第十六話 砂丘の従魔
西方砂丘へ続く街道は、王都周辺の石畳とはまるで違っていた。
乾いた風が吹き、細かな砂が外套の裾を叩く。道の両脇には低い灌木がまばらに生え、遠くには黄土色の丘陵がいくつも重なって見えた。
昼の陽射しは強く、空は高い。夜になれば一気に冷えると聞いていたが、今はまだ砂の熱が足元からじわじわと上がってきていた。
リネアは頭巾を深く被り直し、隣を進むルクスを見上げた。
黒い四脚の機械獣は、以前のように荷車で隠されてはいない。
胸部の中枢結晶は星紋同期核によって安定し、左前脚の軋みもほとんど消えている。
背部兵装はまだ沈黙したままだが、四肢の動きにはもう危うさがなかった。
「砂地、問題ない?」
『接地圧を調整。歩行支障なし』
「頼もしいね」
『リネアの移動継続を支援可能』
「うん。ありがとう」
三か月前まで、ルクスは修理店の裏庭で伏せているだけの機械獣だった。
灰色の遮蔽布を被せ、音を立てないように息を潜め、誰にも見つからないように守るしかなかった。
けれど今、ルクスは自分の脚で砂丘へ向かっている。
リネアの胸には、それだけで少し熱いものが込み上げていた。
目的地は、西方砂丘遺跡セラ・ヴォルト。
灰貨商会が掴んだ古い記録によれば、そこには星紋機体と同期する専用兵装、星紋兵装に関わる区画が存在する可能性があるという。
ルクスの背部構造が何を受け入れるためのものなのか。失われた戦闘能力を取り戻す鍵が、そこに眠っているかもしれない。
その時、風に混じって、微かな悲鳴が聞こえてきた。
リネアは即座に足を止める。
「今の、聞こえた?」
『南西方向、約二百四十メートル。複数の生命反応。敵性生体反応あり』
「行こう」
不思議と迷う理由はなく、気付けばそう言っていた自分に驚く。
砂丘を越えた先では、四人の若い冒険者が魔物に追い詰められていた。
相手は中型の熊のような魔物だ。砂色の毛皮を持ち、前脚には岩を砕くほどの爪がある。
砂牙熊。西方街道に出没する危険な魔物で、銅級冒険者だけで相手をするには荷が重いと言われている。
前衛の少年剣士は盾ごと弾き飛ばされ、槍使いの青年が必死に間合いを保っている様子だ。
弓使いの少女は矢を番えようとしていたが、手が震えてしまっていた。見習い治癒術師らしい少年は、倒れた剣士へ駆け寄ろうとして上手く動けずにいる。
撤退の判断が遅れたことは自明であった。
砂牙熊が再び前脚を振り上げる。
「ルクス、助けに行くよ。まず引き剥がして!」
『了解。暫定保護対象、四名追加』
黒い影が砂地を蹴る。ルクスは吠えず、唸りもしなかった。ただ低く姿勢を沈め、砂の上を滑るように加速する。
砂牙熊の爪が少年剣士へ届く寸前、ルクスの巨体が横合いからタイミングよく突っ込んだ。
重い衝撃音が轟き、砂牙熊の体が大きく傾く。普通の従魔なら噛みつくか、爪を立てるか、魔力を放つところだろう。
だがルクスは違った。前脚で顎下を跳ね上げ、後脚で砂を噛み、重心を崩した熊魔物をそのまま胴体の旋回で吹き飛ばす。
「な、なんだ、あれ……!」
槍使いが呆然と呟く。その間に砂牙熊はすぐに起き上がり、怒り狂ったようにルクスへ突進した。
ルクスは避けないが、真正面から受けるのでもない。わずかに角度をずらし、肩で力を流しながら前脚を砂牙熊の脚元へ差し込む。
巨体が宙に浮き、次の瞬間、砂牙熊は地面へ叩きつけられていた。
『敵性生体、継戦能力低下』
「殺しきらなくていい。追い払って」
『了解』
ルクスは更に一歩踏み込む。碧い単眼が細く威嚇するように光り、砂牙熊は本能的に後ずさった。
そこへ、ルクスが低い体勢からもう一度突進する。牙でも爪でもない、黒い四脚の機体そのものが、重い槌のように砂牙熊を押し込んだ。
砂牙熊は悲鳴を上げ、たまらず砂丘の向こうへ逃げていく。
