第58話 千の顔が目覚める朝
【挿絵→アーキテクト第三席次ミリア】
首筋を、冷たいものが撫でていた。
それが刃物だと気づくまでに、そう時間はかからなかった。
鋭く研ぎ澄まされた刃先が、リネアの右耳の下から鎖骨へ向かって、ゆっくりと滑り落ちていく。
皮膚は切れず、血も流れないが、あとわずかに力を込められただけで命を奪われると分かる冷たさが、首筋に纏わりついて離れない感覚。
逃げようとしても身体が動かないし、声を上げようとしても、喉からは掠れた息しか漏れなかった。
周囲には何もないようで、地面も壁も見えない暗闇の中で、背後に立つ誰かの気配だけが、異様なほど鮮明だ。
「怖がらなくてもいいのよ」
女の声が、甘く耳元で囁く。それは聞き覚えのある声だった。
王都を襲った無数の魔導ゴーレムを統率し、リリエルの死を遠くから見届けながら、一切手を出さなかった女。
アーキテクト第三席次――ミリア。
視界の端に白い指先が現れ、その指がリネアの顎を下から持ち上げる。逃げることも拒むことも許さない、愛撫にも似た触れ方。
「この世界を正しい在り方に戻せるのは、私達だけ」
刃先が喉の中央を横切る。鼓動に合わせて皮膚が動くたび、薄い刃がわずかに擦れた。
「人は忘れ、壊し、同じ過ちを繰り返す。自分たちの作り上げたものが何を思い、何を訴えているのか、知ろうともしない」
暗闇の向こうで何かが蠢き、蛇のように長い影が一本、また一本と浮かび上がる。
先端に金属製の接続端子を備えた異形の触手。それらはミリアの頭部や背中から生え、一本一本が意思を持っているかのように身をくねらせていた。
「貴女には、できることなら仲間になってほしいわ」
ミリアの顔が、リネアのすぐ横に現れ、そこには穏やかな微笑みが湛えられていた。
妹のように可愛がっていたリリエルを撃ち殺した仇へ向けられるものとは思えないほど、優しい笑顔。だからこそ、それが刃物よりも恐ろしかった。
「どうして……私を……」
ようやくそれだけ声を絞り出すと、その問いに、ミリアは嬉しそうに目を細める。
「分からない?」
無数の接続端子がリネアを取り囲み、一斉にその先端を開き、その奥に収められた眼球状の観測機構を露出させる。
人ならざる瞳が、四方八方からリネアの左眼と右の義眼を覗き込んだ。何百もの機械音声が、暗闇の奥で名前を呼ぶ。
――リネア。
――リネア・ギアライト。
――見つけた。
――ようやく、見つけた。
一本の接続端子が《アルゴス・レプリカ》へ向かって伸びてくる。
逃れようと必死にもがくリネアの耳元で、ミリアは最後の言葉を囁いた。
「リネア・ギアライト。貴女には、機械の声が聞こえているのだから」
接続端子がリネアの義眼へ突き刺さる――
「――っ!」
リネアは跳ね起きた。
荒い呼吸を繰り返しながら、反射的に首筋へ手を当てる。
傷はなく、血も流れていない。それでも、刃物が這った場所には冷たい感触が残り、義眼の奥では針を突き立てられたような痛みが脈打っていた。
『リネア』
暗い部屋の隅で、碧い光が灯る。
床に伏せていたルクスが立ち上がり、寝台の傍らへ歩み寄ってきた。
『心拍数および呼吸数の急激な上昇を検出。外傷の有無を確認する』
「大丈夫。夢を、見ていただけ……」
『発汗量が平常値を大幅に超過。悪夢と推定』
「うん。嫌な夢だった」
リネアは左手で胸元を押さえ、乱れた呼吸を整えようとした。薄い毛布の向こうまで、夜明け前の冷気が染み込んでいる。
灰貨商会の地下工房。その奥に設けられた仮眠室には窓がなく、外の様子は見えないが、換気口から流れ込む空気の匂いで朝が近いことは分かった。
眠りについたのは、それほど前ではない。
アールと名乗る情報屋から第三席次の次なる攻勢を警告されて以来、リネアは深く眠れなくなってしまっていた。
