第56話 砲火の花が散るとき
撃てるのは、一度だけ。
理屈ではなく、研ぎ澄まされた本能がリネアにそう告げていた。
リリエルが腰掛けた花芯の奥では、二門の主砲と残された副砲、多数の機関砲塔が一つの巨大な砲撃機構へ組み替えられている。
砲身を満たしていく光は、すでに直視することさえ難しい。あと数秒もあれば《カラミティブルーム》は王国側の戦線を丸ごと呑み込むだろう。
たとえ誰かが初撃を防いだとしても、二度目はない。そして、二度目がないのはこちらも同じだった。
一度撃てば狙撃位置を知られ、今度こそリリエルはあらゆる砲口をリネアへ向けるだろう。
撃ち損じれば終わる。だからこそ、迷う必要はないのかもしれない。
リネアはルクスの背で《バイナリーライフル》の銃床へ頬を寄せる。
崩れかけた建物の陰で、ルクスは完全に呼吸を止めた獣のように身を伏せていた。
『敵砲撃機構、推定充填率六十八パーセント』
「分かってる」
『警告。リネアの残存魔力量は、安全限界を下回りつつあり』
「それも、分かってるよ。きっと大丈夫、私達なら」
短く答え、呼吸を整える。大きく吸って、静かに吐いて。
その間に右の義眼に浮かぶ碧い菱形光彩が、一つずつ重なっていき分析に集中する。
彼我の距離、大気の揺らぎ、周囲を舞う粉塵、標的の微細な動き、全身を這う《マックス・アモー》の魔力流路。
そして、その中心に座すリリエル。あらゆる情報が解析され、最適解たる弾道を示す一本の細い線へ収束していく。
リネアの右眼の奥を鋭い痛みが貫いた。頭蓋の内側で何かが軋み、滲んだ血が頬を伝う。それでも、照準は片時も揺らさなかった。
耳に砲声が遠ざかる。兵士たちの叫びも、地響きも、《カラミティブルーム》が発する耳障りな駆動音さえも遠ざかっていく。
静かになった胸の中に、殺意はない。怒りも、憎しみもなかった。
私はただ、あの一点へ弾丸を通す。王都を守るために、ここで戦っている人々を生かすために。
その思いだけを残して、リネアの心は水面のように凪いでいた。
「ルクス。射撃姿勢の固定をお願い」
『受諾』
ルクスの四脚が石畳へ食い込む。背部装甲がわずかに持ち上がり、リネアの身体と銃身を支えた。
装填済みの弾丸へ、残された魔力を注ぎ込む。一滴ずつではなく、せきを切った奔流のように、ほぼすべてを流し込む。
体内の魔力回路が悲鳴を上げ、手足から急速に熱が失われていく。それにも構わず、リネアは術式の練成を止めなかった。
弾体の加速術式と質量増幅術式。
二つの術式を限界まで圧縮し、一発の弾丸へ幾重にも刻みつける。
速くなるほど重く、重くなるほどさらに速く。標的へ到達するまでの一瞬に、速度と質量をそれぞれ二倍以上へ膨れ上がらせる。
ただの弾丸を、城門すら粉砕する攻城槌へ変えるための狙撃魔術の発現である。
そして碧い照準線が、リリエルの胸部で静止した。
『弾道算出完了』
「うん、いいタイミング、こっちも整った」
リネアの人差し指が引き金へ触れる、その瞬間。
遠く離れたリリエルが、両腕を大きく広げた。
「すべて、ぜーんぶ吹き飛ばしてあげる!」
砲火の花が、最も鮮烈に輝こうとしているその時、リネアは息を止める。
「狙撃魔導術――【ハンマーダウン】」
引き金が引かれ、銃口が閃く。轟音が鳴り響くよりも早く、弾丸は射線上の大気を叩き潰していた。
飛翔する一瞬の中で、術式が連鎖的に作動する。弾丸の速度が跳ね上がり、質量が膨れ上がる。
二倍を超えた速度と質量は、互いの破壊力を何倍にも増幅させ、周囲の空気を引き裂きながら突き進む。
リリエルは狙撃に気づいていなかった。
砲撃の充填に意識を集中していた彼女には、その凶弾を知覚することができていない。
だが、《マックス・アモー》は違った。
「ギィ――ッ!」
亀を思わせる頭部が、突如として悲鳴を上げる。
主人へ迫る致命的な危機を察知して、その正体も方角も完全には特定できないまま、《マックス・アモー》は防御機構を緊急作動させる。
全身の装甲が展開し、莫大な魔力が噴き出し、リリエルを中心に幾重もの光壁を形成していく。
全方位エナジーシールド。
