第59話 約定の戦士
誰も、ミリアの挨拶に応じなかった。
昇り始めた朝日が、王城前広場を淡い金色に染めている。周囲には金剛騎士団が展開し、そのさらに外側からは、混乱を切り抜けた衛兵たちが続々と集まりつつあった。
すでに完全な包囲ができあがっているというのに、ミリアは少しも焦っていなかった。
「先日は不肖の妹がお世話になったわ」
親しい知人へ語りかけるような声音で、もう一度告げる。
ローデリック王の首筋まで迫っていた細い刃を下ろし、両腕を腰の位置で緩やかに広げた。
降伏するようにも、すべてを迎え入れるようにも見える、鷹揚な受容の姿勢。
ミリアの頭部と背中から伸びる《コードフリーク》の接続端子が、蛇の群れのように鎌首をもたげる。先端にある無数の眼球の機械光が、異なる方角を見渡しながら一斉に瞬いた。
「取り押さえろ! ただし、あの端子には触れるな!」
アーヴィン団長が号令を発する。それに応じようと金剛の騎士たちが武器を構え、一歩を踏み出そうとした。だが、その足が誰にも動かせない。
「な……」
思わず誰かが呻き、騎士が握っていた剣を取り落とす。
重い金属音が石畳へ響いたあと、本人は一拍遅れて、自分の手から剣が失われたことに気づいた。
別の騎士が炎属性魔術を放とうとする。掲げた掌へ集まった火球は、術式を形作る前に不規則に脈動し、火の粉となって弾け散ってしまう。
バルグ副団長は盾を持ち上げようとしていた。しかし、腕へ込めたはずの力が途中で失われ、盾の下端が石畳を擦る。
誰もが自分の意思と身体の動きが噛み合っていないことに気付き始めた。
「これは……魔術か」
ローデリック王が掠れた声を漏らした。
「ええ。けれど、気づくのが少し遅かったわね」
ミリアは広げた鷹揚な両腕を動かさない。その周囲を《コードフリーク》の接続端子だけが優雅にたゆたっている。
「【マナ・シェイカー】」
ミリアがそう唱えれば、空間を満たしていた魔力が細かく震えた。
魔術師たちの体内で循環していた魔力が乱され、構築途中の術式が次々と崩壊していく。
「【ナーブ・ジャミング】」
続いて、騎士たちの身体から力が抜けた。
意識上では腕を振り上げているのに、実際の腕はまだ腰の位置にある。走ろうとした兵士の足がもつれ、石畳へ倒れ込む。
「【リアリティ・ヘイズ】」
三度唱えられた術式によって世界が急速に濁った。
朝日の輪郭がぼやけ、広場にいる者たちの動きが幾重にも重なって見える。
誰かの悲鳴を聞いても、なぜその者が叫んだのかを理解できたのは、数秒も後だった。
単純に魔力を奪うのでもなく、身体を拘束するのでもない。
魔術、運動、認知。戦うために必要な三つの機能へ同時に干渉し、敵対者を内側から無力化する。
「すでに……全員が、アーキテクトの術中に……」
リネアはルクスの装甲へ手をつき、辛うじて倒れることだけは堪えた。
長銃を握る右手が、自分のものではないように重い。照準を合わせようとしても、銃身は意識した場所へ一拍以上遅れて動く。
義眼を通して共有されるルクスの観測情報さえ、薄い霧の向こうから届くようだった。
『運動神経および認知処理への外部干渉を確認。リネア、当機から離れないよう提案する』
「うん……今はそうするしかないみたい」
辛うじて返事をした自分の声すら、他人のもののように遠く聞こえる。
ミリアはそんな人間たちの混迷を見渡し、慈しむように目を細めた。
「眠りなさい、人間の子たち。二度と覚める必要のない夢の中へ、私が導いてあげる」
広げられていた両腕が、ゆっくりと持ち上がる。
「【ダガーレイン】」
広場の上空へ、術式の発現と同時に紫色の光点が無数に灯った。
それらは瞬く間に明瞭な輪郭を得て、魔力によって練成された短刀へ変わる。数百本の切っ先が、一斉に地上を向いた。
「防御陣形!」
危機を察知したアーヴィン団長が叫ぶが、騎士たちの反応はあまりにも遅い。そこへ容赦なく短刀の雨が降り注いだ。