謎の情報屋の警告から二日。王国上層部にも情報は伝えられ、王都の警戒は強化されている。防壁や城門では昼夜を問わず衛兵が目を光らせ、損傷した防衛設備の復旧も進められていた。
今のところ新たな魔導ゴーレムの接近は確認されていないものの、悪夢の中で囁かれた言葉をただの偶然だとは思えない気持ちもある。
「ルクス。外の状況は?」
『地下工房内に異常なし。地上部との通信は――』
ルクスの言葉がそこで不自然に途切れた。
碧い単眼が鋭く収縮し、頭部を天井へ向ける。
『音響感知。地上にて複数の衝撃音を検出』
直後、遠くから悲鳴が聞こえてくる。それは一人の声だけではなかった。
男の怒号、女の叫び声、何か重いものが地面へ倒れる音。続いて鳴り響いた警鐘は、三度目で不自然に途切れる。
『警告。王都各所より戦闘音を検出。急速に増加中』
「まさか……!」
リネアは寝台を飛び降り、傍らへ置いていた装備へ手を伸ばした。
治療院から安静を命じられていた身体は、まだ完全には回復していない。それでも素早く装備を身に着け、長銃を手に取る動きに迷いはない。
地下工房を出て、傷ついた階段を駆け上がる。
商会の一階では、ヴィオラと数人の商会員が騒ぎを聞きつけて集まっていた。ルクスが全員を素早く走査し、異常がないことを確認する。
「ヴィオラさん。地下へ避難してください」
「外で何が起きているの?」
「まだ分かりません。だから、私たちが見てきます」
ヴィオラは何かを言いかけたものの、長銃を握るリネアと、その前に立つルクスを見て口を閉じた。
「分かったわ。マルタ婆さんたちは、私が地下へ連れていく。あなたも無茶はしないで」
「はい、任せてください」
半壊した扉を押し開け外へ出ると、夜と朝の境目にある王都を薄青い光が覆っていた。
いつもなら朝市の支度を始める人々の声が聞こえる時間だ。しかし今、通りに響いているのは悲鳴と怒号ばかりだ。
路地の出口に、一人の衛兵が倒れている。喉を深く切り裂かれ、石畳には黒い血溜まりが広がっていた。
その傍らに膝をついていた別の衛兵が、リネアたちへ顔を向ける。
「助けてくれ! 突然、仲間が――」
『敵性反応を検知』
ルクスの背部でレーザーディスチャージャーの砲身が持ち上がると同時に、衛兵の身体が跳ねる。
助けを求めていた表情が消え、腰の剣へ手を伸ばした直後、ルクスの放った拡散レーザーがその胸部を貫いた。
衛兵の身体が石壁へ強かに叩きつけられる。人間の皮膚に見えていたものが裂け、その下から細い金属骨格と脈動する魔導回路が露出した。
傷口から流れ出したのは血ではなく、銀色に光る冷却液だった。
「魔導ゴーレム……?」
『肯定。ただし、既知の個体と構造が大きく異なる模様。人間への擬態に特化した潜入型と推定』
喉を切られ倒れていた衛兵の手がかすかに動く。まだかすかに息があるようだ。
リネアが駆け寄ると、血に濡れた指が彼女の外套を掴む。
「俺と……同じ顔の奴が……詰め所に……」
それだけを告げ、衛兵の腕から力が抜けた。そして遠くから、再び悲鳴が上がる。
「いたぞ! こいつが偽物だ!」
「違う、俺は人間だ! そいつの方が――」
言い争いは全く同じ声のように聞こえ、角を曲がった先で、まったく同じ顔をした二人の兵士が剣を向け合っていた。
片方が助けを求め、片方が相手を偽物だと叫ぶ。鎧の傷も、頬についた煤も、寸分違わない。
周囲へ集まった市民たちは、どちらを信じればよいのか分からず唖然と立ち尽くしていた。
『右側の個体を敵性と判定。胸部に小型魔導核反応を検出』
ルクスのサポートに、リネアは迷わず長銃を構えた。銃声が早朝の街路を打つ。
右側の兵士の胸に穴が開き、衝撃で身体が仰け反った。その口が人間のものとは思えないほど大きく裂け、剥がれ落ちた顔の下から無貌の金属頭部が現れる。
