リリィ
リリィ
一方、『ヒロイン』は。
手元にある、今朝届いたばかりの書類を眺めていた。
『本日をもって、リリィ嬢をアーヴェルン伯爵家の養女とする』
署名:ジルベール・アーヴェルン
──それを見た瞬間、さすがに手が震えた。
(これで、私は正式に貴族社会に組み込まれた子供になる……)
その後、カーティスからの手紙が部屋に届いた。
そこにはたった一行の走り書き。
《おめでとう。ようやくステージに立ったわね》
『リリィ』が出立の為にカーティス邸の門をくぐる直前に一通の手紙が手渡された。
豪奢な封蝋に筆の立つ書体。
差出人はアーヴェルン伯爵。
(わかりやすい演出ね、とても貴族的。この養子縁組は、情だけではない……)
私は封を切る前から、内容の大筋を予想していた。
実際、書かれていたのは儀礼的な歓迎。
正当な家族として迎えることを国へも届け出た旨の報告だ。
──つまり、もう既に貴族界の噂になっている段階。
「孤児院に、聖女家系の落とし子がいた」
「聖女エレナの妹の娘が、密かに生きていた」
「その子供が修道院に隠されていた」
──話題性としては充分。
そしてアーヴェルン家は、それを公的に堂々と拾い上げた。
正統なる血筋の聖女候補として。
(王都中の耳目を引きつけるには、申し分ないわ)
私は薄く笑った。
貴族──アーヴェルンも、それ以外も。
彼らが「利用」するつもりなら、私もそうさせてもらう。
「さて、出発ね」
カーティスに向き直ると、彼は例のとろけるような笑顔で首をかしげた。
「まだ観察していたかったのに。残念だわ」
「まだ機会はあるんじゃない?」
「そうね」
冗談交じりの軽口。
だが、その下にある視線は互いに鋭かった。
「合法的にあなたと会えるよう、動いてるの。あなたには『治療』が必要でしょ?」
「ああ、医師として?」
「そう。もう根回しはしてあるの」
「……御配慮、ありがたく受け取っておくわ」
それは感謝ではなく取引成立の返答。
私とカーティス、ふたりの間に築かれたのは情より信頼、信頼より利害の一致。
だが、それでいい。
それが最も裏切りに強いのだから。
門の外には迎えの馬車が待っていた。
私が乗り込もうとすると、侍女や護衛の騎士たちが礼を取る。
──その目には、表向きの敬意と共に「検分」が混ざっている。
私は平然と彼らの視線を受け流す。
自分が納得するまでは誰も信用しないし、信頼もしない。
弱みを見せるわけにはいかないのだ。
(見せてやるわよ、これからが正式ヒロインの立ち回りってやつを。雑草魂は強いのよ)
淡い笑みを浮かべて、馬車の中へと足を踏み入れる。
扉が閉まったと同時に、内側の空気が一気に静まり返るのを肌で感じる。
(いよいよだわ)
窓越しにカーティス邸が遠ざかっていく。
隣りにいる侍女は一言も発しない。
(早期スタートには乗る。あとは私がこの物語前哨戦を、どう動かすか)
悪役令嬢の情報を集めなくてはいけない。
彼女が何をどう改変しているのか、目指すルートはどれなのか。
「お嬢様、緊張されてますか?」
侍女が口を開いた。
知らず知らず、膝の上で拳をギュッと握りしめていたようだ。
「あ、ごめんなさい……はい、少しだけ」
「アーヴェルン伯爵家は、お嬢様を歓迎しております。どうぞ御安心を」
(使用人にも歓迎を周知している……とりあえず普通の子供だと判断されているのね)
「ありがとう」
(これは不幸中の幸いじゃないかな?油断はできないけれど)
少なくとも、冷たい空気ではない。
私がそっと侍女を見上げると、彼女は優しく微笑んだ。
アーヴェルン伯爵家に到着し、執事に部屋を案内される。
お父様になる伯爵は、夕食の時に会えるそうだ。
私は可愛らしい内装や家具に無邪気に喜び、お礼を言った。
これは誰の趣味なのだろうか?
アンティークカラーの小花が散らされた壁紙。
百合の紋章が入った象牙色の家具、白とピンクで飾られた天蓋付きベッド、深い緑の絨毯。
(このお部屋、綺麗に手入れされた森のようだわ)
私はくすりと笑って、窓の外を見つめた。
この屋敷の庭には、大きな白い百合が数多く咲いている。
窓を開ければアーヴェルンを象徴する芳香が、風と共に香り立つ。
リリィ・アーヴェルンの物語は意図せず始まってしまったが、既にシナリオ改変に成功した。
本来であれば、ヒロインはもっと遅いタイミングで違う家に養女に行くはずだったのだ。
(先手は打たれたけれど、後攻には後攻のメリットがある)
生き残るため、前進あるのみだ。