盾を掲げきれなかった兵士の肩へ刃が突き刺さる。魔術防壁を展開しようとした魔術師は術式を霧散させられ、胸を貫かれた。衛兵たちが次々と倒れ、石畳へ鮮血が飛び散る。
バルグ副団長は動かない腕を咆哮とともに無理やり持ち上げ、巨大な盾をローデリック王の頭上へ差し出した。無数の短刀が盾を打ち、腕と負傷した膝が悲鳴を上げる。
セリカ副団長は傍らにいた騎士を突き飛ばし、その代わりに自らの肩を刃で貫かれた。
ルクスが四脚を踏みしめ、リネアの前へ躍り出る。相棒を守る黒い重装甲へ、短刀が次々と突き立った。弾かれた刃が周囲の石畳を砕く。
リネアはルクスの腹部装甲へ身を寄せ、降り注ぐ刃から頭を守った。そのすぐ傍へ短刀が突き刺さり、砕けた石片が頬を掠める。
やがて、刃の雨が止んだ。
広場には、数え切れないほどの短刀と、動かなくなった者たちが残されていた。
その惨禍の中心で、白地に金の全身鎧が光を放つ。ローデリック王の鎧へ刻まれた魔術紋が、重なり合う弱体化魔術へ抗っていた。
「我が民への度重なる狼藉……これ以上、好きにはさせん!」
王は盾の下から力強く踏み出した。まだ万全にはほど遠いものの、固く長剣を握り、ミリアへ向かって雄々しく駆ける。それとほぼ同時に、アーヴィン団長も反対側から斬り込んだ。
王装と騎士団長の鎧。それらはいずれも極めて高い魔術抵抗力を備えていたため、二人は誰よりも早く弱体化の淵から這い上がっていた。
ローデリックの斬撃が、ミリアの胴を薙ぐ。アーヴィンの剣が、その背中を袈裟に斬り下ろした。
二本の剣が、確かに女の身体を捉えるが、そこに手応えはなかった。
刃に断たれたミリアの姿が、紫色の粒子となって崩れ落ちる。
「幻影だと……!」
すでに本体は、その座標から姿を消していたのだ。
そして広場の各所で、異変が起きる。生き残っていた潜入型魔導ゴーレムたちの輪郭が一斉に揺らぐ。
騎士の鎧を纏っていた個体。従僕や衛兵、市民へ化けていた個体。
それらの偽りの皮膚と衣服が紫色の光に包まれ、その体格までが細く変形していく。
数瞬の後、潜入型魔導ゴーレムはすべてミリアと同じ姿へ変わっていた。
何かを悟っているかのような穏やかな笑み。細長い肢体。頭部と背中から伸びる、無数の接続端子。
十人を超えるミリアが、一斉に顔を上げた。
一体が短刀を投擲する。反応の遅れた騎士の脇腹へ刃が突き刺さり、その身体が地面へ倒れた。
別の二体は両手に細身の剣を形成し、金剛騎士団の陣形へ斬り込んでいく。
人間への擬態を維持する必要がなくなった潜入型は、本来の戦闘性能を遺憾なく解放しているかのようだ。
ミリアたちは身体能力も、反応速度も、人間を遥かに凌駕している。
「ルクス……本物はどれ?」
『敵性個体を十三体検出。全個体がミリアに近似した外見および魔力波形を示している』
「近似……ってことは見えてるのはどれも本物じゃない?」
『ミリア本体は光学迷彩を再展開。現在位置は不明』
すべての偽物が敵であることは分かる。だが一方で、倒すべき本体だけが見つからない焦燥感。
迷いや逡巡を振り切るように、リネアはルクスの装甲へ長銃を預けるようにして構えた。
視界の中で、何人ものミリアが重なる。実在する潜入型と、ミリアが生み出した実体のない幻影。
さらに、認知の遅延によって残った過去の残像。お陰でどれが現在の姿なのかさえ、容易には判別できない。
広場を取り囲むミリアたちの口が、同時に開いた。
「我ら煉獄の業火より生まれ出でし機械生命の灯。今こそ現生種を駆逐し、主神に新たなる世界を献上する時」
同じ声が幾重にも反響する。潜入型魔導ゴーレムたちが剣を掲げ《コードフリーク》を模した接続端子群が天を指した。
「約定の戦士ミリアが告げる。人間の時代の終焉を」
潜入型が一斉に動き出すのを、金剛騎士たちが迎え撃ち、広場の至る所で剣と刃が激突していく。
リネアはその混戦の中で、一つの違和感を捉える。ローデリック王の背後である。
