第三話 壊れた獣の守り方
遺跡の外へ出たとき、空はすでに夕暮れに傾いていた。
森の向こうに沈みかけた太陽が、旧街道を赤く染めている。
朝にここへ来たときは冷たく澄んでいた空気も、今はどこか湿って重い。
遠くで鳥が鳴き、草むらが風に揺れる音だけが、やけに大きく聞こえた。
リネアは黒い機械獣の横を歩いていた。
正確には、歩かせてしまっていた。
「本当に、大丈夫?」
リネアが何度目か分からない問いを投げると、機械獣はぎこちなく首を動かした。
額の単眼に灯る碧い光は弱い。遺跡の奥で目覚めた直後よりは安定しているようにも見えるが、四肢の動きは明らかに滑らかではなかった。
左前脚は時折、踏み出すたびに小さく震える。
右後脚の関節からは、金属が擦れるような低い音がしていた。
胸部の割れた装甲の奥では、リネアが応急処置で繋いだ銀線が、碧い微光をかろうじて伝えている。
『駆動継続、可能』
「可能ってだけで、無理してない?」
『損傷率、基準超過。長距離移動、非推奨』
「それ、大丈夫じゃないって言うんだよ」
リネアは思わず眉を下げた。
本当なら、遺跡内でもっと時間をかけて修理したかった。
けれど手持ちの工具では限界があったし、夜の遺跡にひとりで留まる勇気もなかった。
何より、目覚めた機械獣が最初に告げたのは、遺跡内部の維持機構が不安定になっているという警告だった。
完全に崩落するわけではない。だが、長く留まるべきではない。
そう判断して、リネアは機械獣を連れて外へ出た。
連れて、という言葉が正しいのかは分からない。
機械獣はリネアの命令で動いているわけではないからだ。
ただ、彼女が歩くとついてくる。止まると止まる。リネアが振り返ると、単眼が静かにこちらを見返してくる。
まるで、彼女を見失わないようにしているかのようだった。
「あなた、名前はあるの?」
ふと、リネアは尋ねた。
機械獣の歩みがわずかに遅れる。
『個体識別記録、欠損』
「そっか……名前、分からないんだ」
『旧識別名、参照不能。戦術登録番号、破損。製造系統、断片のみ残存』
難しい言葉ばかりだった。けれど、意味は分かる。
自分が何者だったのか、この機械獣自身にも分からないのだ。
リネアは胸の奥が少し痛くなった。
自分にはまだ名前がある。リネア・ギアライト。
修理師。王都外縁の小さな店の店主。たとえ誰にも必要とされなくても、それだけは残っている。
けれどこの機械獣には、それすら残っていない。
「じゃあ、ちゃんと直せたら名前をつけてもいい?」
何気なく言ったつもりだった。
だが、機械獣はそこで完全に足を止めた。
碧い単眼が、静かにリネアを映す。
『質問。名称付与の目的は何か』
「目的?」
リネアは少し考えた。
「呼びたいから、かな」
『呼称機能であれば、暫定識別番号で代替可能』
「そういうことじゃなくて」
リネアは困ったように笑った。
「名前があった方が、寂しくないでしょ」
機械獣は何も答えなかった。
ただ、単眼の光が一度だけ小さく瞬く。
そのときだった。
草むらの奥から、低いうなり声が聞こえた。
リネアの背筋が凍る。
旧街道の両脇に伸びる背の高い草が、不自然に揺れていた。
風ではなく、何かがいる。しかも一匹ではない。
湿った獣の匂いが、夕暮れの空気に混じって流れてきた。
「……グレーハウンド」
リネアは掠れた声で、狼型の魔物の名を呟いた。
通常の狼よりも大きく、灰色の毛皮を持ち、飢えると人里近くまで下りてくる。
駆け出し冒険者でも数人で当たれば倒せる相手だが、それは前衛と後衛が揃っていればの話だ。
今のリネアはひとりだった。
戦士ではなく、魔導士でもない。
短剣はあるが、まともに扱えるわけではない。
草むらから、一匹目が姿を現した。
やはり大きい。肩の高さだけでリネアの腰ほどもある。
灰色の毛並みはところどころ黒ずみ、牙の間から涎が垂れている。
続いて二匹目、三匹目。さらに後ろにも気配があった。
群れだ。それを悟ったリネアは足がすくむのを感じた。
「逃げ……」
言いかけた瞬間、黒い影が前へ出た。機械獣だ。
傷だらけの四脚を軋ませながら、リネアとグレーハウンドの間に立つ。
胸部装甲は割れたまま。左前脚は不安定で、背の構造物も沈黙している。
それでも、その背中はリネアを完全に隠した。
『敵性生命体、複数確認』
碧い単眼が細く光る。
『保護対象を護衛する。迎撃開始』
「待って、まだ動いちゃ駄目!」
リネアの叫びと同時に、グレーハウンドが跳んだ。
その動きは機敏で速かった。灰色の影が地面を蹴り、機械獣の喉元へ食らいつこうとする。
リネアは目で追うのがやっとだったが、機械獣は壊れた体でもそれに反応した。
右前脚が振り上げられ、鈍い衝撃音が響く。
グレーハウンドの体が横へ弾き飛ばされ、地面を転がった。
生身の獣なら前脚を折っていてもおかしくない一撃だった。
だが、機械獣も無事ではない。振り切った右前脚の関節から火花が散り、胸部の碧い光が大きく揺らぐ。
「やめて、壊れる!」
リネアは叫んだが、群れは待ってくれない。
二匹目と三匹目が左右から回り込む。機械獣は低く姿勢を沈めた。
左前脚が震え、右後脚が軋む。それでも倒れず、逃げない。