あらゆる方向からの攻撃を阻むための、最も確実な緊急防御だが、守る範囲が広いほど、一点当たりの強度は低下する。
狙撃方向へ防御力を集中させていれば、あるいは防げたかもしれない。
しかし、迅速に主人を守ろうとした《マックス・アモー》には、弾道を探るだけの時間がなかった。
リネアの放った凶弾が第一層へ激突し、光壁が爆ぜるが、弾丸は止まらない。
そのまま第二層が砕け、第三層が抉り抜かれる。やがて亀裂が全方位へ走り、残るすべての光壁が連鎖的に崩壊した。
「え――?」
異変に気づいたリリエルが、思わず声を漏らす。その眼前で、最後のエナジーシールドが粉々に砕け散った。
さしもの【ハンマーダウン】も、幾重もの防壁を突き破ったことで威力を削がれてはいる。
弾道もわずかに下方へ逸れているがそれでも、止めるには至らない。
瞬く間に光壁を貫通した弾丸が、リリエルの胴体下部へ命中した。
脆い破砕音とともに少女の身体と砲座の接続部が、まとめて消し飛ぶ。
機械部品と装甲片が宙を舞い、断ち切られた魔力導線から色とりどりの火花が噴き出した。
上半身だけとなったリリエルが、花芯から投げ出される。
それとほぼ同時に《カラミティブルーム》の全砲門から光が消えた。
操作主との接続を失い、巨大砲撃機構が沈黙し、砲身の最奥へ収束していた破滅の光が揺らいだ。
撃ち出されるはずだった膨大なエネルギーが行き場を失い、淡い光の霧となって空へ流れ出していく。
王都を消し飛ばすはずだった一撃が、そうして音もなく霧散していく。
その静寂を引き裂くように、弾着から遅れて《バイナリーライフル》の発砲音が戦場へ届いていた。
リネアの身体から力が抜ける。
「っ……」
バイナリーライフルを抱えたまま、ルクスの背へ崩れ落ちる。
右眼が焼けるように痛み、指先の感覚が薄れ、息を吸うだけで胸が震えた。
『深刻な魔力欠乏症状を確認。意識の保持を最優先してください』
「まだ……見届けてない」
掠れた声で答え、リネアは顔を上げる。碧い義眼だけは閉じなかった。
砲火の花の中心で、何が起きているのか。自分の放った一発が何をもたらしたのか。
そこから最後まで目を逸らすことは、許されない気がした。
▲▽▲―――▲▽▲
リリエルは、冷たい石畳へ仰向けに落ちていた。残された上半身から火花が散っている。
人とは異なる魔導工兵の身体だからこそ、即座に機能を停止することはなかった。
それでも、失われた魔力と損傷の大きさは取り返しがつかない。
「動かない……」
指を曲げようとすると、両腕だけはまだわずかに動いた。
「……もう、撃てないんだ」
力なく空を見上げる先で、王都を覆っていた砲煙が風に流され、その隙間から夜明けの空が覗いている。
勝つはずだった。砲火の花を咲かせて、すべてを焼き尽くすはずだった。
それなのに、自分の多重砲撃空間陣も、砲花も散らされてしまった。
「ギィ……ギィィ……」
耳元で、弱々しい鳴き声がする。
《マックス・アモー》が四脚を引きずりながら近づいてきていた。
変形途中だった砲撃機構は各所が損傷し、巨大な背甲から黒煙を噴いているのだが、それでも歩みを止めない。
瓦礫を押し退け、砕けた火器を引きずり、ようやくリリエルの傍らまで辿り着く。
そして亀を思わせる頭部が、そっと少女の頬へ触れた。
「ギゥ……」
警告音とも、泣き声ともつかない音が漏れる。
「大丈夫だよ、マックス」
リリエルは微笑んだ。先ほどまでの、恐怖を隠すための歪な笑顔ではない。
出会ったばかりの頃と何も変わらない、幼く穏やかな笑みだった。
「ちゃんと守ってくれたね。ありがとう」
「ギィ……」
「あの子の弾、すっごく痛かった。でも、マックスが守ってくれなかったら、何も言えないまま終わってたよ」
残された両腕を持ち上げ、力の入らない手で《マックス・アモー》の頭部を撫でた。
硬い装甲と戦いの中で増えた無数の傷は、いつも撫でていた、大切な相棒の頭だ。
「ねえ、マックス」
「ギゥ?」
「約束のあれ、お願いできるかな?」
その声に《マックス・アモー》の単眼が激しく明滅する。命令を拒絶するように、巨大な頭部が左右へ振られた。
