記憶の粒子
「何だ今の……?」
瞼を上げた紡久の目に一番初めに飛び込んできたのは、鏡の向こうから驚愕の表情を浮かべる自分だった。その鏡には、正彦の名が刻まれている。
「薬……?」
うわ言のような呟き声が耳に入る。侑子の声だった。
「侑子ちゃん、今の」
「見えた? 今、紡久くんも」
見開いた目の訴えに、紡久は無言で頷いた。
侑子と紡久が目を閉じていたのは、ほんの数秒のことだったに違いない。けれどその秒数と合致しない長さの映像と音声が、確かに二人の思考の中を駆け抜けていったのだった。
二人の様子に心配そうな声をかけてきた大人たちに、侑子と紡久はたった今自分たちに起こった不可解な現象について説明した。
「マサヒコとチーちゃんか」
ラウトが壁の上で無機質に光る鏡に目を走らせた。
「二人の最後の記憶が、君たちには見えたのかもしれない」
「そんなこと……ああ、もしかしてこの世界ではよくあることなんですか?」
侑子は思いついたように言った。この世界ではという前提のもとなら、納得できる気もした。
しかし、彼女の予想を裏切った返答が返ってくる。
「まさか。よくあることだなんて。少なくとも私はそんな経験をしたことはないし、周りでも聞いたことはないよ」
固まった侑子に困った顔を向けてから、ラウトはリエとジロウを振り返る。二人も首を振った。
「けど俺は、納得できなくはないな。マサヒコさんとチエミさんのこの世に残った記憶の粒子が、同じ世界で産まれたユーコちゃんとツムグくんの二人に何らかの反応を示したってことなら」
ジロウの言葉に頷いたのはエイマンだった。
「死んでしまった身体を分解して細かくしていく過程で、記憶や感情を内包した物質も肉体の外に出ていくと聞いたことがある。鏡に付着している物質の中に、そういったものが残っていたとしたら……君たちの魔力に反応したのかも知れないね」
「記憶の粒子? そんなものが……? よく分からない。仕組みは全く理解できないけど、でも」
紡久は正彦の鏡を見つめた。自分の顔と、その後ろには部屋の扉が見えた。鏡の向こう側にももう一つの世界が広がっている。その世界の中にはまだ正彦が生きているような、そんな妄想がちらついた。あの扉の向こうの部屋で、椅子に座ってガーベラを眺めているのかもしれない。先程見た映像の影響だろうか。妄想は妙に生々しかった。
「確かにさっき俺が見たのは、正彦さんとちえみさんの記憶だったんだって分かります」
時間の経過と共に腑に落ちる不思議な感覚は、紡久の中で着実に根を下ろし始めている。
「私も……でも、だとしたら、こんなの悲し過ぎる」
声が震えた。侑子は続きの言葉を絞り出すまでの間、涙を堪えることができなかった。
「正彦さんは、自殺だったんですね」
「え?」
瞬時に強ばるラウトの表情に、侑子は肩がすくんだ。予想外の彼の反応に戸惑ったが、そのまま一気に言葉を続ける。
「そうとしか思えない……正彦さんは、ちえみさんと同じ場所に行きたがってた。瓶の中にカプセルを入れてました。あの栄養剤の瓶の中に。無属性の魔力をすぐに回復させることができたっていう、シェハイです」
「俺もそう思います。正彦さんは、自分が勧めたシェハイを飲んでちえみさんが死んでしまったと考えてた。とても自分を責めているように感じました」
侑子の声は涙声だったが、彼女と紡久の声には揺るぎがない。ついさっき実際に見てきた光景を説明しているような迷いのなさで言葉が綴られる。
「……確かにあの頃のマサヒコは、チーちゃんの後を追ってしまってもおかしくない様子ではあったけれど」
ラウトの声は震えていて、少し前までの穏やかで落ち着いた人物のなりを潜めていた。その様子から、彼が取り乱しているのだと分かった。
「私達には、マサヒコさんの死因は詳しく伝えられていないのよ。就労中の突然死としか。チーちゃんの時も同じ。報告は研究所職員……当時の空彩党党員を通じて受けたわ」
夫の背中をさすりながらリエが補足するように言った。
「だからこの人は、シェハイが身体に害を成す副作用があるんじゃないかって疑い始めた。でも……そうね、自死だったってことなら……そういう理由も十分にあったって分かるわ……とても悲しいけど」
出よう、と促したのはジロウだった。
侑子は最後にもう一度だけ沢山並んだ鏡の前で目を閉じたが、今度は何の映像も音声も侑子の中に訪れることはなかった。瞼を内側から見る時に見える赤黒い色が、ただ目前に広がるだけだった。
◆◆◆
「おかしいと思うんです」
ラウトとリエに自宅前で今日の礼を言って別れた後、車に残った四人はしばらく沈黙したままだった。その静寂を破ったのは侑子だった。
「ちえみさんの記憶を見た限り、やっぱりシェハイが彼女の死因だったんじゃないかって感じたんです。ラウトさんの予想は外れてはいないと思う」
すっかり雰囲気が重たくなってしまった中、侑子はひたすらちえみと正彦の二人の記憶を振り返っていた。それは紡久も同様だったようだ。
「俺もそう思う。……あのシェハイとかいう飲み物、相当怪しいよ。色だって気味悪かった」
まるで蛍光色の塗料のようだった。あれを飲んでいた人々は皆、知っていただろうか。瓶の色は外側からすっかりあの色を隠していたし、ストローも今思えば透明ではない色付きのものだった。
それにちえみは、あの栄養剤をかなり嫌悪していた。摂取した後の体調の悪さは、記憶を通じてかなり具体的に侑子と紡久に実感として伝わってきている。まるで自分たちも体験したかのように。
「けど、同じものを飲んでいたはずの正彦さんは、全然警戒してなかった」
「そう、そうなの。正彦さんはシェハイが原因じゃないと思う。あのカプセルで……」
服毒自殺する直前の人の心理を、追体験したことになるのだろうか。侑子はあんなにも絶望と後悔に満ちた感情を持ったことがなかった。ただ激しい悲しみだけがそこにあって、他の物は目に入らない。
「……君たちの話を聞いて、納得できたことがある」
ハンドルを切りながらエイマンが呟いた。
「マサヒコさんの死から襲撃事件までの十数年間、他の来訪者達は誰も亡くなっていない。シェハイが生命に影響するような毒物だとしたら、十年を超える間に犠牲者が誰も出なかった方が不自然なんだ」
「『魔力が回復する代わりに、ちょっとだけ体力が削られる』……マサヒコさんが言っていたこの言葉通りの作用しか、本当になかったってことでしょうか」
侑子の言葉を最後に、再びしばらくの間沈黙が訪れた。次に言葉を発したのはジロウだったが、彼にしてはやけに自信なさげな口調だった。
「だったとしたら今度は、なぜチエミさんだけがシェハイで身体を壊してしまったのかってところが、説明できなくなるんだよなぁ」
「たまたま彼女だけがシェハイと相性の悪い体質だった、と考えるしかないでしょうね。今分かる範囲で推測できるのはこれくらいです」
さあ、着きましたよと幾分明るくなったエイマンの声が、侑子の意識を引き戻した。
停車した車から外に出る。ライブハウスのドアの向こうから、賑やかな歓声と聞き覚えのある音楽が僅かに漏れ聞こえてきたのだった。




