夢現
一番最後のコードを鳴らした時、侑子はその瞬間がスローモーションになったような錯覚を覚えた。自分の息を吸い込む音が脳を震わせ、唇の上を空気が流れ去っていく感触を生々しく感じる。そして残響も全てどこかへと消えてしまった次の瞬間、僅かな間も与えずに、大きな拍手の音が耳に飛び込んできたのだった。
「おめでとう! しっかり全部弾けたね」
一番先に拍手をしたのはユウキで、労いの言葉をかけたのはアミだった。侑子に数ヶ月に渡ってギターを教えてくれていたのが、この二人である。
侑子はこの日、初めての弾き語りを成功させたのだ。
「変じゃなかった? 音程ズレたりしてなかった?」
「大丈夫。ばっちりだったから」
嬉しそうなユウキの言葉に、じわじわと喜びと達成感が沸き上がってくる。
侑子がたった今演奏した曲は、初心者の侑子のためにユウキとアミが協力して作ったものだった。歌詞は馴染みのあるマザーグース、使用するギターコードは全て侑子が抑えやすいものだけを使用している。
それでも最後まで失敗せずに歌い切れるようになるまで、数ヶ月を要した。歌に集中すれば弦を抑え忘れたりリズムを取り逃がすし、演奏に気を取られていると声がズレてしまう。弾き語りとは難しいものなのだと思い知った。しかしその一方で、意識せずともギターを弾くことが出来る爽快感と、楽器と一体になる魅力の虜にもなっていた。
「もっと歌えるようになりたい! ギターも、もっと上手になりたいな」
「ここまで出来るようになったんだ。どんどん上達するよ」
そう言って侑子に笑いかけるユウキの透証から、呼び出し音が鳴り響いた。リリーの声が聞こえてくる。
「もしもし? ツムグくんの準備できたわ。もうすぐエイマンもこっちに着くみたい。どうしようか? 私達がそっちに迎えに行く?」
その言葉にアミがちらりと部屋の掛け時計を確認した。まだ正午まで数時間あった。当初予定していた出発時刻よりは大分余裕がある。
今日は七月二十日。侑子達が十人の来訪者たちの墓参りに行く日だった。
◆◆◆
侑子はギターをおろして、服の皺を軽く伸ばした。懐かしい布の感触が手のひらに伝わってくる。
今彼女が身につけているのは、セーラー服だった。白地に紺襟、赤黒いリボンのついた夏の制服。それは一年前に侑子が着ていた物だ。ユウキにこの屋敷に連れて来てもらったあの日に脱いでから、再び袖を通すことなくクローゼットにしまったままになっていた。一年ぶりに身に着けたその制服のスカート丈が、記憶よりもほんの少しだけ短くなったように感じて、侑子は時の経過を意識したのだった。
「俺たちがそっちに行くよ。まだ時間もあるだろ。ツムグくんと待ってて」
ユウキが透証の向こうへ返事を返し、「オーケー」と応えるリリーの声で通話は終わった。
リリーの家に紡久が一足先に出向いていた。侑子同様、彼もこちらの世界に来た時に身に着けていた学生服を着ることを選んだのだ。彼の制服はリリーの家に預けられていた。
「今日は散歩してる時間がないかもしれないだろ。結構長距離移動らしいし」
ユウキが侑子に告げた。リリーの家までの道のりを、今日の散歩コースに設定したのだろう。嬉しそうに頷く侑子に笑って、アミに向かって付け加える。
「アミはどうする? 歩くの面倒だったら自転車使って先に行く?」
「そうだな。そうさせてもらうよ」
リリーさんの家まで結構な距離だろうと肩を竦めたアミは、先に出てるよと部屋を後にした。彼も今日の墓参りに同行するのだ。護符の扱いが初めてとなるかもしれない侑子と紡久にとっては、心強い存在である。
「その服にその髪型だと、本当にあの時のユーコちゃんだね。でも……」
部屋を出ようと後方の侑子をふと振り返ったユウキが、ぽそりと呟いた。
一年前の侑子よりも、髪が伸びてお下げの穂先は肩よりも大分下になっていたし、身長も確かに伸びた。
「でも? どこか変?」
やっぱりスカートが短くなっているのが変なのだろうか。
気になった侑子が確認しようと下を向こうとした時だった。侑子の左手が、ユウキの手に掬い取られた。ブレスレットの硝子の鱗が揺れ、自然と侑子の目線は前の青年の顔に向く。
「――顔つきが変わった。とても良い顔になったよ」
くしゃりとした笑顔のユウキは、普段の彼よりも少しだけ幼くなる。この一年の間に、侑子が知ったことの一つだ。侑子はこの表情がとても好きだ。
自分の顔つきが変わったのかどうか、侑子自身にはよく分からない。けれど、一年前の自分と明らかに変化した心境には心当たりが沢山あった。
――歌が歌えるようになった。大勢の前で歌って、しかも楽しいと思えるようになった。好きなことを好きと言うことが、ちっとも怖くなくなった
