水面
一段高くなっているとはいえ、大広間のステージはライブハウスのものよりずっと低かった。
侑子はいつもより近くに感じる人々の視線に、身体を強張らせた。それでも、自分の名前を呼ぶ聞き覚えのある声があちこちから飛んでくるうちに、鼓動は自然と落ち着いていった。
ここにいるのは、変身館の関係者ばかりだ。こちらの世界へ来てから、侑子の生活を支えてくれた人々だった。
皆が手を打ち鳴らし、声を上げると、一気に会場の空気が熱くなる。すでに酒の回った大人たちの中には呂律の怪しい者もいたが、視線だけはしっかりとステージへ向けられていた。
「すっかり出来上がってるなぁ」
ショウジがそんな客たちを見下ろし、愉快そうに笑った。彼も先ほどまで酒を飲んでいたはずだが、まったく酔っているようには見えない。演奏が終わったら羽目を外すのだと宣言していた。
「私、こういう雰囲気好きだわ。今日呼んでもらえて本当に良かった。やっぱり叩いてる時が一番楽しいし」
「そうね」
ミユキに答えたのはリリーだった。
「嫌なこと、考えなくて済むもの。私も音楽の中心にいる時が一番好き」
深い青のアイシャドウと鱗に彩られた横顔からは、その言葉の奥にあるものまでは読み取れない。
侑子はほんの少しだけリリーのことが気になったが、ユウキの大きな声に意識を引き戻された。
「皆さん! 今日は僕たちをトリに据えてくれて、ありがとう!」
歓声が一段と大きくなる。それを合図にするように、オレンジ色だったスポットライトが青へ変わった。
演奏が始まった。
大広間を見渡せば、そこには魔法が溢れていた。テーブルに並ぶ料理も飲み物も、グラスや皿も、その多くが魔法によって呼び出されたものだ。汚れた食器はたちまち清められ、子供がこぼした食べ物もすぐに消えていく。人々が何気なく使う色とりどりの魔力が、そこかしこで光っていた。
けれど、一段高くなったステージの上で生まれる音だけは違う。
指が鍵盤を押す。弦を弾く。スティックがドラムのヘッドを叩く。
そこから生まれる音は、魔力によって呼び出されたものではない。人間が自分の身体を動かし、楽器を震わせ、その振動が空気を伝っていく。
そして重なる二つの歌声も同じだった。
侑子とユウキ、それぞれの身体から生まれた声が空気を震わせる。二つの波は大きさも形も違い、重なり、離れ、また重なりながら、人々の耳へ届いていった。
一曲が終わるたび、拍手と歓声が返ってくる。ライブハウスと違うのは、観客との距離だった。ステージが一段高くなっていることで、かろうじて演奏する側と聴く側の境目が残されているだけで、客たちは侑子のすぐ近くまで集まっている。
いつの間にか、誰もが音楽に合わせて身体を揺らしていた。誰かが指示したわけでもない。それなのに、一人一人の動きが緩やかに重なり、広間全体へ同じ揺れが伝わっていく。
侑子には、それが波紋の重なった水面のように見えた。
また一つ曲が終わり、侑子がマイクを下げた瞬間だった。
ふわりと衣装が持ち上がり、視界が一瞬白く染まる。次に目を開いた時には、侑子は別の衣装をまとっていた。
先ほどまでの青い鱗のショートドレスではない。純白のテントラインのワンピースだ。見回せば、ステージ上の全員が白い衣装に変わっている。
ユウキが言っていた「早着替え」だった。
客席から、ひときわ大きな拍手が湧き上がる。
「最後の曲いくよ」
ユウキの声に続いて、アミのギターが鳴った。
空気を切り裂くような高い音が、独特の歪みを帯びて広がっていく。この日のためにユウキが作ったばかりの、新しい曲だった。
侑子は主旋律を歌わない。ユウキの声に寄り添うように、ところどころハミングで音を重ねるだけだ。
声が重なる瞬間、二人の視線がわずかに合った。
青い鱗も玉虫色の唇も消え、そこにいるのは紛れもなくいつものユウキだった。それなのに侑子は、あの夢の中の半魚人と向かい合っているような気がした。
――不思議な感情を誘う旋律だ
やがて歌声が途切れ、楽器の音も一つ、また一つと消えていった。
最後に残ったのはリリーのピアノだった。指先がゆっくりと鍵盤の上を歩き、最後の一音を鳴らす。その余韻が空気の中へ溶けていく。
一瞬の静寂。
次の瞬間、その日一番大きな歓声が大広間を包んだ。