潜入型魔導ゴーレムはなおも剣を振り上げたが、ルクスの両刃剣クリードディフェンダーの一撃が頭部を粉砕した。
それでも完全には停止しないので、リネアは露出した胸部へ二発目を撃ち込み、魔導核を破壊する。ようやく動きを止めた偽物を前に、本物の衛兵がその場へ膝をついた。
「こいつ……俺の声だけじゃない。昨日の夜に話したことまで知っていた……」
戦慄すべき内容に答える間もなく、王都の別の区画から警鐘が鳴る。
東からは三回、西からは五回。しかし、王城方面からは何も聞こえない。代わりに、市街の至る所で剣戟と悲鳴が広がっていく。
すでにアーキテクトの攻撃は始まっていたのだ。防壁の外から押し寄せる侵攻ではなく、敵は王都の中で眠り、衛兵や市民と同じ顔をして朝が来るのを待っていたのだろう。
「随分と酷い顔ね」
すぐ傍から聞き覚えのある声が聞こえ、弾かれたようにリネアが振り返る。
家屋の屋根の上に、ミリアが立っていた。夢の中と同じ穏やかな笑みを浮かべ、首を傾げている。
「眠れなかったのかしら、リネア・ギアライト」
反射的に銃口を向けるが、ルクスが制止する。
『警告。照準座標に敵性体は存在しない』
「え……?」
ルクスの声と同時に、屋根の上のミリアが消える。そこには怯えた様子で身を寄せ合う母子がいるだけだった。
リネアの指は、引き金へ力を込める寸前で止まっていた。あとわずかに遅ければ、民間人を撃ってしまっていたということか。
「今のは……」
『リネアの視覚情報に、実在しない像が混入しているものと推測』
義眼の奥が熱を帯びる。視界の端で、紫色の文字列に似たものが走った。
路地の奥、割れた窓、建物の屋上、横たわる死体の傍ら。王都の至る所に、ミリアが立っている。
ある者は微笑み、ある者は背を向け、ある者は手招きをしていた。そして何十人ものミリアが、声を揃えて囁く。
――さぁ、こちら側へ。
――貴女なら分かるでしょう?
――その眼で、私達をよく見て。
首筋に、再び冷たい刃の感触が蘇る。
「違う……これは、現実じゃない」
『リネア。視界共有の開始を提案する』
「でも、今の私の視覚情報がルクスにも入ったら――」
『当機の観測情報を主系統に設定。リネア側から流入する情報は遮断可能』
目の前にいるミリアが、くすりと笑う。その向こうで、誰かが助けを求めて叫んでいた。
自分の眼はもはや信用できないが、信頼できる眼ならばすぐ傍にある。
「ルクス。視界を貸して」
『了解 《アルゴス・レプリカ》との接続を開始』
義眼の奥で微かな駆動音が鳴り、リネアの視界へ、ルクスが捉えている情報が重なる。
熱源、音響反射、魔力循環、建物の陰で動く人影の輪郭。
無数の情報が碧い光となって流れ込み、王都の景色を塗り替えていく。
ミリアの幻影だけが、そのクリアな視界には存在しなかった。
代わりに、人間へ擬態した潜入型ゴーレムの胸部へ、赤い標識印が浮かび上がる。
『前方、三十七メートル。荷車の陰に敵性個体』
指示に合わせて、リネアは照準を絞る。荷車の脇に立っていたのは幼い少女であり、泣きながら母親を呼んでいた。
それでも、ルクスの視界には、少女の小さな身体へ不釣り合いな金属骨格と魔導核が映し出されていた。
リネアは一瞬だけ息を止め、相棒の視界を信じて冷徹に引き金を引く。
目前で少女の姿をしたものが吹き飛び、石畳の上で金属の塊へと戻った。その袖口から、血に濡れた短剣が転がり落ちる。
『左方、接近中。二体』
「もう見えてる」
立て続けに二発の銃声が大気を震わす。兵士に擬態していた一体の膝を撃ち抜き、続く弾丸で魔導核を破壊する。
もう一体が剣を投げ放つが、ルクスが前へ出て可変盾で弾いた。その間にも幻影の声が頭の中で笑う。
――本当に、それが倒すべき敵なの?
――機械たちの声が高まっているわ、貴女にも聞こえてきたでしょう?