そこには誰もいなければ、熱源も、魔力反応も、ルクスの敵性標識印さえ浮かんでいなかった。
それでも、宙を舞う砂埃が不自然に二つへ分かれている。朝日が細く屈折し、王の外套の輪郭がわずかにぼやけていた。
存在しないことが逆に浮き彫りにする透明な輪郭の実在。
「陛下!」
リネアはバイナリーライフルの銃身を動かした。【ナーブ・ジャミング】によって鈍った腕が、照準へ追いつかない。
それなら、遅れる分だけ早く引けばいい。銃口が空白の座標へ重なる直前、リネアは引き金を引いた。
重厚な銃声が響き、滑空した弾丸が何もない空間で橙色の火花を散らす。
金属同士が激突する甲高い音とともに、ローデリック王の首筋へ迫っていた細い刃が弾かれた。
朝の景色が揺らぎ、ミリアの姿が一瞬だけ露わになる。
「また……私を見つけたのね」
その声音には怒りではなく、わずかな感心が滲んでいた。しかしながら、次の瞬間にはミリアは再び姿を消してしまう。
リネアは次弾を装填しようと弾倉を取り出した。しかし指が思うように動かず、弾倉を一度取り落としかける。
「くっ……」
『リネア。対象の魔術行使に外部からの増幅を確認』
「外部……どこかに他の敵がいるの?」
『三種の妨害波が更新されるたび、上空から同一周期の魔力波を検出している』
ルクスの碧い単眼が、広場の上空へ向けられた。
そこには何も見えず、薄青い空と朝日に照らされた雲があるだけだ。
『ミリア単独による領域掌握ではない。上空に支援個体が存在する』
「見えないけど……いるんだね」
『肯定。敵性個体、デルタバーテックスと推定』
ルクスの背部でレーザーディスチャージャーの連装砲に淡い碧色の光が集まり、それぞれの砲口へ収束し始める。
その低い駆動音が広場全体を震わせ、ルクスの意図を察した潜入型が、一斉に攻撃の矛先を変える。三体のミリアが両手に刃を形成し、ルクスへ迫った。
「させない……!」
リネアはルクスの装甲に長銃を固定し、装填してどうにか照準を合わせ発砲する。
駆けよってきていた先頭の潜入型の膝が砕け、その身体が石畳を滑った。
そして別の個体が投擲した短刀を、アーヴィン団長が横から斬り払った。
「ルクスを守れ! 彼が反撃の要だ!」
団長の指揮に応じて、金剛騎士団が一丸となって動く。弱体化に抗える者たちが、ルクスを中心に即席の防御陣形を組んだ。
ローデリック王の長剣が潜入型の胸を貫く。引き抜くと同時に身体を回転させ、背後から迫っていたもう一体の首を斬り飛ばした。
首を失った潜入型はそれでも止まらず、双剣を振り上げる。そこへリネアの銃弾が飛び、胸部の魔導核を撃ち抜く。
爆ぜた魔導核から紫色の光が噴き出す。ルクスの背中では、光の収束が加速した。
『充填率、八十六パーセント』
空中に隠れていた何かが、ようやく危険を察知する。
景色の一部が大きく歪み、上空から魔力の奔流が溢れ出した。
だが、もう遅い。
ミリアの魔術効果を増幅し、広場全体の認知を掌握することへ演算能力を集中させていたデルタバーテックスは、まともな防御姿勢すら取れていなかった。
『充填完了。照射』
碧い二条の閃光が、王城前広場から天へと豪速で駆け上がった。
朝の空に、二本の光柱が突き立つ。直後、何も存在しなかった空間で巨大なエネルギー爆発が起きた。
光学迷彩が剥がれ、隠されていたデルタバーテックスの機影が露わになる。
その機体中央を、収束したレーザーが焼き貫いていた。装甲が内側から赤熱する。
デルタバーテックスは墜落を防ごうと姿勢を変えたが、片側の機構が連鎖的に爆発し、機体が大きく傾いた。
その内部から紫色の光が膨れ上がると、轟音とともに機体が砕け、無数の破片が炎を引きながら王城の外側へ落下していった。
「デルタ……」
広場の片隅で、光学迷彩を失ったミリアが姿を現す。
初めて、その機械仕掛けの瞳が戦場ではないものを見ていた。
