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サンルーム

「ギターを?」


 ユウキから提案をされた時、侑子はその楽器の弦の張替えを手伝っているところだった。

 ジロウの屋敷では沢山の楽器を保管していた。殆どが変身館で使用されるものなのだが、仕舞いっぱなしにならないように、たまに外に出して保管庫の空気の入れ替えついでにメンテナンスも行う。


「うん。教えてあげるよ。ツムグくんも一緒に」

「俺も?」


 カットした弦を外しながら、紡久はきょとんとした顔をした。


「私もね、教えてもらうことにしたの。ほら、アミもここで下宿続けることになったでしょ。先生二人いれば頼もしいじゃない。それに三人一緒に教えてもらうの、楽しそうじゃない?」


 リリーが笑った。今日は彼女も一緒にメンテナンスを行っている。


「二人は楽器の経験は?」


 アミの質問に、侑子と紡久は顔を見合わせながら首を振った。

 侑子は幼い頃、仲良しの友達の影響でピアノ教室に憧れた時期があったが、当時は古い集合住宅に住んでいたこともあって叶わなかった。それから楽器を習う機会は訪れないままだったが、人前で歌うことすら避けてきたのだから、当然といえば当然だった。


「紡久くんもないんだ?」


 侑子の問いかけに、紡久は少しだけ気まずそうな表情を浮かべた。


「うん……まあ、今まで音楽やろうとか、ちっとも思ったことないし」

「楽器って楽しいわよ」


 クロスを片付けたリリーは、ピアノ椅子に腰掛けた。流れるような指先が美しい旋律を紡ぎ出していく。


「私も弾きながら歌えるようになるかな」


 響き出したリリーの低い歌声に聞き惚れながら、侑子は呟いた。

 密かに憧れていたのだ。ピアノを弾きながら、ギターをかき鳴らしながら、踊るように歌う姿に。変身館で目にする歌歌い達は、楽器を演奏しながら歌う人が多かった。侑子の身近では、リリーとユウキがそうだった。皆何でもないことのように、声と楽器の二つの音を巧みに操っているように見えたが、侑子にはとても高度な技に映る。


「慣れればできるようになるよ」


 小さな呟きは、しっかりユウキに拾われていたようだ。弦を張り終えたギターを彼に手渡すと、「やってみる?」と再び問いかけられて、侑子は頷いていた。



◆◆◆



 その日、央里は珍しく朝から激しく雪が降っていた。予報では明日の午前中まではこの調子で降るらしい。


「雪なんて久しぶりに見たな」


 紡久は外を眺めながら呟いた。サンルームで洗濯物を干していた紡久と侑子の話題は、自然と天気の話になっていた。

 透明な天井には、雪が積もらない仕掛けが施してあるのだろう。小さな雪がふわりと着地すると同時に、それはすぐに液体となって流れ落ちていく。


「紡久くんがいたの、鹿児島なんだよね」


 彼の自宅は鹿児島市からほど近い町にあったという。ヒノクニの地図で彼が発見された場所を確認したところ、やはりその位置は、元の世界の彼の自宅のあった町と重なっていた。


「雪は降らないの?」

「いや、そんなことないらしいよ」


 紡久は外を眺めたまま返事した。

 庭先は、既にうっすら白くなっている。この分だと、きっと昼前にはある程度積もっているのではないだろうか。


「俺、年度始めに県外から引っ越してきたばかりだったんだ。だから冬の鹿児島は全く知らないんだよ」


 紡久はそう説明しながら、干し終えた洗濯物に向かって温風サーキュレーターの風を向けた。サーキュレーターの中には、黄色、緑色と赤い魔石が一つずつ入っていた。


「前は何処に住んでいたの?」

「埼玉」

「そうなの? 私東京だよ。近くにいたんだね」


 笑った侑子に、紡久もつられたように微笑んだが、すぐに笑顔は陰ってしまった。その表情に侑子が僅かに顔を傾けると、説明するように紡久が口を開いた。


「うち、母親がずっといなくてさ。父と俺の二人暮らしだったんだ。中三に上がるタイミングで、父が鹿児島に転勤になって。それで引っ越したんだよ」


 生ぬるい温風が、二人の髪を揺らしていた。外はとても寒そうだったが、サンルームの温度は湿度とともに少しずつ上昇している。


「本当は埼玉に残りたかったけど、親戚もいないし、一人暮らしも許されなくて。結局鹿児島について行くことになったんだ。受験もあるのに、全然乗り気じゃなかった」

「あ……そっかあ」


 本来なら今頃、高校受験が本格的に始まっている時期だろう。既に二月も半ばだった。二人はこちらの世界で学校には通っておらず、屋敷で色々な人に家庭教師をしてもらう日々が続いていた。


「行きたい高校は決まってたの?」

「うん。なんとなくだけどね。それで鹿児島行きたくないって気持ちもあったけど、それ以上に嫌だなぁと思ってたのは……」


 大きくため息をついて、紡久は椅子に腰を下ろした。真下を向いてしまったので、表情が完全に見えなくなる。


「父の交際相手も一緒だったってこと。転勤になる少し前から付き合ってたけど、鹿児島に行ったら三人で暮らすことが決まってたんだ。俺、苦手だったんだ。あの人」


 そう言ったきり黙ってしまった。傍らで侑子がおろおろするのが分かったが、紡久はすぐに顔を上げることができなかった。脳裏にはこの世界に来る前の、暗い日々の記憶が蘇ってくる。



