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青い半魚人  作者: 松下真奈
第二章
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ヒノクニ――静物

 夢を見ずに目覚める朝は、何だか味気ない。熟睡できていることは間違いないのに、大きく気合を入れなければ寝床から起き上がれなかった。

――あの子がいなくなってしまってからは、なおのことだ

 洗面を済ませようと鏡の前に立つと、酷い寝癖のついた髪が目に入った。その奥でぶっきらぼうな寝起き顔を浮かべているのは、緑の瞳をした男だった。

――酷い顔だな

 寝起きはいつも良かったはずだ。就寝前に酒を飲んだわけでもない。靄がかかったように調子の上がらない気分を切り替えるため、ユウキは洗面台の上に屈み込み、頭から冷水をかぶった。

「おはよう」

 リビングへ行くと、ユウキ以外の全員がすでにテーブルを囲んでいた。コーヒーとバターの香り。いつもの朝食の風景だった。

 ただ、そこについ最近までいたはずの少女の姿だけがない。

「ユウキ。俺、今日のステージの前に用事ができた。打ち合わせまでには間に合うと思うけど、遅れるようだったら連絡するから」

 隣の席に着くなり、アミが声をかけてきた。ユウキは「分かった」と頷く。

「さっきエイマンくんから連絡があったぞ」

 今度はジロウだった。ユウキはその口から出た人物の名前に、思わず顔を上げる。

「何か分かったの?」

 期待を隠そうともしないその視線に、ジロウはばつが悪そうに眉根を下げた。

 こんな表情をするユウキを、ここ一か月の間に何度見ただろう。そのたびに、ジロウは胸を締め付けられるような気分になるのだった。

「いや……進展は相変わらずないみたいだな。今日もリリーのところへ調査に行くそうだから、お前も一緒にどうかって」

「行くよ」

 コーヒーカップを唇から離しながら、ユウキはただそう答えた。



◆◆◆



「ユウキくん」

 廊下で紡久から声をかけられた。そろそろリリーの家へ出発しようと、玄関へ向かっていたところだった。

 紡久は日課のスケッチから戻ってきたところなのだろう。片手に画材道具を提げている。その反対の腕に抱えられているものを見て、ユウキは「あ」と声を漏らした。

「また見つかったの?」

「梅の木の根元に。ちょうど木と木の影になるところで、半分くらい土に隠れてて目立たなかったんだ」

 紡久から両手で受け取ったのは、クマのあみぐるみだった。

 白い毛糸で編まれていたはずの全身は泥にまみれ、あちこち茶色く染まっている。数日前の雨に打たれてしまったのだろう。水を含み、本来よりもずっしりと重い。

 そんなクマの耳元には、このあみぐるみが完成した日にユウキが付けてやった硝子の鱗が光っていた。鱗にだけは汚れが付いていない。廊下の照明を浴びて、そこだけ時間から取り残されたかのように煌めいている。

 クマは、ぴくりとも動かない。

「土に隠れてたって……こいつ、一体動きが止まる直前まで何してたんだろう」

 ユウキはくすりと笑った。しかし、その声が悲しげに響くのを、紡久は苦い表情で受け止めた。

「他のあみぐるみと遊んでたのかも。スケッチしてる時にたまに見かけてたんだ。土の中にちょっと身体を隠して。かくれんぼだな、あれは。汚れたらちゃんと自分たちで洗って、乾かすところまでやってたんだよ。初めて見た時はびっくりした」

 その説明に、ユウキはさらに笑みを浮かべた。

 けれど、その目が紡久へ向くことはなかった。薄汚れて両手の上に横たわるだけのクマを、ずっと見つめている。

「今、きれいにしてやるからな」

 褐色の両手の中に、水が集まる。大きな水滴となったそれは、あみぐるみを丸ごと包み込んだ。数秒後、弾けるように水分だけが消滅すると、今度はユウキの手を中心に柔らかな温風が生じ、傍らに立つ紡久の頬を撫でていった。

「見違えたね」

「こんなに白かったんだなぁ、お前」

 二人はしばらく、動かないあみぐるみを見つめていた。

 クマの顔に刺繍された口は大きな逆三角形で、二穴ボタンで垂れ目のように表現された丸い目も相まって、微笑んでいるように見える。

 生命だけが抜け落ちてしまったように動かない今も、その表情だけは以前と変わらなかった。

「他の仲間のところに連れて行ってやるよ」

 ユウキはクマにそう告げると、紡久に向かって「見つけてくれてありがとう」と微笑んだ。

 再び階段を上っていく長身の背中を見送りながら、紡久はしばらくその場に佇んでいた。



◆◆◆



 自室へ戻ったユウキは、真っ直ぐ部屋を横切って広縁へ出た。

 日の当たるその場所に、柳で編まれた大きな行李(こうり)が蓋を開けて置かれている。その中には、大小さまざまなあみぐるみの動物たちが収まっていた。ひっくり返した蓋の中にも何体かが鎮座し、皆が窓の方へ顔を向けている。そのように並べてやったのは、ユウキだった。

 侑子が消えてから、ジロウの屋敷や庭のあちこちで、動かなくなったあみぐるみが次々と発見された。

 リビングのソファの上。東屋の片隅。食品庫の中。ノマやジロウのベッドの中。

 どのあみぐるみも、それまで自由気ままに動き回り、それぞれの日常を過ごしていたのだろう。そうと分かる姿勢のまま、ただ動きを止め、一つの静物と化していた。

「ほら、また仲間が見つかったぞ」

 同じくらいの大きさのウサギとネコの間に白いクマを入れてやろうとして、ユウキはふと手を止めた。

 このクマには、防視効果付きのボタンが見当たらない。

 どこかで取れてしまったのだろうか。

 ユウキは無言でクマを見つめ、静かに息を吐いた。それから唇を引き結び、仲間たちの間へ入れてやる。

――やっぱり見えない。ユーコちゃんの魔力

 ほんの一か月前まで、彼らから感じられた透明な魔力。

 今は、その名残すらユウキの目には映らなかった。

 侑子が消えたあの日、一番初めに倒れたあみぐるみを見つけた時、ユウキは防視効果付きのボタンを外してみた。それでも、何も見えなかった。

 動かなくなったあみぐるみから、侑子の魔力はすっかり消えていた。その時は酷く狼狽したものだ。

 そして今、この白いクマからも、侑子の気配を感じることはかなわない——この世界のどこを探しても、もう侑子はいない。

 そう突きつけられているようで、ユウキの心は凍りついた。

 涙すら出なかった。

——泣くとは、どういう感情だっただろう

 そんなことさえ分からなくなるほどの喪失感がこの世に存在することを、ユウキは初めて知ってしまった。

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