魔法
二人はベンチに並んで座り、話をしていた。
侑子を手当てしてくれた男は、テヅカ・ユウキという名の学生だった。
ユウキは侑子のことを、名前と年齢しか訊ねなかった。あとは自分の話ばかりしてくれることに、侑子は密かに感謝していた――自分のことは、この世界で出会った人には進んで話さないほうがいい。なぜだか、そんな気がしていたのだ。ユウキも何か事情があることを察しているのか、それ以上は追及してこない。
彼は知人の男性の家で暮らしていて、学校のない時間には、この広場で曲芸を披露して小遣いを稼いでいるらしい。
家族の話も少しだけした。 父親の顔は知らず、母親とも幼い頃から一緒には暮らしていないという。
なかなか壮絶な過去のように思えたが、それを話すユウキはあっけらかんとしていた。
「今が楽しいから、昔のことはそんなに気にならないのさ」
そう言って笑う顔の中に、少なくとも侑子の目には、影らしい影は見えなかった。
侑子は「曲芸」という彼の小遣い稼ぎにも興味をひかれたが、「それはもうちょっとしたら、最前列で見せてあげる」と告げられた。いつも大体決まった時間に始めるらしく、常連客もいるという。
「もう十八だから、今年で義務教育も終わり。気ままな学生生活も終わりだ。本腰入れて稼げるようにならないと」
そう語るユウキの言葉に、侑子は首を傾げた。
――義務教育が十八歳まで? 十五歳までじゃないの?
訊きかけて、やめた。
ユウキは冗談を言っているようには見えない。
この世界に来てから、自分の知っている「普通」は何度も裏切られている。これもその一つなのだろう。
「ユーコちゃん、その靴の履き心地はどう?」
「ありがとうございます。ちょうどいいみたいです」
「敬語やめてよ。年下とか気にしないで、普通に話してほしい」
会話を重ねるにつれてユウキの口調は軽くなり、初めは随分年上に見えた彼も、少しずつ年齢相応の青年に見えてきた。
侑子は自分の両足を見下ろした。
そこには、日の光を受けて水面のようにきらめく、青い靴があった。
◇◇◇
ほんの数分前のことだった。
靴のない状態で長い距離を歩いたせいで、履いていた白いソックスはボロボロになっていた。
ユウキの『水を呼ぶ』という不思議な特技――信じられないことに、彼はそれを魔法と呼んだ――で再び足を洗ってもらい、擦り切れる寸前の靴下まで綺麗にしてもらった。
「ある程度、水は取り除いたよ」
不思議なことを言いながらユウキから手渡された靴下は、水洗いしたばかりとは思えないほど乾いていた。
「俺はね、身につけるものを作るのが得意なんだ。こうやって――」
再び侑子の前に跪き、裸足の右足を迷いなく掬い上げる。
先ほど膝の傷を洗ったときと同じように右手を翳すと、足の甲を指先ですっと撫でた。その途端。
侑子の足先を、無数の光の粒が包み込んだ。それはきらきらと瞬きながら、命を持っているかのように足の上を駆け回る。
踊るように。
遊ぶように。
何かのリズムを刻むように。
やがて動きを止めた光は、吸い込まれるように足元へと沈んでいった。
――スノードームの雪みたい
最後の光が消えたあと、侑子の右足には一足の靴が現れていた。
爪先の丸い、可愛らしいパンプスだった。
「……すごい」
青い靴は、まるで初めから侑子のために作られたように足へ吸いついている。
日の光を受けるたび、表面に水面のような光が走った。
「きれい!」
よく見ると、うっすらと自分の指先が透けている。硝子のように質感なのに、足を動かすと柔らかく形を変えた。
うっとりと見つめる侑子を見て、ユウキは満足そうに歯を見せて笑った。
「気に入ってもらえたかな。良かった。さっきは随分怖がらせちゃったみたいだから」
「ごめんなさい。びっくりしただけです」
「もう片方も作っていい?」
侑子が頷くと、ユウキは左足を手に取り、同じように甲の上を指先で優しく撫でた。
◆◆◆
靴を作る魔法を見たおかげか、侑子はもう、ユウキが水を呼び出すことにもそれほど恐怖を感じなくなっていた。
指の長い掌に集まる透明な粒へ、恐る恐る指を伸ばしてみる。
確かに水だった。
