毒草
新年を迎えた瞬間、空席になっている二つの席を見つめながら、彼女はため息をついた。
政治家である夫が普段から多忙なのは、よく理解している。休日に二人で寛いでいても透証にはひっきりなしに通知が届くし、会話の最中に断れない呼び出しがかかることにも、すっかり慣れてしまった。
けれど、一年の中で家族との時間を最優先にすることが許されるはずのこの日まで我慢しなければならないとなれば、さすがにため息の一つくらい出る。しかも今日は息子までだ。
二人が席を立ってから、すでに二時間以上が経っていた。取り分けておいた料理も、すっかり冷めている。
彼女が身につけた上品なロングドレスは、冬の吹雪を思わせる曇った空の色に染まっていた。
「外に出ていったわけじゃないから、そのうち戻ってくるわよ」
大判のストールが肩にふわりとかけられた。鮮やかな花々が咲き乱れる、華やかな柄だった。励ますような声は娘のものだ。
「お父さんもエイマンも、もう少し仕事をセーブすればいいのにね」
「いいのよ。二人とも国のためにやっているのだから、私が文句を言うものじゃないわ。そんなふうに働いている父さんを見るのも、そんな父さんを尊敬している息子を見るのも、誇らしいものですもの」
ストールの賑やかな色を眺めていると、少しだけ気持ちが上向いた。
本来自分が好きなのは、こんな曇り空の色ではない。こういう艶やかな花の色だったはずだ。
彼女は椅子から立ち上がった。
「さあ、料理を温め直しましょ。きっともうすぐ戻ってくるわね」
◆◆◆
「ダチュラ・ロパン。そんな名前の党員はいない」
ラウトは息子から渡されたメモに目を走らせ、すぐに言い切った。改めてその名前を見つめ、首を振る。
「平彩党の党員だと偽った人間か、偽名を使った党員か。どちらにしても悪趣味だな。ダチュラか……白い花を咲かせる毒草の名だ」
「ジロウさんとノマさんにも、顔写真付きの党員名簿を確認してもらおう。念のため」
必要な資料を手際よく準備する息子を横目に、ラウトは眉間に皺を寄せた。
ふと、机の上に置かれた小さな冊子が目に入る。少し前に息子へ貸した、大切な思い出の品だ。開かれたページには、古い友人の笑顔が残っていた。
「ユーコさんと言ったか。女の子の方は、もう半年ほどこの国に住んでいる。厳密に出自を隠してきたわけでもないそうだし、彼女が来訪者だとどこかから知られていたとしても、さほど不思議ではない」
ラウトはそこで言葉を切った。
「だが、問題は少年の方だ。彼はこちらへ来て間もない。それに、発見された街から王都へ移動した時以外は、ジロウさんの屋敷からほとんど出ていないそうじゃないか」
「ツムグくんだね。確かに、こちらへ来てからまだ一月も経っていない。ジロウさんの屋敷で暮らしている人たち以外とは、ほとんど接触していないはずだ」
「だが、もしあの男が少年の存在まで知っていたのだとしたら、どこから情報を得た?」
エイマンも押し黙った。
ジロウから透証越しに聞いた話では、男は『個人的にお会いしたい方々』と言ったらしい。侑子や紡久を名指ししたわけではない。それでも、二人を指していた可能性は無視できなかった。
「見張るようで気は進まないが……」
ラウトは写真の中の友人を見つめた。
「来訪者の二人のそばには、私たちが信用できる人間をなるべく置いた方がいい。透証の位置情報だけを過信することはできない。あの頃とは時代も違う」
ラウトの胸に、古い記憶とよく似た不安が蘇った。
政争は終わった。それでも、すべてが以前の姿へ戻ったわけではない。表面上は静かになっても、どこに何が残っているのか分からない。
時計を見ると、いつの間にか新しい年を迎えていた。
ラウトは不吉な考えを振り払うように、息子の背中を軽く叩いた。
「ジロウさんに名簿を送ったら、すぐ居間に戻ろう。母さんたちが気をもんでいるだろう」
◆◆◆
「ユーコちゃんとツムグくんを、なるべく一人にしない方がいいのね」
ジロウの説明を聞いた三人のうち、最初に口を開いたのはリリーだった。
年が明けて六時間も経つと、欠伸を噛み殺せなくなった人が一人、また一人と部屋へ戻っていった。大広間でそのまま眠り込んでしまう者まで現れ、宴が自然とお開きの空気になった頃、リリーとユウキ、アミの三人はジロウの自室へ呼ばれた。
「ダチュラ・ロパン。何度見ても名簿に載ってない。平彩党の党員っていうのも嘘だったんだ」
ジロウの透証から浮かび上がる党員名簿を確認していたユウキが、顔を上げた。
名簿には一人一人の顔写真も載っていたが、ジロウとノマが数時間前に目にした男の顔はどこにもない。
「本当にあの二人が目当てだったのか、確証はないけどな」
「それでも、二人の周囲は警戒しておいた方がいいでしょう」
答えたのはアミだった。
アミの表情は、いつもとほとんど変わらなかった。
「来たばかりのツムグくんのことまで知っていたのだとしたら、偶然では片づけにくい。少なくとも、あの男がどこから二人の情報を得たのか分かるまでは、用心した方がいいでしょう」
「何なのよ、そいつ。平彩党の人間でもないのに、わざわざ政治家なんて名乗って」
リリーが眉間に皺を寄せる。
「それも分かりません。ただ、身元を偽ってまでジロウさんの屋敷を訪ねた。それだけでも十分不自然です」
部屋の壁に掛けられた仕掛け時計から、場違いに陽気な旋律が流れ始めた。
文字盤についた小さな扉が観音開きに開き、中から木彫りの小鳥が飛び出す。八つの鳴き声を響かせると、小鳥は再び扉の向こうへ引っ込み、あとは何事もなかったように秒針の音だけが残った。
「二人には、この話は伏せておいた方がいいのよね」
ここへ呼ばなかったということは、そういうことなのだろう。
「そうしてもらえるか。けど、ユーコちゃんとツムグくんがなるべく一人にならないように気を配ってやってくれ。俺も、うっかりユーコちゃんに雑用を頼みすぎないように気をつけるからさ」
ジロウの言葉を最後に、三人は部屋を出た。
冷え冷えとした廊下を歩く三人に、会話はなかった。
眠気でぼんやりしていた頭は、すっかり冴えてしまっていた。




