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青い半魚人  作者: 松下真奈
第一章
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記憶の粒子

「何だ、今の……?」

 瞼を上げた紡久の目に最初に飛び込んできたのは、鏡の向こうから驚愕の表情でこちらを見返す自分だった。その鏡には、正彦の名が刻まれている。

「薬……?」

 うわ言のような呟きが耳に入った。侑子の声だった。

「侑子ちゃん、今の」

「見えた? 今、紡久くんも」

 見開いた目で訴える侑子に、紡久は無言で頷いた。

 侑子と紡久が目を閉じていたのは、ほんの数秒だったに違いない。けれど、その短さとは到底釣り合わない長さの映像と音声が、確かに二人の頭の中を駆け抜けていった。

 二人の様子に気づいた大人たちが、心配そうに声をかけてくる。侑子と紡久は、たった今自分たちに起こった不可解な現象について説明した。

「マサヒコとチーちゃんか」

 ラウトが、壁の上で無機質に光る鏡へ目を走らせた。

「二人の最後の記憶が、君たちには見えたのかもしれない」

「そんなこと……ああ、もしかして、この世界ではよくあることなんですか?」

 侑子は思いついたように言った。こ(・)の(・)世(・)界(・)で(・)は(・)という前提なら、そんなことがあってもおかしくないような気がした。

 しかし、返ってきたのは予想とは正反対の答えだった。

「まさか。よくあることだなんて。少なくとも私は経験したことがないし、周りでも聞いたことはないよ」

 固まった侑子に困ったような顔を向けてから、ラウトはリエとジロウを振り返った。二人も首を振る。

「けど俺は、まったく納得できないってわけでもないな。マサヒコさんとチエミさんがこの世に残した何かが、同じ世界で生まれたユーコちゃんとツムグくんに反応したってことなら」

 ジロウの言葉に、エイマンが頷いた。

「死んだ身体を魔法で細かく分解していく過程で、記憶や感情に結びついた何かも残るんじゃないか、という話は聞いたことがある。確かめられた話ではないけどね。もし鏡に付着した物質の中にそういうものが残っていたとしたら、君たちの魔力に反応した可能性はある」

「記憶の粒子……そんなものが……?」

 紡久は正彦の鏡を見つめた。そこには自分の顔と、その後ろにある部屋の扉が映っている。鏡の中にももう一つ部屋があって、そのどこかにまだ正彦がいるような錯覚がした。扉の向こうで椅子に座り、ガーベラを眺めているのかもしれない。先ほど見た映像のせいだろうか。そんな想像が妙に生々しく感じられた。

「仕組みは全然分からないけど……確かにさっき俺が見たのは、正彦さんとちえみさんの記憶だったんだって思います」

 時間が経つほどに、そうとしか思えない不思議な確信が紡久の中に根を下ろしていく。

「私も……でも、だとしたら、こんなの悲しすぎる」

 侑子の声が震えた。続きの言葉を絞り出すまでの間に、堪えていた涙がこぼれた。

「正彦さんは、自殺だったんですね」

「え?」

 瞬時に強ばったラウトの表情に、侑子は肩をすくませた。予想外の反応に戸惑いながらも、そのまま言葉を続ける。

「そうとしか思えない……正彦さんは、ちえみさんと同じ場所に行きたがってた。瓶の中にカプセルを入れてました。あの栄養剤の瓶に。魔力をすぐに回復させることができたっていう、シェハイです」

「俺もそう思います。正彦さんは、自分が勧めたシェハイを飲んでちえみさんが死んだと思ってた。すごく自分を責めているように感じました」

 侑子の声は涙で掠れていたが、二人の言葉に迷いはなかった。まるで、ついさっき実際にその場へ行って見てきたことを説明しているかのようだった。

「……確かにあの頃のマサヒコは、チーちゃんの後を追ってしまってもおかしくない様子ではあったけれど」

 ラウトの声が震えていた。少し前までの穏やかで落ち着いた様子はすっかりなりをひそめている。

「私たちには、マサヒコさんの詳しい死因は伝えられていないのよ。就労中の突然死としか。チーちゃんの時も同じ。報告は研究所の職員……当時の空彩党員を通じて受けたわ」

 リエが夫の背中をさすりながら補足した。

「だからこの人は、シェハイには身体に害を及ぼす副作用があるんじゃないかって疑い始めた。でも……そうね。自死だったのなら……そういう理由も十分にあったってことになるわね。とても悲しいけど」

「出よう」

 そう促したのはジロウだった。

 侑子は最後にもう一度だけ、たくさん並んだ鏡の前で目を閉じた。けれど今度は、映像も音声も訪れなかった。瞼の裏に見える赤黒い色だけが、静かに広がっていた。



◆◆◆



「おかしいと思うんです」

 ラウトとリエに自宅前で今日の礼を言って別れた後、車に残った四人はしばらく黙り込んでいた。その静寂を破ったのは侑子だった。

「ちえみさんの記憶を見た限り、やっぱりシェハイが彼女の死に関係していたんじゃないかって感じたんです。ラウトさんの予想は外れてないと思う」

 すっかり重たくなった空気の中で、侑子はひたすらちえみと正彦の記憶を振り返っていた。それは紡久も同じだったらしい。

「俺もそう思う。……あのシェハイって飲み物、相当怪しいよ。色だって気味悪かった」

 まるで蛍光色の塗料のような黄緑色だった。飲んでいた人たちはみんな、あの色を知っていたのだろうか。茶色い瓶は中身の色をすっかり隠していたし、ストローも透明ではなかった。

 それに、ちえみはあの栄養剤をかなり嫌がっていた。飲んだ後の気分の悪さは、記憶を通して侑子と紡久にも伝わってきている。まるで自分たちが経験したことのように。

「けど、同じものを飲んでいたはずの正彦さんは、全然警戒してなかった」

「そう、そうなの。正彦さんはシェハイが原因じゃないと思う。あのカプセルで……」

 服毒自殺する直前の人間の感情を、追体験したことになるのだろうか。侑子はあれほどの絶望と後悔を感じたことがなかった。ただ激しい悲しみだけがそこにあって、ほかのものは何も目に入らない。

「……君たちの話を聞いて、少し腑に落ちたことがある」

 ハンドルを切りながら、エイマンが口を開いた。

「シェハイは、チエミさんが亡くなった後も長く使われ続けていたはずだ。それなのに、同じような死亡例があったとは父さんから聞いていない。もしシェハイそのものが生命に関わるほどの毒物だったなら、それは少し不自然だ」

「『魔力が回復する代わりに、ちょっとだけ体力が削られる』……マサヒコさんが言っていたこの言葉通りの作用しか、本当になかったってことでしょうか」

 侑子の言葉を最後に、再び沈黙が訪れた。次に口を開いたのはジロウだったが、彼にしては珍しく自信のない口調だった。

「だとしたら今度は、なんでチエミさんだけあんなに具合が悪くなっていたのかってところが、説明できなくなるんだよなぁ」

「たまたま彼女だけがシェハイと相性の悪い体質だった、と考えることはできます。今分かる範囲で推測できるのは、そのくらいでしょうね」

 エイマンの声も、あくまで推測を口にする響きだった。

「さあ、着きましたよ」

 幾分明るくなったその声に、侑子は顔を上げた。

 車を降りると、ライブハウスのドアの向こうから賑やかな歓声と、聞き覚えのある音楽がわずかに漏れ聞こえてきた。

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