかった。
壊れて傷ついたものだった。
そして、自分を守ってくれたものだ。
「本当は、もっとちゃんとした部品がいる。高純度の魔鉱銀、魔力伝導線、大型魔道具用の絶縁布、結晶炉の安定器……あと、その関節を直すなら古代規格に近い軸受けも必要だと思う」
『入手難度、高』
「だよね。私もそう思う」
リネアは苦笑した。
金はない。店の家賃も払えていない。
そんな状態で、古代兵器を修理するための素材を揃えるなど、普通なら夢物語だ。
けれど、不思議と絶望はなかった。
昨日までの自分なら、そこで諦めていたかもしれない。
どうせ無理だと、店を畳む理由にしていたかもしれない。
でも今は違う。
目の前に、直したいものがある。
それだけで、リネアの手は動いた。
応急処置を終え、胸部の光が少しだけ安定したところで、彼女はふと手を止めた。
「そういえば、あなたの名前」
単眼がこちらを見る。
『旧識別名、参照不能』
「うん。それは聞いた」
『暫定識別番号の生成は可能』
「番号じゃなくて、名前」
リネアは工具を置き、機械獣の正面に回った。
碧い単眼が、夜の中で静かに彼女を映している。
遺跡の奥で初めて光ったとき、その目は星のように見えた。
暗闇の中で、確かにそこにいると教えてくれる光だった。
「ルクス」
リネアは言う。
「あなたの名前、ルクスはどうかな」
機械獣は動かなかった。
ただ、単眼の光が一度だけ瞬く。
『ルクス』
「うん。暗い遺跡で、あなたの目が光ったから。私には、それが灯りみたいに見えたの」
『名称、ルクス。登録』
その声はいつも通り平坦だ。
けれど、リネアにはほんの少しだけ柔らかく聞こえた。
「気に入った?」
『感情照合不能』
「そっか」
『ただし、再呼称を希望』
リネアは瞬きをした。
それから、吹き出すように笑った。
「それ、気に入ってるって言うんだよ。ルクス」
『ルクス。応答可能』
「ルクス」
『応答可能』
「ふふ。うん、いい名前」
笑ったのは久しぶりだった。
冒険者パーティを追放されてから、リネアはずっと歯を食いしばって生きてきた。
店を守るため、生活するため、負けを認めないため。
しかし今、裏庭の粗末な作業場で、壊れた機械獣に名前を呼んでいる自分は、少しだけ息がしやすかった。
リネアは立ち上がり、店の方を見た。
傾いた看板。狭い作業場。山積みの修理品。
払えていない家賃。足りない工具。足りない素材。
足りないものだらけの、自分の居場所。
それでも、だ。
「店、畳むのやめる」
リネアは静かに言った。
ルクスの単眼が彼女を見る。
「あなたを直す。応急処置じゃなくて、ちゃんと。歩けるようにして、痛そうな音もしないようにして、失くした記録も、名前以外のことも、できるだけ取り戻す」
『実現可能性、不明』
「不明なら、ゼロじゃないでしょ」
リネアは工具鞄を閉じた。
「まずは素材集め。お金も必要。グレーハウンドの魔石が売れるかもしれないし、魔道具師ギルドの廃材市にも行ってみる。古代規格に近い部品なら、王都の外れにある解体屋に残ってるかもしれない」
言葉にするほど、やることは増えていく。
けれど、それは不思議と怖くなかった。
目的がある。
誰かに認められるためではない。
追放した幼馴染たちを見返すためでもない。
ただ、自分を守ってくれたこの機械獣を直したい。
それだけで、明日も店を開ける理由になった。
そのときだ。
こん、こん、と。
店の表扉が叩かれた。
リネアの体が固まる。
こん、こん。
もう一度、音がした。
こんな夜更けに客が来るはずがない。
職人街の住人なら裏口から声をかける。
家賃の取り立てならもっと乱暴に叩く。
裏庭のルクスが、わずかに頭を上げた。
『外部接近。人数、二名。金属装備音あり』
「金属装備……?」
リネアの背筋が冷えた。
扉の向こうから、男の声がした。
「夜分に失礼。王都警備隊です」
リネアは息を呑む。
「昨夜、北街道付近で大型の魔物らしき影を見たという通報がありまして。この辺りで、何か変わったものを見ませんでしたか」
変わったもの。
リネアはゆっくりと振り返った。
裏庭には、黒い装甲を傷だらけにした四脚の機械獣が伏せている。
碧い単眼が静かに光り、胸部の奥で応急処置の銀線がかすかに脈打っていた。
どう考えても、変わったものだった。
『隠密行動を推奨』
ルクスが小さく告げる。
リネアは工具を握りしめた。
「……今さら遅いよ」
表扉が、もう一度叩かれた。
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