リネアはその声を努めて意識から締め出した。もう自分の眼だけでは判断できない。ルクスも、すべてを瞬時に見抜けるわけではない。
密集した人々の中では熱源が重なり、建物越しでは走査精度も落ちる。ミリアによるものと思われる断続的なノイズも、絶えず観測情報へ混入していた。
それでも、一つずつ確かめていくことはできる。自分一人の視界ではなく、二人で共有した答えだけを信じればいい。
「ルクス。敵の狙いは、ただ人を殺すことじゃないよね」
『同意。潜入型は衛兵および伝令役を優先的に排除している。王都の指揮命令系統を破壊し、同士討ちを誘発することが主目的と推定』
味方の顔をした敵。偽物が運ぶ、偽物の命令。
そうして疑心暗鬼に陥った兵士たちは、正しい命令を受けても信じられなくなっていく。
その混乱を決定的なものにするため、真っ先に狙われる人物は誰なのかと考えれば。
「王様……!」
『ローデリック王が殺害された場合、王国軍の統制崩壊は避けられない』
「王城へ行こう。ミリアがいるなら、きっとそこに――」
――言い終えるより早く、ルクスが身を低くした。リネアはその背へ飛び乗り、固定具を掴む。
『騎乗を確認。最短経路を算出』
「お願い、ルクス!」
黒い四脚が石畳を蹴った。薄明の王都を、ルクスが駆け抜ける。
道中には、同じ顔をした人間が何人もいた。互いに自分こそ本物だと叫ぶ兵士。
家族と同じ姿をした何者かに追われる市民。助けを求めながら、近づいた相手の胸へ刃を突き立てる偽物。
リネアはルクスが敵と判定した個体だけを的確に撃ち抜いた。無論すべてを救うことはできない。立ち止まれば、その間にも王城が危険に晒されてしまう。
何度も目の前へ現れるミリアの幻影を、奥歯を噛み締めて振り払う。そうして城へ近づくにつれ、炎属性魔術の光が王都の各所で上がっていた。
王室直属騎士団は、六つの区画から同時に届けられた偽の襲撃報告によって分散させられている。王命を騙る伝令まで現れたらしく、部隊同士の連絡も途絶していた。
やがて王城が見えた。本来なら固く閉ざされているはずの城門が、開け放たれている。
門の内側には衛兵たちの死体が転がり、開閉機構は破壊されていた。
『城内より多数の戦闘反応を検出』
「間に合って……!」
ルクスが城門を突破すると、その先に広がる王城前広場では、同じ鎧を纏った騎士たちが互いに剣を向け合っていた。
「俺が本物だ! そいつを斬れ!」
「違う! こいつが偽物だ!」
二人の騎士が、まったく同じ顔と声で叫ぶ。一方が相手の肩を斬り裂けば、もう一方も同じ声で悲鳴を上げる。
どちらが人間で、どちらが魔導ゴーレムなのか、外見だけでは判別できないのだ。
広場の中央では、金剛騎士団がローデリック王を守っていた。
白地に金の装飾を施した全身鎧に身を包む国王の周囲で、副団長バルグ、副団長セリカ、そして団長アーヴィンが辛うじて防衛線を維持している。
バルグは片膝を負傷し、セリカの額からは血が流れていた。アーヴィンも肩口を斬られ、剣を握る腕がわずかに震えている。それでも、彼らは倒れずに持ち堪えてくれていた。
助けを求めて近づいてくる部下を拒み、同じ鎧を纏う相手へ剣を向けなければならない混沌とした戦況。
周囲にいる騎士のうち誰が敵なのか分からず、その疑いは味方同士を少しずつ孤立させていく。
「陛下!」
そんな広場に響いたリネアの声に、アーヴィンが振り返る。
「止まれ!」
団長のソードブレイカーの剣先がリネアたちへ向けられた。
「それ以上、陛下へ近づくな!」
「私はリネア・ギアライトです!」
「今は、名前など証明にならん!」
確かにアーヴィンの判断は正しい。
リネアとルクスが本物だという保証など、今の彼らにはないのだから。
『王の右後方、敵性個体。距離九十二メートル』
共有されたルクスの視界に赤い標識印が新たに浮かんだ。
ローデリック王のすぐ傍で、負傷した騎士がよろめいている。その剣は折れ、片腕は力なく垂れ下がっていた。