背後のリネアに一歩も近づけさせないように、傷ついた体を盾にしていた。
二匹目が左側から飛びかかる。機械獣は敢えて避けずに噛みつかせた。
グレーハウンドの牙が左前脚の外装に食い込む。剥がれていた装甲がさらに裂け、銀色の骨格が露出した。
リネアは息を呑む。機械獣はそのまま脚を地面へ叩きつけた。牙を外せなかったグレーハウンドが悲鳴を上げる。
同時に、三匹目が背後へ抜けようとした。
リネアの方へ凶牙が迫り、碧い単眼が瞬く。
『接近、不可』
機械獣の背に折り畳まれていた箱状の構造物が、わずかに開いた。
内部で碧い光が収束する。しかし次の瞬間、火花が走り、機構は嫌な音を立てて停止した。
『遠隔兵装、起動失敗』
それでも機械獣は止まらなかった。
無理やり体を捻り、右後脚で地面を蹴る。
壊れた関節が悲鳴のような音を立てた。
黒い巨体が斜めに滑り込み、三匹目の進路を塞ぐ。
グレーハウンドの牙が機械獣の肩に突き立った。
リネアは工具鞄を握りしめたまま、動けなかった。
怖い。足が震え、喉が詰まる。今にも逃げ出したいし、目を逸らしたい。
けれど、機械獣は壊れた体で自分を守っている。
たった今名前を尋ねたばかりの、まだ何者かも分からない機械獣が。
「……私も」
リネアは震える息を吸った。
「私も、何かしなきゃ」
彼女は鞄から魔力測定針を取り出した。戦うための道具ではない。
グレーハウンドは魔力の流れに敏感だ。測定針に一時的に魔力を流せば、目くらまし程度にはなるかもしれない。
それは父に教わった応急技術だった。危険だから絶対に遊びで使うな、と何度も言われた技術でもある。
リネアは測定針に残り少ない魔力を込めた。
「こっち!」
叫んで、針を投げる。
空中で測定針が甲高い音を立て、白い光を弾けさせた。
グレーハウンドたちが一瞬だけ怯む。耳を伏せ、目を細め、動きが止まる。
その一瞬で十分だった。機械獣が前へ出る。
爪ではない。刃でもない。ただ重い前脚を振るい、体当たりし、噛みついてくる魔物を装甲で受け止める。
洗練された戦闘ではなかった。むしろ、壊れた体で無理やりリネアを守るための、痛々しい防衛だった。
最後の一匹が仲間の悲鳴に怯え、森の奥へ逃げていく。
旧街道に静寂が戻った。
リネアはしばらく息をすることも忘れていた。
やがて、機械獣の体が大きく傾いた。
「っ、危ない!」
リネアは思わず駆け寄った。支えられる大きさではない。
それでも、彼女は咄嗟に胸部装甲へ手を伸ばし、割れた内部を覗き込む。
碧い結晶の光が激しく乱れていた。応急処置で繋いだ銀線の一本が焼き切れかけている。
「駄目、消えないで……!」
リネアは膝をつき、工具を取り出した。
指が震え、視界が滲むが手は止めなかった。
焼けた銀線を切り、残った線を寄せ、絶縁布を挟み込む。
魔力を流しすぎれば壊れる。弱すぎれば止まる。
時計よりもずっと大きな、けれど今にも止まりそうな心臓を、リネアは必死に繋ぎ止めた。
碧い光が、かすかに戻る。
機械獣の単眼が、ゆっくりとリネアを見た。
『保護対象、損傷なし』
「私のことより、自分の心配してよ……!」
リネアの声は震えていた。
『目的達成』
「達成じゃない。あなたまで壊れたら意味ないでしょ」
そう言った瞬間、リネアは自分でも驚いた。
なぜ、こんなに必死なのだろう。
昨日まで、この機械獣のことなど知らなかった。
名前もない。過去もない。言葉だってまだ少ししか交わしていない。
それなのに、絶対に失いたくないと思っている。
機械獣はしばらく沈黙した。
そして、掠れた声で言った。
『記録。修復者は、当機の継続稼働を要求』
「そうだよ。要求します」
リネアは涙を拭うこともせず、強く言った。
「ちゃんと直すまで、勝手に止まるの禁止」
碧い単眼が、一度だけ静かに瞬いた。
『了解』
その返事は短かったが、リネアにはそれが約束のように聞こえた。
一人と一機は再び歩き出した。
もう空は暗くなりかけている。王都グランベルの外壁が見えたとき、リネアは全身の力が抜けそうになった。
遠くに灯る門前の魔法灯が、今まで見たどんな光よりも温かく見える。
機械獣はリネアの後ろを、ゆっくりと歩いている。
傷は増え、動きはさらに悪くなった。けれど、止まってはいない。
王都外縁の職人街へ続く道に差しかかったところで、リネアは振り返った。
黒い機械獣が、碧い単眼で彼女を見ていた。
遺跡の奥で眠っていたときよりも、ずっと傷だらけで、ずっと不格好だった。
けれど、リネアにはその姿が少しだけ誇らしく見えた。
「帰ろう、私の店に」
彼女は言った。
「あなたを、ちゃんと直すから」
機械獣は答えなかった。
ただ、静かに一歩を踏み出した。
王都の灯りの下、追放された修理師は、壊れた機械獣を連れて帰ってきた。
誰にも必要とされなかった彼女が初めて守られた夜だった。
そして同時に、誰にも直されなかった機械獣が初めて帰る場所を得た夜でもあった。
文字数初回増量50%ブースト期間完了です!いつも拙作をお読み頂きありがとうございます!
次回からはもう少し短めに纏めて、より読み易くなるように考えて参ります。




