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正解

「指は痛まなくなってきた?」


 小さな背中に話しかけると、びくっとしてすぐに目を丸くした顔が振り返ってくる。

 予想通りの反応に、つい堪えきれない笑い声を漏らしてしまう。侑子はユウキの姿を認めると、ふっと恥ずかしそうに微笑んだ。


「サボってるとこ見られちゃった」


 侑子の前には数学の問題集と真っ白なノートが開かれていた。自習中だったようだが、問題を解いていた形跡は白紙のページの中に見つけられない。


「指はまだ痛くなるけど。ちょっと慣れてきたような気もする」


 ギターを始めたばかりの初心者であれば、誰もが悩む指の痛みである。力の入れ加減や痛みそのものに慣れてくればいつの間にか気にならなくなるのだが、まだまだ侑子は過渡期のようだった。無意識に痛む指先を親指で抑える癖がついていて、まるで影絵遊びの狐のような手の形になっていることがよくあった。


「分からない問題は?」


 問題集を覗き込むユウキに、侑子は首を振った。何か逡巡するような顔をして、思案顔のまま口を開く。


「数学の問題には必ず答えがあるもんね」

「ん?」

「答えがどこにも見つからない問題って、どうやったら正解だって分かるんだろう」


 ユウキは侑子の隣に椅子をひっぱってくると、そのまま無言で彼女の隣に座った。何も書き込まれていないノートに視線を落とす侑子の顔は酷く大人びていて、普段と少しだけ別人にすら見える。


「助けたほうがいいって直感で分かっても、助けないほうがいい時ってあると思う?」


 視線を上げて見つめてきた侑子の目は真剣だった。ユウキは質問の背景を掴めないまま考え込んだ。


「目の前で今にも死にそうだったら、相手の事情なんて考えないで迷わず助けるけど」


 そういう状況が過去にあっただろうかと記憶を漁った。一番心当たりがあったのは、やはりあの政争で混乱した日々だった。


「助けないほうがいい時……その判断で使える材料は、他人からは絶対に見えないと思うよ。とても個人的な、一人一人の心の内側の問題だから」


 思案しながら喋る時のユウキの声は低く、頬を撫でるそよ風のように耳あたりが良かった。


「もし相手が求めてきたら、その時応じるだけだ。でもさ、それより前に助けに行くか行かないかは、結局助ける側の気持ち一つだよ。正解はない。そもそも、行動してみて初めて正解だったかどうか分かることや、いつまでも正しかったのか分からないことばかりなんじゃないかな。人によって正解の判断基準もまちまちなんだし」

「……そうかも」


 侑子はふと考える。答えの分からないこの質問を、そもそもユウキに相談すること自体が正解だったのだろうか。侑子にとっていつだってユウキは『正』なのだから、彼に諸々の意見を求める事自体が侑子にとっての偏りの原因となるはずなのだ。

 しかし、もう遅い。侑子にはユウキの声が運んだ言葉に納得する他の選択肢がなかった。問題が難解であればあるほど抗えない。


「ユーコちゃんが自分で考えた方がいい問題かもね」


 侑子の胸の内を知ってか知らずか、ユウキは緩い笑みと共にそんな言葉で締めくくった。


「少なくとも俺は、ユーコちゃんの選択に賛同すると思う……君は俺にとっての、正解そのものだから」



◆◆◆



 庭先の梅の蕾が、丸く膨らんでいる。

もう数日のうちに開花しそうだと気づいたのは、三月に入ったばかりの温かい日だった。

 屋敷の庭には紅梅と白梅の木が複数植えてあり、いずれも紡久の背丈よりも高かった。背伸びしなくとも目に入る位置に蕾をつけた枝が広がり、紅梅の蕾はしっかり紅色をしていることが遠目でも分かる。

 

――これだけ暖かければ、暖はいらないな


 小脇に抱えていた小型の折りたたみチェアを広げて、腕にぶら下げていた四角いランタン状の箱を地面に置く。いつもならその箱の中に入った数個の炎の魔石に火を灯し、暖を取りながら作業するのだが、今日は着火のために手を翳すことはしなかった。

 陽の光が、紡久の明るいオレンジブロンドの髪を燃やすように照らした。黒髪よりも熱を吸収しにくい気がするが、気の所為だろうか。こちらの世界に来てからまだ一度も散髪をしていないので、髪は大分伸びていた。前髪のオレンジ色はいつでも彼の視界に入り、その度に自分がいる世界が異世界であると意識させられる。

 A5サイズほどの小型のスケッチブックをめくると、何も描き込まれていない紙に鉛筆を走らせた。折りたたみチェアを広げたものの、結局そこには座らずに時間は過ぎていく。

 梅の蕾とスケッチブックの上を視線が何度も往復し、白一色の紙の上にいくつもの丸い蕾が次々と息吹を上げていった。



◆◆◆



 侑子の部屋からは梅の木がよく見えた。広縁の椅子に座っていると自然と目に入る位置にあって、その側で最近いつも紡久がスケッチをしていることも知っている。


『絵を描くのが好きなんだ』


 そんな風に話を切り出されたのは、紡久の様子がおかしかったあの日から数日の後だった。

 サンルームでギターの自主練習をしていた侑子の隣におもむろに腰を下ろした彼は、一冊のスケッチブックを侑子に手渡してきたのだ。表紙をめくると、花瓶に生けた花々や、屋敷の窓から見下ろした街路樹の絵の数々が目に飛び込んできた。黒一色が様々に調節された濃淡で紙の上を走り、強弱をつけたタッチで無数の線が呼吸しているかのように並んでいる。

 絵に詳しくない侑子でも、そのスケッチが素晴らしいものであることは分かった。感嘆する侑子の横で、紡久はしばらく穏やかな笑顔を浮かべていた。影のない彼の笑顔は久しぶりに見たような気がして、侑子は嬉しくなった。


『美術コースのある高校に行きたくて、目星もつけてたんだ。学校の……引っ越す前の学校の担任もいいんじゃないかって、勧めてくれていて。父親も特に反対はしてなかったんだけどね』


 先日の話の続きに繋がるのかと、僅かに心を身構えた侑子だった。しかしそんな気持ちを察したのかは分からないが、紡久は今度は俯くことなく話を続けた。


『結局この世界に来てしまったから、高校のことはもういいんだ。俺達ってもう帰れないんだろう? 正直、俺は良かったってホッとしてるんだ。この間は最後まで話すことが出来なかったけど……あの続き、まだ話せる気持ちにはなれないんだけどさ』


 ごめんね、と呟く紡久を見ながら侑子は驚いた。この話題をいつか紡久と話してみたいとは思っていたが、まさかこんなに早くに実現するとは。しかも彼はどこかすっきりした表情さえ浮かべている。


『この世界のこと、まだ分からないことばかりだ。具体的にどうやって生きるって計画は立てづらいけど、これからどうしていきたいのか考えるべきだって、ここ数日で考えがまとまってきたんだよ。まずは一番好きなことを続けてみようって思うんだ』


 うん、うんと頷く侑子は、何故か鼻の奥がツンとする痛みを感じた。涙腺が刺激された痛みだと気づいて、外側に出てこないように堪えながら大きく微笑んでみせる。


『絵、また見せてね』

『もちろん。俺も見てもらいたい。そうだ。今度侑子ちゃんのあみぐるみも描いてみたいな。貸してもらえる?』

『いいよ。けど、あの子たち、ちゃんと止まってモデルしてくれるのかな』

『確かに。いつも動き回ってるね』


 楽しくて笑い出した二人の間に、同郷のよしみ以上の絆が生まれた瞬間だった

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