見知らぬ街
広大な庭だった。果てしなく続くかと思うほどの。いっそ田畑だったら納得のいく広さだっただろう。しかしそれは紛れもなく手入れのされた枯山水風の庭園で、そのあまりにも非現実的な光景が、侑子の恐怖感に拍車をかけていったのだった。
ようやく境界と思われる所までたどり着くと、膝丈ほどの柵が目に入った。
――ここが庭の終わり?
侑子は迷わずその柵を跨ぎ越える。そして息を整えながら、周囲を見回し、再び絶望したのだった。
――どこなの。ここは……!
侑子の知っている“景色”ではなかった。
空が広く、電線も電柱もない。
振り返った先に、豆粒ほどの大きさになった日本家屋が建っているのが見えた。たった今自分が不思議な瞳の女と対峙していたのは、すっかり離れたあの屋敷の中だったのだと理解する。
理解できたのはここまでだ。
跨いだ柵の先には、舗装された道が続いていた。歩道と車道を区切る線がある。
泣きそうになりながら、とにかく侑子は進んだ。
――どこに行けばいいのかわからない
ここは本当にどこなのだろう。
俯くと、白ソックスをはいただけの自分の両足が見えた。靴などはいているはずがない。自宅にいたのだから。履いていたスニーカーは、玄関にあるはずだった。学校から帰宅した時に脱いだのだから。
――これは夢なの?
夢から覚めるための方法は知っている……ただ、念じればいいのだ。
考えればいいのだ――私は起きる、と。
しかしさっきから何度試してみても、目覚める気配はない。
それどころか全身の感覚は、どんどん敏感になっているようだった。
◆◆◆
黙々と歩いていると、少しだけ冷静になってくるものだ。もしかしたら自分は結構図太いのかもしれないと、侑子は思い始めていた。
靴下越しの白い道は、柔らかく歩きやすい。
――夏の空気
吸い込む大気の香りも、夏の湿気の匂いだ。
――そういえば暑い……
今は夏。しかし今朝の天気予報で見た予想気温よりも、大分過ごしやすい気もする。そしてやはり今ここは夕方ではなく、昼間の、しかも早い時間ようだった。
周囲にはしばらく畑のような畝が広がるばかりだったが、少しずつぽつぽつと建物が目に入るようになった。車道だろうかと疑っていた道が、やはり車のためのものなのだと判明したのもこの頃だ。路線バスが通過して行ったのだ。
――でも違う。なにか変
民家らしき建造物の前を通ることも増えてきた。しかしせっかく落ち着いてきたと思った胸は、再びザワザワとさざ波を起こし始める。
建造物の形は侑子の知っている町とそう変わらないが、屋根や窓枠が鮮やかなパステルカラーや蛍光色で、目を疑った。
――違う。ちょっとだけ……ううん……全然違う……
道路と敷地の境界を示す塀はガラスやアクリルのような透明な材質で、宝石のような緻密なカットを施されており、日の光に反射してキラキラと輝いていた。
民家と民家の間隔が狭くなってきた辺りで、白一色だった道の先が、突然鮮やかな模様になった。侑子は歩幅を緩めた。
タイルのような色とりどりの平らな石を、モザイクのように嵌め込んだ美しい道だった。車道はそこで終わっており、歩道のスペースが広がった。
美しい道だが、それと同時に胸が不穏な高鳴りと共に、再び強い不安を伝えてくる。
さっきから馴染みのない風景ばかりが目についた。自分が完全な異分子としてここに存在しているという事実が、喉元に突きつけられている。
民家の塀には表札がついていた。
そこに記されている名字は、「田中」や「佐藤」など、侑子にも馴染みのあるものから、アルファベッドや全く見覚えのない文字(?)が並ぶ物もあった。
――知ってる物と、知らない物がごちゃまぜ……
それがこんなにも心を不安にさせるとは、初めて知った。
ぽつりぽつりと、人の姿も目にするようになってきた。民家が増えてきたのだから当然なのだが、誰もが侑子のことを気にしていない様子なのは唯一の救いだった。
侑子は必死に挙動不審にならないように努めつつ、不自然にならない程度に人々を観察しながら歩いた。泣きそうになりながら。
――何なの、何なの……一体ここはどこなの……私はどこにいるの
皆色鮮やかな頭髪と瞳をしていた。金髪や茶髪などの侑子が知っている髪色が地味に感じるくらい、様々な色彩で溢れている。赤や緑、青の絵の具をそのまま筆で塗りつけたような髪色もいれば、どうやって染め上げたのか見当もつかないほど、何色もの色を複雑に組み合わせている髪色もあった。瞳の色も同様だ。
そして侑子を一番驚かせたのが、先程自分を恐怖の淵にたたせるきっかけになった女と、同様の遊色の瞳を持つ人が多く存在することだった。
あの女は白い瞳に黒い瞳孔だったが、黒っぽい瞳に遊色が揺らめいている人もいれば、水色や薄紅色の瞳の人もいた。
人々の服装も個性的なものばかり。和服を着崩した格好、縁日の子供に見かける浴衣ドレスを着ている大人、中世ヨーロッパの貴族さながらの重厚な服装の男女がいる一方で、ジーンズにTシャツ姿の人もちらほら見かける。
侑子はテレビでしか見たことがないが、渋谷のハロウィンのような、無秩序でちぐはぐな光景だと思った。
黒髪に地味な色のセーラー服の自分は、単純に目立たなかったに違いない。
人通りが多くなってくると、向かい側から歩いてくる誰かと進行方向が被ることがでてきたが、自然に避けてくれる。
どうやら自分の姿は見えているようだが、不審に思われている様子もなかった。
思いの外目立っていない事実に少しだけ安堵した。しかし、ほっとした途端に思い出したように足に疲労感が甦ってきた。意識していなかったが、かなりの時間歩きっぱなしだったはずだ。
――休憩したい
座れそうな場所を探し始めた時だった。
五叉路に差し掛かった時、はす向かいに何か探し物をしているように、辺りをきょろきょろ見回すスーツ姿の男が目に入った。ビジネススーツよりも少し華美な印象を与える物だった。
探し物をしているような素振りがなかったら、侑子は気にしなかったかもしれない。他の人々もさして違いのない服装なのだ。
しかし――
「あ、君。そこの黒髪の」
――ほら、やっぱり
嫌な予感は当たるものだ。
特に侑子は、昔からこういう危険察知能力は、高い方だと自負していた。
男が探していたのは自分なのだ。
薄々感じてはいたが、やはり自分はこの場所では異分子なのだ。きっとさっきの屋敷にいた女が、通報でもしたのだろう。この街に警察がいるかはわからないが、きっといるだろう。
――捕まるの?
悪事を働いた覚えはない。しかし先程の屋敷での一連の出来事は、遊色の瞳の女からすれば、不法侵入にあたるのではないか。
――いっそ捕まってしまおうか
その方が楽かもしれない。ここがどこなのか判明するだろう。
――だけど
現実的な判断を下す前に、侑子の脚は再び駆け出していた。