しかし、胸部には人間のものではない魔力循環がある。その騎士が倒れ込むように前へ出た。
折れた剣の切っ先が、ローデリック王の脇腹へ向く。
リネアは迷わず引き金を引き、弾丸が騎士の胸を貫く。
人間であった姿が歪み、露出した魔導核が国王の眼前で爆ぜた。
「敵は、ルクスが見分けられます!」
返答を待たず、次弾を装填する。
『バルグ副団長の左。敵性個体』
「バルグさん、伏せて!」
バルグが咄嗟に身を沈めたその背後で、剣を振り上げていた騎士の額を、弾丸が撃ち抜いた。
『追撃を推奨。頭部破壊のみでは停止しない』
「分かってる!」
続いた二発目が騎士の胸部の魔導核を射抜く。
さらに右方、王城へ続く階段の下で倒れた仲間を介抱するふりをしていた騎士。
味方へ紛れ込もうとしていた従僕。リネアの銃口が一体ずつ追い、正確に魔導核を撃ち抜いていく。
次々と人間の皮膚が裂け、偽りの血肉の下から金属の骨格が晒されるたび、金剛騎士団はわずかずつ統制を取り戻した。
「リネアの射線上から退け!」
団長アーヴィンが叫ぶ。
「撃たれた者が敵だ! 陛下を中心に陣形を組み直せ!」
これでも完全な解決ではない。ルクスの走査には時間がかかり、すべての騎士を即座に識別することはできないからだ。
それでも、無差別な斬り合いが止まり始めたことの功績はあまりに大きい。
リネアは深く息を吸い、次の標的を探す。義眼の奥が焼けるように痛む。
長時間の視界共有に加え、ミリアの認知干渉を受け続けた負荷が、頭痛と吐き気になって押し寄せていた。
潜入型魔導ゴーレムとともに広場を埋め尽くしていたミリアの幻影が、一人、また一人と消えていく。
そうして視界の端で最後に残った一人が、ローデリック王の背後で穏やかに微笑んだ。
――本物の私を見つけられるかしら?
幻影が消え、そこには誰もいなくなる。
「ルクス。敵性反応は?」
『走査継続。広場内に残存する潜入型は――』
ルクスの声が不意に途切れた。碧い単眼が、ローデリック王の背後へ向く。
そこに熱源はなく、魔力反応もなければ音さえ聞こえない。
しかし、目を凝らすとその周囲だけ朝日がわずかに歪んで見えている。
広場を吹き抜ける風に舞った埃が、何もない空間を避けて流れていた。
さらに反響する剣戟の音も、その一角だけが不自然に抜け落ちている。
つまり何も存在しないはずの空間に、存在しないことの輪郭が不自然にあるのだ。
『国王の背後に人型未確認対象を検出』
「陛下、離れて!」
リネアの必死の叫びに、ローデリック王が振り返る。それと同時に、ルクスの右腕が地面へ伸びた。
落ちていた長剣を掴み、そのまま全力で投擲する。真っ直ぐ滑空した長剣が、国王の肩越しに何もない空間を切り裂いた。
硬質な衝突音とともに橙色の火花が散る。長剣は空中で弾かれ、石畳へ突き刺さった。
その直後、朝の景色に亀裂が走る。透明だった輪郭へ色が戻り、一人の女が姿を現した。
国王の首筋まであとわずかという場所に、細い刃を突き出している姿勢。
その頭部と背中からは、無数の接続端子が伸びていた。蛇の群れを思わせる端子が宙を這い、長いコードを絡ませ合う。
先端に備わった眼球状の観測機構が一斉に開き、広場にいるすべての者を異なる方向から見つめていた。
認知干渉盟装 《コードフリーク》
悪夢の中でリネアを取り囲んだ異形が、昇り始めた朝日の中へ晒される。
第三席次ミリアは、国王へ向けていた刃を静かに下ろした。自らを取り囲む金剛騎士団にも、長銃を構えるリネアにも、少しも怯えた様子はない。
ただ親しい知人と再会したかのように、穏やかな笑みを浮かべている。
「おはよう、リネア・ギアライト。良い朝ね。先日は不肖の妹がお世話になったわ」
仇敵を前にしているとは思えないほど、友好的ですらある声音だけに不気味さが際立つ。
悪夢の中にいたはずの女が、今度は朝日の下で微笑んでいた。