燃えながら墜ちていくデルタバーテックスを見上げ、わずかに目を細める。
「そう。あなたたちなら、あるいは届くのかもしれないわね。あの領域に」
果たして誰へ向けた言葉なのか。あの領域、が何を意味するのか。リネアには分からなかった。
ただ、その一言に敗北への恐怖はなかったように感じられる。長い務めの果てに、何かを確かめた者のような、静かな納得だけがあった。
デルタバーテックスの消滅と同時に、広場を覆っていた支配が崩れ始める。
乱されていた魔力が正常な流れを取り戻し、騎士たちの四肢へ力が戻り、濁っていた朝日の輪郭が急速に鮮明になっていく。
何人ものミリアが、広場で明滅する。
幻影と潜入型の同期が乱れ、本物だけが一瞬早く動いた。
ミリアの手の中に、最後の短刀が形成される。狙いはローデリック王ではなかった。
刃先はリネアに向けられている。腕が振り抜かれ、紫色の刃が一直線に飛来した。
『即応迎撃』
ルクスの人型上半身が急旋回し、両刃剣クリードディフェンダーが横薙ぎに閃く。
飛来した短刀と黒い刃が激突し、弾かれた短刀が高速で回転しながら石畳へ突き刺さった。
その向こうに、ミリアの胸部が見える。
リネアは即座に長銃を構えた。今度は、腕が意思に遅れずについてくる。
義眼が、ミリアの胸部で脈動する魔導核を捉える。
照準が完全に重なった時、ミリアは逃げなかった。
あの鷹揚な受容の姿勢へ戻るように、静かに両腕を広げる。
リネアはそのまま引き金を引いた。放たれた弾丸が、ミリアの胸部へ吸い込まれる。
乾いた破砕音とともに魔導核の表面に亀裂が走り、その中心から紫色の光が溢れ出した。
《コードフリーク》の接続端子が力を失い、一本ずつ垂れ下がっていく。先端にある無数の眼球が、静かに閉じられた。
ミリアは砕けた胸部へ手を添えた。不可解なことに、その身体が足先から灰へ変わり始める。
「機械生命に……永遠の繁栄を……」
最期の瞬間まで、その声音に怨嗟はなかった。
約定に従い、機械に生まれた命のために戦い、その行きつく先で果てる。
ただそれだけを受け入れた戦士の顔で、ミリアは穏やかに微笑んだ。
朝の風が吹く。灰となった身体が崩れ、風に乗って空へ消えていった。
直後、広場に残っていた潜入型魔導ゴーレムが一斉に動きを止めた。
双剣を振り上げていた者、騎士と組み合っていた者、逃げる兵士の背を狙っていた者。
それらすべての胸部から、同時に亀裂の走る音が鳴る。連鎖的に魔導核が砕けていた。
ミリアの姿を保っていた偽りの肉体が灰へ変わり、武器も、接続端子も、穏やかな笑みも、柔らかな朝日の陽光の中で崩れ落ちていく。
それは王城前広場だけではなかった。王都の街路で、衛兵の詰め所で、兵士たちの指揮所で。
市民と同じ顔をして刃を振るっていたすべての潜入型が、胸部の魔導核を崩壊させていく。
偽りの家族に追われていた者の前で。互いを疑い、剣を向け合っていた兵士たちの間で。
人間の顔を盗んでいた機械たちは、次々と灰になって消えていった。
広場から戦いの音が失われる。勝ちどきを上げる者はいなかった。
石畳に倒れた仲間たちを前に、騎士も兵士も、その身にまとわりつくような死闘の余韻の中でただ荒い息を繰り返している。
リネアは思い出したように銃口を下ろした。
風に運ばれてきた一片の灰が、手の甲へ触れる。
それもすぐに形を失い、朝日の中へ溶けていった。
第三席次ミリア。
人間の時代の終焉を告げた、約定の戦士。
彼女の姿は、もうどこにもない。
それでも、彼女が最期に残した言葉だけが、義眼の奥へ焼きついたように消えなかった。
――あの領域。
千の偽りの顔が消え去った朝、その言葉だけが新たな謎として、勝利の実感のないリネアとルクスの前に残されていた。
個人的に気に入っていたミリアが戦死してしまったので、心の中がお通夜状態です。ミリアよく頑張ったよ。永い時を戦い続けてきた戦士の覚悟に、不朽の敬意を捧げる。