金属のくちばしが、縋りつくようにリリエルの肩へ押しつけられる。
「駄目だよ。リリエルたちは、約定の戦士なんだから」
リリエルは優しく言い聞かせる。
「負けても、奪われちゃいけないものがあるの。マックスも分かってるでしょう?」
「ギィィ……」
「大丈夫。一人にはしないよ」
細い両腕で、その頭を抱き締めた。
「リリエルも一緒だから」
長い、悲しげな鳴き声が響いた。
やがて《マックス・アモー》は、主の願いを受け入れるように頭部を伏せる。
機体最深部で幾重もの封印に守られていた命令系統へ、最後の信号が送られた。
――自爆プロトコル、承認。
背甲の奥で、炉心が不規則に明滅する。
赤い警告灯が一つ、また一つと灯っていく。
▲▽▲―――▲▽▲
『警告』
ルクスが鋭く頭部を持ち上げた。
『敵性機体内部にて、高密度エネルギー反応を検出』
リネアの義眼にも、赤い警告表示が浮かぶ。《マックス・アモー》の内部で急速に上昇していく魔力濃度。
これは通常の爆発ではない。空間そのものを歪ませるほどの異常な圧力が《マックス・アモー》の内部へ蓄積されつつある。
『炉心の不可逆的暴走を確認』
ルクスの単眼が警告するように明滅した。
『自爆と断定。全員、直ちに退避を』
その声は背部の拡声器を通じ、戦場全域へ響き渡った。
「全軍、退け!」
ローデリック王も即座に長剣を掲げる。
「負傷者を運べ! 動ける者は動けぬ者を支えろ! 急げ!」
《ソル・ブレイズ》の騎士たちが一斉に動く。
魔力を使い果たした魔術師を二人の騎士が抱え上げ、別の騎士が膝をついていたスズネへ肩を貸した。
アルズも《ストームピアサー》を背へ回し、倒れていた兵士を引き起こす。
「立て! 死にたくなければ、脚を動かすんだ!」
兵士も、騎士も、冒険者も。
互いを支えながら、急速に《マックス・アモー》から距離を取っていく。
ルクスはリネアを背へ固定すると、四脚で地面を蹴り、全速力で瓦礫の間を駆け抜ける。
「ルクス……間に合う?」
『間に合わせる』
迷いのない返答だった。
その背後で、壊れかけた副砲の残骸が震えた。砲身は折れ、浮遊機構も失われている。
それでも、内蔵された拡声器だけが辛うじて生きていた。激しい雑音の向こうから、少女の声が流れ出す。
『あー……あー。聞こえてるかな?』
走り続ける兵士たちが、思わず振り返る。
遠方で戦況を見届けている誰かへ向けて、リリエルは語りかけていた。
『リリエルは、ここまでみたい』
声には恐怖も悔しさもなく、ただ少しだけ眠そうだった。
『ミリアお姉ちゃん』
わずかな間を置き、リリエルは最後に笑う。
『あとは、お願いするね』
赤い光が白く変わった、次の瞬間。
王都の一角を、巨大な光球が呑み込んだ。
その直後に大爆発が起こる。膨大な炎と衝撃波が全方位へ解き放たれ、周囲の瓦礫を跡形もなく吹き飛ばした。
大地が波打ち、建物が軋み、残されていた窓ガラスが一斉に砕け散る。
ルクスは前脚を突き立て、背を向けたまま衝撃を耐えた。
装甲を叩く熱風からリネアを守るように、左腕の可変盾を展開する。
ローデリック王たちも地面へ伏せ《ソル・ブレイズ》が炎の防壁を重ねた。
爆音が王都郊外を揺るがす。だが、破壊はそれだけでは終わらない。
膨張していた光球が不意に停止し、炎が静止する。
宙を舞っていた瓦礫も、爆風に巻き上げられた粉塵も、一瞬だけ空中へ縫い止められる。
その直後、すべてが爆心地へ引き戻された。
炎が、光が、大気が、飛び散った装甲片が。
一点へ向かって、凄まじい勢いで収縮していく。
空間そのものが内側へ折れ曲がり、世界に穿たれた穴へ呑み込まれていくかのようだった。
第五席次ベイカーの最期によく似た、亜空間爆縮。
光球が豆粒ほどの大きさへ縮み、甲高い音が一度だけ響き――最後には消滅した。
あとには、巨大な陥没地だけが残されている。
リリエルも《マックス・アモー》も、砲火の花を形作っていた兵装の残骸さえも。何一つ残ってはいなかった。
▲▽▲―――▲▽▲
王都から遠く離れた高台で、ミリアは爆縮の光を見つめていた。風が長い銀髪を揺らす。