振り返ってみれば、戦いはあまりにも簡潔だった。
砂牙熊の動向を注視して、安全を確認したリネアはすぐに銅級冒険者たちへ駆け寄る。
「怪我は?」
「だ、大丈夫です。腕を少しやられただけで……」
少年剣士が震える声で答える。リネアは手早く傷を確認し、持っていた包帯で応急処置をした。
「骨は折れていません。でも今日はもう進まない方がいいです。街道沿いの宿場まで戻ってください。砂丘の魔物は日が落ちるともっと危険です」
「は、はい。ありがとうございます。あの、その黒いのは……」
弓使いの少女が、ルクスを恐る恐る見上げる。
リネアは一瞬だけ言葉に詰まった。
魔導機械です。神代兵器です。遺跡で拾って修理しました。
そんなことを言えるはずがない。
「従魔です」
咄嗟にそう言っていた。
「ちょっと、珍しい子で」
ルクスの単眼がリネアを不思議そうに見る。
『分類、従魔』
「今だけ。今だけそういうことで」
小声で言うと、ルクスは短く沈黙した。
『了解。暫定分類を受諾』
銅級冒険者たちは、まだ何か聞きたそうだった。だがリネアは深く追及される前に立ち上がる。
「私たちは先を急ぐので。皆さん、本当に無理をしないでください」
「お名前を――」
「リネアです。それでは」
それだけ告げて、リネアはルクスとともに砂丘の方へ歩み去る。
背後から何度も礼の声が聞こえたが、振り返らなかった。詮索される前に離れる。それが今のリネアたちには必要だったからだ。
やがて、砂丘の向こうにセラ・ヴォルトが姿を現す。
それは半ば砂に埋もれた神代遺跡だった。地表には黒玻璃の塔片が斜めに突き出し、風化した石柱がいくつも倒れている。
入口らしき斜面の奥には、星紋の刻まれた壁があり、そこから地下へ続く通路が暗く口を開けていた。
「ここが、セラ・ヴォルト……」
『星紋反応、微弱。内部動力、大部分停止』
「荒らされてる?」
『表層区画に侵入痕あり。ただし深部反応、未確認』
リネアはランタンを灯し、ルクスとともに遺跡へ入る。
内部は北方未開拓遺跡よりも荒れていた。床には砂が積もり、壁の一部は崩落している。
古い探索者が残した杭や布切れもあった。表層区画はすでに何度も調べられた後なのだろう。目立つ部品や魔道具はほとんど残っていない。
それでも、ルクスは奥へ進むほどに速度を落とした。
『停止』
「どうしたの?」
『右壁面内部に空間を検出』
リネアはそう言われて壁を注意深く見た。
そこにはただの石壁があるだけで、魔力反応もなく、星紋も見えない。
普通の探索者なら、間違いなくただ通り過ぎる。
「隠し扉?」
『肯定。ただし、動力反応なし。隠蔽機構、停止。正規開放不能』
リネアは壁に触れた。砂と埃の下に、わずかな継ぎ目がある。
動力は完全に死んでいるが、確かにここには扉があるのだ。
「動力を戻せれば開くかもしれないけど……時間がかかるね」
『物理開放を提案』
「壊すってこと?」
『肯定』
「最近、力技を覚えたね」
『修復により選択肢が増加』
リネアは少しだけ笑った。
「じゃあ、壊すにしても丁寧に。ここ、固定具が残ってる。私が外すから、ルクスは右上のフレームを押して」
『了解』
リネアは工具を取り出し、死んだ固定具をひとつずつ外していった。
砂を払い、錆びた留め具を削り、圧着された古い接合部を緩める。最後にルクスが前脚を壁へかけた。
黒い四脚が地面を踏みしめ、低い軋みが遺跡に響いていく。
扉は、ゆっくりと歪むように開く。石ではなく、内部に黒銀の骨格を持つ古代扉だった。
ルクスがさらに力を込めると、死んだ機構が悲鳴のような音を立て、やがて扉は内側へ押し開かれた。
「……開いた」
『物理開放、成功』
「うん。開け方としては、あんまり上品じゃないけど」
『稼働管理者、不在』
「それ、便利な言葉だね」
