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青い半魚人  作者: 松下真奈
第一章
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サンルーム

「ギターを?」

 ユウキからそう提案された時、侑子は楽器の弦を張り替える作業を手伝っているところだった。

 ジロウの屋敷にはたくさんの楽器が保管されている。そのほとんどが変身館で使用するものだが、しまいっぱなしにならないよう、時々保管庫から出して空気を入れ替え、ついでに手入れもするのだという。

「うん。教えてあげるよ。ツムグくんも一緒に」

「俺も?」

 切った古い弦を外しながら、紡久がきょとんとした顔をする。

「私もね、教えてもらうことにしたの。ほら、アミもここで下宿を続けることになったでしょ。先生が二人いれば頼もしいじゃない。それに三人一緒に教えてもらうの、楽しそうじゃない?」

 リリーが笑った。今日は彼女も一緒に楽器の手入れをしている。

「二人は楽器の経験は?」

 アミに訊かれ、侑子と紡久は顔を見合わせて首を振った。

 侑子は幼い頃、仲の良い友達の影響でピアノ教室に憧れた時期があった。自分も習ってみたいと思ったものの、結局始めることはなく、それから楽器に触れる機会もないままだった。人前で歌うことすら避けてきたのだから、当然といえば当然だった。

「紡久くんもないんだ?」

「うん……まあ、今まで音楽やろうとか、ちっとも思ったことないし」

「楽器って楽しいわよ」

 クロスを片付けたリリーがピアノ椅子に腰掛けた。鍵盤の上を流れるように指が走り、美しい旋律がサンルームに広がっていく。

「私も弾きながら歌えるようになるかな」

 そこへ重なったリリーの低い歌声に聞き惚れながら、侑子は呟いた。

 密かに憧れていたのだ。ピアノを弾きながら、ギターをかき鳴らしながら、踊るように歌う姿に。変身館で目にする歌歌いたちにも、楽器を演奏しながら歌う人は多い。侑子の身近では、リリーとユウキがそうだった。皆、何でもないことのように声と楽器の音を操っている。それが侑子には、とても高度な技に見えた。

「慣れればできるようになるよ」

 小さな呟きもしっかりユウキに拾われていたらしい。弦を張り終えたギターを手渡すと、ユウキは受け取りながら笑った。

「やってみる?」

 侑子は頷いた。



◆◆◆



 その日、央里では珍しく朝から激しく雪が降っていた。予報によれば、明日の午前中まではこの調子で降り続けるらしい。

「雪なんて久しぶりに見たな」

 紡久は外を眺めながら呟いた。

 サンルームで洗濯物を干していた侑子と紡久の話題は、自然と天気のことになっていた。透明な天井には雪が積もらない仕掛けが施されているらしく、小さな雪片がふわりと着地した途端、水滴になって流れ落ちていく。

「紡久くんがいたの、鹿児島なんだよね」

 紡久の自宅は鹿児島市からほど近い町にあったという。ヒノクニの地図で彼が発見された場所を確かめたところ、元の世界で暮らしていた町とほぼ同じ位置にあった。

「雪は降らないの?」

「いや、そんなことないらしいよ」

 紡久は外を見たまま答えた。

 庭はすでにうっすらと白くなっている。この分なら、昼前にはかなり積もっているかもしれない。

「俺、去年の春に県外から引っ越したばかりだったんだ。だから冬の鹿児島は全然知らないんだよ」

 紡久はそう言いながら、干し終えた洗濯物へ温風サーキュレーターの風を向けた。中には黄色、緑色、赤色の魔石が一つずつ入っている。

「前はどこに住んでいたの?」

「埼玉」

「そうなの? 私、東京だよ。近くにいたんだね」

 侑子が笑うと、紡久もつられたように微笑んだ。けれど、その笑顔はすぐに陰った。

「うち、母親がずっといなくてさ。父と俺の二人暮らしだったんだ。中三に上がるタイミングで父が鹿児島に転勤になって、それで引っ越したんだよ」

 生ぬるい温風が二人の髪を揺らしていた。外は凍えるほど寒そうなのに、サンルームの中は湿度とともに少しずつ暖かくなっていく。

「本当は埼玉に残りたかったけど、親戚もいないし、一人暮らしも許されなくて。結局、鹿児島について行くことになったんだ。受験もあるのに、全然乗り気じゃなかった」

「あ……そっか」

 本来なら今頃、高校受験が本格的に始まっている時期だ。すでに二月も半ばだった。二人はこちらの世界で学校には通っていない。屋敷にいる大人たちから勉強を教えてもらう日々が続いていた。

