知りたい
「侑子ちゃんは、乗り気なんだね」
ミツキとスズカの二人と別れた後、庭の東屋に侑子と紡久は座っていた。
紡久の手にはスケッチブックと鉛筆、侑子の腕の中にはギターがあった。二人の自由時間の定番のお供である。
「うん。エイマンさん、本当に知りたそうだったし。確かにあの体験は怖いけど」
全く知らない人間のものだった感情、それが自分の中になだれ込んでくる違和感。見たことのない映像と音、そして感触。どれもが生々しく五感に刻まれていた。先程紡久が言った通り、その感覚は気分の良いものではない。伝わってきた感情の多くが不快感なのだから当然だ。
「……でもね、ちえみさんの記憶も正彦さんの記憶も、どちらも怖さだけじゃなかったって思うんだ」
ギターネックを支える左手に、僅かに力が入った。
あの日の一組の夫婦の記憶を思い起こす。既に幾度となく振り返った記憶だった。
「二人共お互いのことを本当に大好きで、大切に思っていた。そういう気持ちって、暖かいっていうより熱いものなんだなって分かった。苦しみや恐怖、失った悲しみや、未来を考えられなくなる空っぽな感情……すごく暗い気持ちが沢山あったけど、そんなものを全部上塗りできてしまうくらい強烈でただ熱くて、真っ直ぐだと感じたの」
空は青く晴れていて、侑子は無意識にブレスレットについた青硝子の鱗を触っていた。
「真っ直ぐで熱くて、とても前向きな感情――私、あの感情が自分の中に流れてきて、とても感動してた。だから二人の記憶を知ることができて、良かったって思うんだ。知らなかったから……誰かを好きでいる気持ちが、あんなに強くて揺るぎないもので、心地よさすらあるんだって。知ることができて良かったって思っちゃった。だから、他の人の記憶を見ることも、できるような気がする」
説明することに夢中で侑子は気づいていなかったが、紡久は驚き顔で彼女の話す姿を見つめていた。
「侑子ちゃんって、とてもポジティブだよね」
「え? そうかな」
自覚のないことを指摘されて、侑子はようやく紡久の顔を見た。そんな彼は微笑んでいる。
「俺はそんな風にあの記憶を見ていなかったな。でも、そうかもね。言われてみれば、負の感情だけではなかった。心の一番深くて大きい場所にあったのは、好きって感情だ」
「うん」
「あの好きって気持ち、俺も知らないな。よくある恋愛の気持ちとは、ちょっと違う気がする」
思い出そうとして目を閉じる紡久の睫毛は、明るいオレンジ色だ。大晦日の夜にユウキに染めてもらった色は、引き続き彼の身体を彩っている。その色は明るい昼間の陽光の中で、透き通るように見えた。
「愛、っていうのかな?」
「そうかも。愛かも」
二人の声は軽やかで、思い当たったその感情の名前にどちらも異議は唱えなかったが、それ以上の言及もできないままその会話は終わった。侑子にも紡久にも、その感情は未知だったのだ。
◆◆◆
「俺は反対だ」
その夜、ダイニングテーブルを囲んだ席で、ユウキは強い口調で言い放った。
既に夕食は片付けられた後で、テーブルの上の六人分の湯呑から湯気が立ち昇っていた。
「わざわざ怖い思いをしに行くの? 止めたほうがいい。絶対に」
強い目で見据えられて、侑子は肩を竦ませる。ユウキはミツキ同様難色を示すだろうとは予想していたが、それにしたって猛烈な反対っぷりだった。
「まあ、ユウキの気持ちも分かる。心配だよな。純粋に」
ジロウは深く息を吐きながらも、いつもの軽い調子で言った。
「ただ記録映像を観るだけとは違うんだろう? 本人のその時の感情まで心に入ってくるっていう……なんていうか、その、おじさんからするとだな。これからのユーコちゃんとツムグくんの精神的な発達に影響するんじゃないかとか、そういう方面から心配だなあ」
「私も同感です」
ノマも頷く。
侑子と紡久は顔を見合わせた。どうやらこの場の大人三人は反対らしい。中でもユウキは断固反対の強い姿勢である。二人の視線は残る一人の人物に注がれた。