◆◆◆



 その人は四十代の父よりも、二十才近く若い女だった。紡久の姉だとしても全く不自然ではない年齢差だった。

 長く父と二人だけだった家庭に、突然転がり込んできた女。服装も外見も大人しそうな印象で、特徴のない顔つきだった。ところが喋ってみると、意外と我の強い性格をしていることが分かった。元々父とは仕事関係で知り合ったと聞いていたが、紡久の家に入り浸るようになった頃には、働いている気配はなかった。

 当初はやけに若い女性だという驚きと、父のどこが魅力的にうつったのだろうと訝しんだだけだ。しかし紡久の中で彼女に対する嫌悪感が大きくなるまで、そう時間はかからなかった。

 最初に違和感を感じたのは、父親の前と自分と二人きりになった時の態度に落差が激しいと気づいたことからだった。紡久が父親に彼女のことを、「大人しそうに見えるけど、意外と荒っぽくて図々しいところがあるよね」と遠回しに言葉遣いの粗暴さを指摘したことがあったのだが、全く共感してもらえなかった。

 そういえば自分と二人だけの時には、下品とも思える言葉を使うのに、父がいる場所では常に敬語だ。まるで二重人格の人間を前にしているような不気味さを感じ始めた頃、父の鹿児島行が決まったのだった。

 

「鹿児島の中学に編入してから、二回くらいしか教室に行ってないんだ」


 長い沈黙の後に再開した話は、やけに飛躍してしまったかと思った。しかし侑子は、相槌を打って聞いている。


「クラスの雰囲気は良さそうだったし、毎日通い続ければなんとかなったと思うんだけど……だけど」


 再び言葉が詰まった。

 新居の玄関ドアを開けると、いつもあの女の「おかえり」という声が聞こえた。玄関まで出迎えた彼女の、自分を見る視線が不愉快だった。そう思ったのは、引っ越してきて一週間も経たない頃だ。

 中三という中途半端な時期での転入というだけでも目立つのに、父親の年の離れた内縁の妻も同居している――そんな家庭環境を、誰かに知られたくなかった。自分と同じ年齢の同級生たちと同じ空間にいたら、誰かに自分だけが異質だと指摘されてしまいそうで堪らない。

 教室に足を運ぶことが恐ろしくて、編入してから数えるほどしか顔を出さなかった。


――中学留年だけは避けなければ


 一日も早く高校へ進学する術を得て、埼玉へ帰る。それだけを考えて、なんとか保健室まで這うようにして通う毎日だった。

 そして、決定的な出来事が起きたあの日。

 父の帰宅時間ギリギリまで、どこかで時間を潰しているべきだった。


――今更後悔したって仕方ないけど


 女は、紡久の部屋へ入ってきた。

 硬い床の上に組み敷かれた。

 驚いて何も抵抗できないでいる紡久に、父の名を出し、脅迫するような口調で攻め立てる女の声が蘇る。

 怒っているような声なのに、顔は艶っぽく笑っていて不気味だった。

 剥ぎ取られた服。

 露出させられた肌が感じた空気は冷たい。暖房をつける前だった。

 笑いながら自分に跨ってくる女が、スマートフォンのレンズを向けてくる。それは深海魚の瞳のように、無感情な光を湛えていた――荒い呼吸 呻く声 喘ぐ音 生々しい音の数々を女は嬉しげに「卑猥」と表現した。その二文字が顔の横で囁かれる度に、紡久は自分が何度も死んでいくのを感じた。

 未遂、だったと信じたい。

 思い切り突き飛ばした女が呻いて、そして罵声を叫びながら立ち上がったところまでは目にしたので覚えている。般若の顔だった。

 はだけた制服を完全に整えないまま、紡久は玄関に向かって狭い家の中を跳ぶように走った。 

 玄関のドアを開ける寸前。

 目に飛び込んできた廊下の窓から見える景色は、馴染みのない鹿児島の町だった。一応九ヶ月間毎日目にしていたはずの景色は、紡久に相変わらずよそよそしいのだ。

 小さな絶望感を感じながら、紡久はドアへと手を伸ばした。靴をはいたかどうか、覚えていない。

 海が近いからなのか、潮の香りが運ばれてくることがあったなと思い出す。


「紡久くん?」


 躊躇いがちに肩に触れた侑子の指先は、すぐに離れていく。


「大丈夫?」

「ごめん。やっぱ、また今度話す」


 立ち上がった紡久は、侑子の方を見ずにサンルームから足早に出ていった。

 


◆◆◆



 侑子が次に紡久に会うことが出来たのは、翌日のギター練習の時だった。昨夜は夕食の時間にも顔を見ることは叶わなかった。

 昨日はごめんね、と一言だけ告げた彼の顔に影がさしたので心配になったが、その後はいつもと変わらない様子である。

 侑子には仔細を知る術はなかったが、想像すべきことではないと、何となく察していた。ただ彼がこちらの世界に来る直前、酷く苦しい状況に置かれていたということ。そしてその場所に戻ることは、今後ないだろうということだけだ。

 侑子は久々に考えた。元の世界に戻れることがないという現実についてだ。そのことを知った当初、侑子はただ果てることのない絶望感を感じたものだったが、紡久の場合はどうなのだろう。彼は戻れない、帰れないという状況について、もしかしたら侑子とは違う感情を抱いているのかもしれない。

 今後その気持ちについて、彼と語り合う機会はあるだろうか。

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