《過去の話》ヒノクニ――透明な膜
それは至る所にあった。
空を見上げれば目に入ったし、海面にも、数多の木々にもあった。地表を見ればそこにもあった。公園の中を走り回る子供たちにも、雑踏の中を通り過ぎていく人々にも――――一人のこらずそれに……『膜』に包まれて生きているのだ。
けれどそれに気づいている人は、シグラを除いて一人もいないようだった。
何しろそれはほぼ透けているのだし、シグラだって注視しないと分からない。
――透明なのだから
そんな中、シグラは決定的な瞬間をある日目撃したのだ――――それが人間を護る瞬間を。
自然災害もなく、豊富な資源と豊かな自然を有する上に、長期間に渡り安定した時代が続いている、ヒノクニ。王の才の恩恵による安寧なのだと言われており、概ね皆がそう信じていた――――そんな幸福な国は、時折外の国から狙われた。領土領海を狙ったものから、稀有な魔力を持つ国民を狙ったものまで。動機は様々である。それらの思惑はこれまで尽く打ち砕かれてきたわけであり、滅多にないことではあったが、他国の工作員が国内に入り込むことがあった。
そんな稀な事態が引き起こした稀な事件に、シグラはたまたま居合わせたのだった。
耳に入ってきたのは、子供の悲鳴。通勤途中だったシグラが何事かとそちらを振り返ってみると、取り乱す母親の姿と、両手を振り回して助けを求める小さな子供が目に入った。その子は今当に大柄な男の小脇に抱えられ、路肩に止めたワンボックスカーに連れ込まれようとしているところだった。白昼堂々と行われようとしている誘拐行為に、シグラが叫び、何か攻撃的な魔法を繰り出すべきかと息を吸い込んだ時だった――ドアが閉まろうとしていたはずの車内から、突然子供だけが転がり落ちてきたのだ。すかさず母親が抱きかかえ、車から距離を取った。居合わせた別の通行人が駆けつけてきて、車と母子の間に立って何やら魔法を仕掛けていた。あっという間に出現した堅牢な牢の中に車が封じ込められた後、車内からうめき声と共に複数の男たちが這いずり出てきた。彼らは口々に、「子供が放電した」「全身を無数の針で貫かれた」などと駆けつけた警察官に訴えていた。その一部始終を、シグラは大勢の野次馬たちと共に眺めていたのだ。
そして――数メートル離れた場所から目撃したその顛末の中で、シグラはもうひとつの真実を目撃していた。シグラは見た――――あの時、車から文字通り転がり落ちてきた子供の全身を包んでいたそれが、淡く発光していたのを。
――誰もあの光に気づかなかったというの……? 明らかに輝いていたあの膜について、誰も言及していなかった……
シグラも後で知ったことだったが、あの子供は才持ちで、それ故海外へと拉致される直前だったのだ。しかしその子が持っていた才は、決して自分の身体を透明な膜で包み込み、危害を加えようとした他者を攻撃するような類の物ではなかったのだ…………そう、子供を守ったのは、いつもシグラが目にしている、身の回りの物ありとあらゆるもの一つ一つを包み込んでいた『膜』だった。
――そういうことだったの。膜は守っている。私たちを。この国の国民を。それだけじゃない。この国土も、包み込む天さえも……だからヒノクニは安寧が続いていたの……
シグラはその時、ただ一人理解したのだった。何がこの国が長く平和な状態を維持させていたのかを。
◆◆◆◆◆
「私達は、光り輝く透明な膜によって守られているのです。ヒノクニの国土、国民、ありとあらゆるこの国に属するものが、膜によって守られる対象なのです」
シグラはその日以来、誰彼構わずそう触れ回るようになった。
しかし、彼女にしか見えないその膜の存在を他者が認めるはずもなく、誰一人信じてくれる者は現れなかった――――あの日、白衣を纏ったある人物に出会うまでは。