アミはただ薄く笑っただけだった。いつだって表情から感情の読めない人物である。
「俺は君たちの思うままにしていいと思うけど」
そうだなぁと思案するような素振りを見せると、アミは札入れから一枚の紙片を取り出した。紙幣よりも一回り小さな短冊状のその紙は薄く、片面に墨で何か記号のような文字が記されているようだったが、手渡された侑子には読めなかった。
「それを使うことを前提に、行ってきたらどうだろう」
「何ですかこれ?」
侑子の手元を覗き込んだ紡久が首をひねる。一方で、その紙片を確認したノマはあら、と些か目を丸くした。
「護符ではないですか?」
「そうです。設定した『場』へ強制的に引き戻す効力を持つ護符です。話を聞く限りユーコちゃん達が墓地で経験したことは、二人の意識が個人の記憶の中に取り込まれた現象なのだろうと考えられます。ならばその護符が有効なはず。その護符は、そういった類のものから持ち主を引き剥がす力を持っていますから」
護符、と呟きながら侑子はその紙片を観察してみた。小さなその短冊は、言われてみれば神社で授けられる御札と似ているようにも見える。短冊状の白紙に墨字で何かが記されているところしか共通点はなく、文字は漢字でも平仮名でもなさそうな、見慣れない文字ではあるが。
「なんで護符なんて持ってるんだ?」
訝しむユウキにアミは軽く笑った。
「だって俺の実家は神社だから。父親もきょうだいも、一族殆どが神職なんだ」
一通りの護符の類は簡単に手に入るよ、とアミは続けた。
聞けば護符とは、神職に携わる者にしか作ることのできない特別な魔導具のようなものだという。日本の寺社仏閣の御札とは違うらしい。
「この世界の普通の人が扱う魔法で、どうしても実現することが難しい類のものがある。知ってるかな?」
アミの問いかけに、侑子は記憶を遡る。家庭教師に来た誰かから教わった記憶があった。
「えっと、確か、肉体を作り変えることと、空間と時間を歪ませること……でしたっけ」
「そう。でもその難しい類の魔法を、制限つきでちょっとだけ実現できるのが護符なんだよ」
アミはもう一枚、侑子に手渡した物と同じ札を取り出してそれを紡久に渡した。
「種類は挙げきれない程沢山あるよ。どれも効果は本当に短時間だから実用的とは言えないし、限定的にしか活用できないけどね。でも今回の墓参りでは、君たちの役に立つんじゃないかな。怖くなって、これ以上は嫌だと感じたらその護符のことを思い出せばいい。それだけで意識を元の場所に戻すことができるよ」
「信用できるだけの効果は?」
確認するようにゆっくりとした口調で訊くユウキにも、アミの表情は変わらない。
「権威ある宮司の折り紙付き、とだけは言える」
黙るユウキをちらりと確認して、侑子は顔を上げた。
「私、行きたいです。お墓参り」
頷くアミを見て、ノマを見て、そしてジロウを見た。
「襲撃事件の真相を知ることがエイマンさんたちの役に立つとか、国に貢献することになるとか……そういうこともあるけど。やっぱり同じ世界から来た人達が眠っている場所に、挨拶に行きたい気持ちもあります。それに知りたい……その人たちが何を考えて生きていたのか」
「俺も」
引き継ぐように言葉を発したのは紡久だった。
「やっぱり行きたいです。侑子ちゃんと一緒に見るなら、一人で抱えるより平気な気がする。こういう道具もあるなら、ちょっと安心感もあるし。ありがとうアミさん」
どういたしまして、と目を細めるアミの隣で、ジロウはふうと息をついた。
「じゃあ決まりってことでいいな。エイマンくんに返事をしよう」
「俺も一緒に行く」
ユウキの声は有無を言わさないと告げるように、強く響いた。
「俺からエイマンさんに返事しておくよ。大丈夫、仕事に穴は空けないようにするから」
◆◆◆
侑子たちが十人の墓参りに行くのは、七月二十日に決まった――侑子がヒノクニに来て、ちょうど一年が経つ日でる。