なぜ一年前の自分はあんなに臆していたのか――自分自身が一番理解しているはずなのに、あんなに単純な仕掛けの檻から出られずにいたのが滑稽にすら思える。これが成長という言葉が言い表すところなのだろうか。
「ユウキちゃんがいたからだよ」
ブレスレットの鱗の揺れを感じながら、侑子は緑の瞳を見つめた。
「ユウキちゃんが夢の半魚人だったから、ギターを弾きながら歌えるまでになったんだよ」
瞳と瞳を見交わした二人は、幾日かぶりにあの夢の光景を目の前に見たような気がしたのだった。
◆◆◆
久しぶりの詰め襟の硬さを感じながら、紡久は扇風機の風にあたっていた。季節は夏だ。冬服の制服姿では流石に暑い。
「やっぱり側村に着くまで、上は脱いでおきます」
学ランを脱いでTシャツ姿になる。リリーは分厚いその生地を触って笑いながら頷くと、再びハンガーにかけてやった。
「ツムグくんが来た時は真冬だったものね。それにしてもしっかりした生地だわ。むこうの学生は、皆この服を着て学校に行くって本当? 全員がこの服着てたら、一面真っ黒じゃない?」
リリーの疑問に紡久はははっと笑った。
「一面真っ黒になりますよ。でもそれが普通なんです」
自分はその黒い学ランを着て真っ黒の一員になったことは、片手で数えるほどしかなかったのだが。その話はリリーにはしていない。知っているのは侑子だけだった。
「そうなの? 私には想像し難いわ。けど向こうの世界では常識なのか……お墓参りに行ったら、制服姿のツムグくんとユーコちゃんを見て、彼らも懐かしくなるかもね」
「そのつもりで着て行くんです」
ツムグは頷いて、ハンガーにかかった学ランを眺めた。セーラー服姿の侑子がこの隣に並んだら、どこからどう見ても典型的な日本の中高生だ。
学生のうちは学校の制服が礼服としての役割を果たすので、墓参りの服装としても相応しいのだということは、侑子の提案を受けてから思い出したことだった。
彼らは、学ランとセーラー服姿の日本人の姿に何か反応を示すだろうか。正彦とちえみの時と同様の、もしくは違った現象が起こるのだろうか。それを確かめるための墓参りでもあった。今日はエイマンとラウト親子の他にも、政府関係者や埋葬に詳しい有識者も同行すると聞いている。
「暑くなりそうだわ」
ラジオが告げる天気予報を聞きながら、リリーが窓の外を眺めていた。日焼けなど知らなそうな彼女の白い肌は、午前中の日差しに照らされて、より一層発光するように輝いていた。
◆◆◆
「夜は宴会だからな。寄り道しないでまっすぐ帰ってこいよ。エイマンくんとリリーも連れておいで」
「ユーコさんの好きなもの、沢山準備して待ってますからね」
玄関先まで出てきたジロウとノマに見送られて、侑子とユウキは出発した。夜には記念日を祝す宴が開かれる予定だった――――「いってきます」をこの玄関で口にすることが日常となって、一年が経つのだ。しかし侑子はもっと長い時間をここで過ごしているような気がしていた。隣にユウキがいる時には尚更だ。彼は侑子が物心つかない程の昔から知っている人物なので、そのせいなのかもしれない。
「暑いなぁ」
「もう七月も後半だもんね」
歩き始めてまだ少ししか経っていないのに、既に首筋は汗でじんわりと濡れていた。日傘の恩恵に預かってはいるものの、度々タオルを取り出さないといけない。セーラー服でこんな風に汗を拭いていると、本当に日本の夏の通学路を歩いている気分になってくる。
「喉乾いたら、あるからね。これ」
ユウキが取り出したのは、見覚えのある透明な筒だった。日頃彼が愛用しているそれは、初見では訝しんだものの、すっかり侑子にとっても馴染みの水筒だ。立ち止まってその筒から中の液体を口にする。分かっていても、口元が盛大に緩むことを止められない。
「最高。美味しすぎる」
「一年前も美味しそうにこれ飲んでたね」
「すごく美味しかったなぁ。今年の梅ジュースもとっても美味しいけど、去年飲んだあの梅ジュースは、特別」
再び歩き出して隣を見上げる。緑の瞳もこちらを見ていて、侑子は嬉しくなった。
「ねえ、歌わない?」
「いいよ。何歌いたい?」
夢と現の境目が、曖昧になる瞬間だった。ユウキとの散歩が一日の中で一番楽しみな時間となっているのは、もう睡眠中の夢として見ることがなくなったあの光景の中に、再び没入している感覚に戻れるからかも知れない。
侑子が歌い始めると、最初のフレーズが終わらないうちにユウキの声が重なってくる。流れ落ちる汗も、日差しの熱さも、まるで気にならなくなる。歌声は歩幅を合わせた二人の後を追いかけるように奏でられ続けた。