秘密区画の奥は、ほとんど無傷だった。
砂も少なく、壁には星紋が深く刻まれ、天井には死んだ魔法灯が並んでいる。
そして通路の突き当たりには、小さな格納室があった。
室内中央には大きな保護ケースが鎮座し、透明な黒玻璃の中にひとつの兵装が安置されている。
それは両刃剣だった。
黒銀の柄を中心に、左右へ長い刃が伸びている。人間が手にするには巨大すぎるが、ルクスの上半身、その機械腕であれば扱えるだろう。
刃は両側とも厚く、重い。繊細な斬撃のための武器ではない。圧倒的な質量と連撃で、敵の防御ごと叩き割るための兵装だった。
星紋兵装。両刃剣
ルクスの解析によれば、保護ケース前のコンソールにはそう墓碑銘のように刻まれてある。
リネアは思わず息を呑んだ。
「これが……」
『星紋兵装反応を確認。適合可能性あり』
「背部に装着するものじゃない。これは……手で持つ武器だね」
『両手保持型兵装。重撃連続運用を想定』
ルクスの声にも、わずかな変化がある。
保護ケースには古い封印機構が残っていたが、動力は完全に死んでいる。
リネアが調べても、正規手順で開けるのは難しそうだった。
「壊さずに開けたいけど……」
『保護ケース、機能停止。正規開封、不能。内容物損傷可能性、低。外殻破砕を提案』
「また力技?」
『有効な手段』
リネアは少し悩み、それから頷く。
「分かった。でも兵装には傷をつけないで」
『了解』
ルクスが保護ケースの前に立つ。
黒い機械腕が、黒玻璃の外殻へ正確に叩き込まれた。
衝撃が走り、ケースに亀裂が入る。二撃目で亀裂が広がり、三撃目で外殻は砕けた。
破片の中から、両刃剣が露わになる。
ルクスは両手でそれを掴んだ。
瞬間、刃の表面を碧い光が走る。星紋がひとつ、またひとつと灯り、ルクスの胸部結晶と同期するように脈打つ。
まだ完全起動ではないが、確かに応答している。
『クリードディフェンダー、仮登録』
「持てる?」
『重量、許容範囲内。重心補正、必要』
「帰ったら調整しよう。今は持ち帰るだけ」
『了解』
リネアは砕けた保護ケースと、ルクスの両手に収まった巨大な両刃剣を見比べた。
これがあれば、ルクスの戦い方は確実に変わる。
防御して耐えるのではない。
圧倒的な重さと手数で、相手に防御すら許さない。
それが、この兵装の思想なのだと、リネアには直感できた。
◇
西方街道三日目、夜。
銅級冒険者ニルス・レイナーの野営記録。
今日、俺たちは死にかけた。
相手は砂牙熊。銅級四人で相手をするのは無謀だった。
撤退判断が遅れたのは俺の責任だ。ロウは槍を折りかけ、ティアは矢を番える手が震えていた。
マノンは治癒術を使う前に、俺ごと踏み潰されるところだった。
だが、俺たちは助かった。
黒い四脚の従魔を連れた修理師風の少女に、危ないところを救われた。
彼女はそれを従魔だと言った。
けれど、俺にはあれが普通の従魔には見えなかった。
あの獣は吠えなかったし、牙を剥かなかった。
怒りも、飢えも、恐怖も見せなかった。
ただ、必要な場所へ入り、必要な角度で魔物を打ち、必要なだけの力で戦いを終わらせた。
砂牙熊の突進を横から弾いた前脚。
背後からの動きを、振り返りもせず体の旋回だけで潰す動き。
そして、主人らしき少女の声にだけ即座に反応する碧い単眼。
あれは獣ではない。
少なくとも、俺たちが知っている従魔ではない。
少女は怪我の確認だけをして、街道沿いの宿場へ戻れと告げ、そのまま砂丘の方へ去っていった。
名前はリネアと言っていたが、姓は聞けなかった。
俺は、あの碧い目を忘れないと思う。
もし次に会うことがあれば、今度こそきちんと礼を言いたい。
そして、できれば聞いてみたい。
あの黒い従魔は、本当にただの従魔なのか、と。
ルクスは力技を覚えた!脳筋度が上がった!賢さが下がった!