湧き水のように冷たく、触れた侑子の指先もしっとりと濡れる。
「温度を変えることもできるよ。形もね。氷にしたり、沸騰させて水蒸気にしたり」
ユウキの掌の上で、冷たい水が一瞬にして氷へ変わった。かと思えば、次の瞬間にはボコボコと音を立てて沸騰し、白い蒸気となって空中へ消えていく。
「水って、そんなに色々なものになれるんだね」
「形が決まってないからね」
ユウキは何でもないことのように言った。
手品のような光景だった。けれど、きっと手品ではない。侑子はもう、それを『魔法』と呼ぶ目の前の青年を疑わなかった。ユウキと出会うまでの間に、信じられないものをあまりにもたくさん見てしまったせいだろうか。――掌の上で水を沸騰させるなんて、考えてみれば恐ろしいことのはずなのに。ユウキがそれをする姿を、侑子は美しいと思った。
「……なんか、きれい」
「ほんと?」
ユウキが嬉しそうに笑う。
「ありがとう。じゃあ、お礼にユーコちゃんの服も綺麗にしてあげる」
「え?」
「そのままで」
ユウキが侑子の両肩のあたりに手を翳した。
ふわりと周囲の空気が揺れた。
一瞬だけ制服が水を含んだように重くなり、濡れたと思った次の瞬間には、乾いた布の感触が肌へ戻ってくる。スカートの裾が、風もないのにひらりと揺れた。
「はい、終わり」
「今、何したの?」
「洗濯。便利でしょ」
侑子は制服を見下ろした。
転んだときについた土汚れは跡形もなく消え、皺も、崩れていたプリーツも綺麗に直っている。
「ありがとう……すごいね。あの、ユウキさんって魔法使いなの?」
口にしてから、妙な質問だと思った。
初対面の年上の男に向かって「魔法使いなの?」と真顔で訊いている。
けれど、それ以外に訊きようがなかった。
ユウキは笑いもせず、怪訝な顔もしなかった。
「ユウキさんなんて呼ばなくていいよ。そうだな……ユウキちゃんでいい。そう呼ばれることも多いから。本当は呼び捨てにされることのほうが多いけど、ユーコちゃんはなんとなく、呼び捨てにはしてくれなさそうだよね」
「分かった」
侑子が頷くと、ユウキも満足そうに頷いた。
「それで――魔法使いだっけ。確かに魔法を使うから、間違いではないのかもしれないけど……わざわざ誰かを指して『魔法使い』とは呼ばないかな。この国じゃ、魔法は誰もが使うものだから」
「誰もが?」
「そう。あそこのパン屋のおばさんも、さっき噴水の前で遊んでた子供たちも。みんな使うよ。得意な魔法も違うし、使い方にも結構その人の癖が出る」
「癖?」
「長く一緒にいれば、誰が使った魔法か分かることだってあるよ」
侑子は目の前の広場を行き交う人々を、まじまじと眺めた。
ベンチで読書に耽る老婦人。
クレープ屋の店員。
手を繋いで歩く恋人たち。
母親に抱かれた小さな子供。
この人たちが皆、ユウキと同じように魔法を使うのだという。
とても信じられなかった。
「さっき俺がここで魔法を使ったとき、誰もこっちを気にしてなかっただろ?」
「……うん」
「当たり前のことだからだよ」
侑子はしばらく黙った。
――この国では、魔法を使えることが『普通』なんだ
そこでようやく気がついた。
「あ……っ! 私……」
けれど、続きの言葉が出てこない。
魔法を見るたび驚き、水を出されただけで怯えた。そんな自分を、ユウキはどう見ていたのだろう。
そもそも、傷だらけの格好で突然この広場に現れたのだ。
——どう考えても怪しい
けれどユウキは、狼狽える侑子を見ても表情を変えなかった。むしろ少しだけ眉尻を下げ、顔を寄せる。
「大丈夫。ユーコちゃんが何か訳アリなのは分かったから。無理して説明しなくていいよ」
驚いたが、それ以上にほっとした。
同時に、別の疑問が浮かぶ。
「なんで私に、そんなに優しいの?」
初対面の、こんなに怪しい人間に。
「そんなの当たり前でしょ?」
ユウキは逆に、心底不思議そうに首を傾げた。
「怪我して今にも倒れそうな女の子がいたら、優しくしないわけないよ」
何の気負いもない声だった。本当に、それだけの理由らしい。
侑子の顔の奥が、つんと熱くなった。それが涙になって零れ落ちるより先に、ユウキはそっとハンカチを差し出していた。