「行きたい高校は決まってたの?」

「うん。なんとなくだけどね。それで鹿児島に行きたくないって気持ちもあったけど、それ以上に嫌だったのは……」

 大きく息を吐き、紡久は椅子に腰を下ろした。俯いてしまったので、表情は侑子から見えなくなる。

「父の交際相手も一緒だったってこと。転勤になる少し前から付き合ってたけど、鹿児島に行ったら三人で暮らすことが決まってたんだ。俺、苦手だったんだ。あの人」

 それきり紡久は黙った。侑子が何か言いかけた気配がしたが、顔を上げることはできなかった。

 思い出したくないはずの、鹿児島での日々が蘇っていた。



◇◇◇



 その人は四十代の父より、二十歳近く若い女性だった。紡久の姉だと言われても不自然ではないほどの年齢差だった。

 長く父と二人だけだった家庭へ、突然入り込んできた人。服装も外見も大人しそうで、最初は特に強い印象を抱かなかった。ところが話してみると、意外に我の強い性格をしていることが分かった。父とは仕事を通じて知り合ったと聞いていたが、紡久の家へ頻繁に出入りするようになった頃には、働いている様子もなかった。

 最初は、ずいぶん若い人だという驚きと、父のどこに惹かれたのだろうという疑問があっただけだ。しかし、その違和感が嫌悪へ変わるまで、そう時間はかからなかった。

 父の前にいる時と、紡久と二人きりになった時とでは、態度がまるで違った。

 一度、紡久は父に「あの人、大人しそうに見えるけど、意外と荒っぽいところがあるよね」と遠回しに伝えたことがある。しかし、まったく共感してもらえなかった。

 考えてみれば当然だった。紡久と二人きりの時には乱暴な言葉を平気で使うのに、父がいる時には常に丁寧な言葉で話していたのだから。

 二人の人間を相手にしているような気味の悪さを感じ始めた頃、父の鹿児島への転勤が決まった。

 鹿児島の中学校へ編入してから、紡久は数えるほどしか教室へ行かなかった。

 クラスの雰囲気が悪かったわけではない。毎日通い続けていれば、そのうち馴染めたのかもしれない。それでも足が向かなかった。

 学校から帰れば、玄関の向こうにはいつも彼女がいた。引っ越して一週間も経たないうちに、その「おかえり」という声を聞くだけで身体が強張るようになった。

 中学三年という時期に転校してきただけでも目立つ。それに加えて、父と年の離れた交際相手との三人暮らし。そんな家庭のことを誰にも知られたくなかった。

 同じ年頃の生徒たちの中にいれば、自分だけが違うのだと誰かに見抜かれてしまいそうな気がした。

――高校には進まなければ

 高校へ進んだら、埼玉へ帰る。それだけを考えて、どうにか保健室までは通っていた。

 そして、決定的なことが起きた。

 あの日も、父が帰宅するぎりぎりまで外で時間を潰していればよかった。

――今更後悔したって仕方ないけど

 彼女が紡久の部屋へ入ってきた。

 逃げる間もなく床へ押さえつけられた。

 何が起きているのか分からなかった。父の名前を出され、逆らえば困ることになるというような言葉を浴びせられた。怒っているような声なのに、その顔だけは笑っていた。

 スマートフォンのレンズを向けられた時、ようやく恐怖が身体を動かした。

 紡久は力いっぱい相手を突き飛ばした。女が呻き、次の瞬間には罵声を上げた。

 それ以上は、思い出したくなかった。

 乱れた制服を直す余裕もないまま、紡久は玄関へ向かって走った。

 ドアを開ける寸前、廊下の窓から鹿児島の町が見えた。

 九か月近く毎日見ていたはずなのに、その景色は最後まで自分の町にはならなかった。

 靴を履いたかどうかさえ覚えていない。ただ、外へ出なければと思った。

 海が近いせいか、ときどき潮の匂いが風に混じっていたことだけを、妙にはっきり覚えている。


「紡久くん?」

 躊躇いがちに肩へ触れた侑子の指先は、すぐに離れた。

「大丈夫?」

「ごめん。やっぱ、また今度話す」

 紡久は立ち上がると、侑子の方を見ないままサンルームを足早に出ていった。



◆◆◆



 侑子が次に紡久と顔を合わせたのは、翌日のギター練習の時だった。昨夜は夕食の席にも姿を見せなかった。

「昨日はごめんね」

 それだけ告げた紡久の顔には一瞬影が差したが、練習が始まる頃には、いつもと変わらない様子に戻っていた。

 何があったのか、侑子には知る術がない。そして、勝手に想像していいことではないようにも思えた。

 ただ、紡久がこちらの世界へ来る直前、ひどく苦しい状況にいたことだけは分かった。そして、彼があの場所へ戻りたいと思っているのかどうかさえ、侑子には分からなかった。

 久しぶりに、自分が元の世界へ戻れないという事実について考えた。それを知った時、侑子は果てのない絶望を感じた。

 けれど、紡久にとっての「帰れない」は、自分のものとは違うのかもしれない。

――帰れないことが、悲しいとは限らないのかな

 いつか、そのことを紡久と話せる日が来るだろうか。

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