最後の通信は、確かに届いていた。
「貴女くらいね」
その唇に、微かな笑みが浮かぶ。
「私を《お姉ちゃん》だなんて呼べるのは」
救援には向かわなかった。
助けを求められたとしても、向かうつもりはなかった。
自ら戦場へ赴いた魔導工兵の戦いへ、他者が手を出してはならない。
それが彼女たちの守り続けてきた、古の約定だった。
それでも見届けることだけは、やめられなかった。
やがてミリアの笑みが消える。静かな眼差しだけを、かつて妹のように接してきた少女が消えた場所へ向ける。
「見届けたわ、リリエル」
別れを惜しむ時間は、もう終わり。
「あとは私に任せて。ゆっくりお休みなさい」
ミリアが踵を返すと同時に、王都内外で戦い続けていた魔導ゴーレム群の動きが止まった。
人型も、獣型も、重装型も、上空を旋回していた飛行型も。
誰にも聞こえない命令を受け取ったように、揃って王都の外へ向き直る。
それは敗走ではなかった。
傷ついた機体を中央へ庇い、追撃を警戒しながら隊列を再編して後退していく。
統率を失った様子も、混乱もない。魔導ゴーレム群は整然と崩落した外壁を抜け、王国兵たちの視線の先で遠ざかっていった。
それを誰も追わなかった。追えるだけの余力など、残されてはいなかったのだ。
▲▽▲―――▲▽▲
戦場に、長い沈黙が訪れた。
砲撃音も魔導ゴーレムの駆動音もない。
聞こえるのは、炎が建物を焦がす音と、負傷者たちの荒い呼吸だけだった。
「……終わったのか?」
一人の兵士が呟いた。
「敵が、退いていく……」
「俺たちは……生きてるのか?」
その問いに誰も答えられない。生死の境が曖昧になるほど、あまりにも長く、激しい戦いだった。
勝利という言葉を口にした瞬間、すべてが夢となって消えてしまうような気さえした。
その沈黙の中で、ローデリック王が立ち上がる。
白地に金色だった鎧は煤と血に汚れ、肩当ては砕けていた。長剣の刃も欠けている。
王自身も全身に傷を負い、立っていることさえ不思議なほど消耗していた。
それでも、その背筋は曲がっておらず、眼光は鋭いままだ。
ローデリック王は長剣を天へ掲げる。
「敵軍は退いた!」
疲れ果てた戦士たちが、一斉に顔を上げた。
「我らは生き残り、この王都を守り抜いた!」
王のよく通る声が、瓦礫と砲煙に覆われた大通りを駆け抜ける。
「リンドヴァル王国の戦士たちよ!」
兵士たちが剣を握り直す。騎士たちが盾を掲げる。冒険者たちが、傷ついた仲間の肩を抱く。
「我らの勝利だ!」
一瞬の静寂が降り、そして、王都を震わせるほどの雄叫びが上がった。
「おおおおおおおおおッ!」
無数の武器が空へ掲げられる。
泣き崩れる者がいた。隣に立つ仲間と抱き合う者がいた。力尽き、その場へ座り込みながら笑う者もいた。
歓声は次々と広がり、王都のいたるところから応える声が上がる。
その中心から少し離れた場所で、リネアはルクスの背へ身体を預けていた。
ほとんど力の残っていない両腕で《バイナリーライフル》を抱き締めている。
「勝ったんだね」
『肯定。敵性戦力の撤退を確認』
「そっか」
視線の先には、リリエルと《マックス・アモー》が消えた陥没地がある。
自分が撃ったあの一発が、絶体絶命のタイミングで砲撃を止めた。
その一発によって、王都に生きる数え切れないほどの人々が救われた。
そして同じ一発が、あの少女と、その少女を守ろうとした亀型魔導機兵を死へ追いやった。
引き金を引いたことに、後悔はない。撃たなければ、もっと多くの命が失われていた。
それでも、指先に残る違和感のような感触が消えることはない。
「……ちゃんと、覚えておくよ」
誰に聞かせるでもなく、リネアは呟く。
ようやく右眼を閉じると、限界を迎えた意識が、ゆっくりと暗闇へ沈んでいく。
彼女の眠りを妨げないように、ルクスの背部装甲が静かに身体を支えた。
砲煙の向こうから、光が差し込む。砲火の花が散った空の下。
王都を守り抜いた者たちの勝ちどきが、いつまでも高らかに響き続けていた。
リアル多忙とAC6熱の所為で投稿遅れました!平にご容赦を。




