《過去の話》ヒノクニ――透明な膜
夢から目覚めると、いつも美しいものが見えた。
――膜
そう呼ぶのが相応しいと思ったのは、幼い頃にシャボン玉を作って遊んでいた時だ。
針金の輪に張った薄い膜が、虹色にゆらゆらと揺らめいている。それを見た瞬間、ずっと目にしてきたものと同じだと思った。
ただし、シャボン液の膜とは違って、それは決して割れなかった。
朝、アラーム時計を止めようと伸ばした自分の手にもある。指先から手の甲までを、透き通った膜がぴたりと覆っている。
おそらくこの世に生を受けた頃からずっと、シグラの目にはそれが見えていたのだろう。
なぜなら膜は、至るところにあった。
空を見上げればそこにある。海面にも、数多の木々にも、地表にもある。公園を走り回る子供たちも、雑踏を行き交う人々も、一人残らずそれに包まれて生きている。
けれど、それに気づいている者はシグラを除いて一人もいないようだった。
何しろ、それはほとんど透けている。シグラだって注視しなければ分からない。
――透明なのだから
そんな中、シグラはある日、決定的な瞬間を目撃した。
それが、人間を護る瞬間を。
豊富な資源と豊かな自然に恵まれ、長きにわたって安定した時代が続いているヒノクニ。その安寧は王の持つ特別な力によるものだと言われ、国民の多くもそう信じていた。
そんな豊かな国は、時折、外の国から狙われることがあった。領土や領海を狙う者もいれば、稀有な魔力や才を持つ国民を狙う者もいる。動機はさまざまだったが、それらの思惑はことごとく打ち砕かれてきた。それでも、ごく稀に他国の工作員が国内へ入り込むことがあった。
そんな滅多にない事態が引き起こした事件に、シグラは偶然居合わせた。
耳に飛び込んできたのは、子供の悲鳴だった。
通勤途中だったシグラが何事かと振り返ると、取り乱す母親と、両手を振り回して助けを求める小さな子供が目に入った。その子は今まさに、大柄な男の小脇に抱えられ、路肩に停められた車へ連れ込まれようとしているところだった。
白昼堂々と行われる誘拐に、シグラは思わず叫んだ。攻撃の魔法を使うべきかと息を吸い込んだ、その時だった。
閉まりかけていたドアの向こうから、突然、子供だけが転がり落ちてきたのだ。
母親がすかさず駆け寄って子供を抱きかかえ、車から距離を取る。居合わせた通行人たちも駆けつけ、その一人が車と母子の間に立って魔法を放った。あっという間に現れた堅牢な檻が、車を丸ごと封じ込める。
やがて車内から、うめき声とともに複数の男たちが這い出してきた。
駆けつけた警察官に向かって、彼らは口々に訴えていた。
「子供が放電した」
「全身を無数の針で貫かれた」
その一部始終を、シグラは大勢の野次馬とともに眺めていた。
そして数メートル離れた場所から見つめていた彼女だけが、もうひとつの異変を目撃していた。
車から転がり落ちてきたあの瞬間、子供の全身を包んでいたそれが、淡い光を放っていたのだ。
――誰も、あの光に気づかなかったというの……? あんなにはっきり輝いていたのに。あの膜のことを、誰も何も言わない……
後になって、シグラはあの子供が才持ちであり、それゆえ国外へ拉致されようとしていたのだと知った。
しかし、その子が持っていた才は、自らを膜で包み、危害を加えようとした者を攻撃するようなものではなかった。
ならば、あの時子供を守ったものは何だったのか。
シグラには、ひとつしか思い当たらなかった。
いつも彼女の目に映っているもの。
人にも、木にも、建物にも、地面にも存在する、あの透明な膜。
――あれが守ったんだ
シグラは息を呑んだ。
――膜は、ただそこにあるだけじゃない。私たちを守っている。この国の人間を。それだけじゃない。木も、地面も、海も……空を見上げた時に見えるものまで、全部……
これまでただ不可解なものとして眺めてきた光景が、突然ひとつの意味を持った。
なぜ膜は、この国のありとあらゆる場所に存在しているのか。
なぜ人々の身体までも、一人ひとり包んでいるのか。
まだ、その正体も、どこから生まれたものなのかも分からない。
けれど、ひとつだけ確信できる。
この透明な膜は、ヒノクニを守っている。
シグラはその時、誰も知らないこの国の秘密の一端に、初めて触れたのだった。
◆◆◆
「私たちは、光り輝く透明な膜によって守られているのです。ヒノクニの国土、国民、この国に属するありとあらゆるものが、あの膜によって守られているのです」
シグラはその日以来、会う人ごとにそう触れ回るようになった。
しかし、彼女にしか見えない膜の存在を他者が認めるはずもない。誰一人として、まともに取り合ってはくれなかった。
あの日、白衣を纏ったある人物に出会うまでは。




