水面
一段高くなっているとはいえ、広間のステージはライブハウスよりも低かった。
侑子はいつもよりも近い位置に見える人々の視線を感じて、身体が強張った。しかし自分の名前を呼ぶ聞き覚えのある声の数々に、自然と鼓動は落ち着いていくのだった。この場にいるのは、変身館の関係者ばかり。こちらの世界に来てからの侑子の生活を、支えてくれた人々だった。
「お揃いの衣装素敵!」
「変身館でも着てほしい!」
「待ってましたー!」
皆手を打ち鳴らし声を張り上げるので、一気に場の空気が熱くなる。既に酒が回りきった様子の大人たちは呂律が怪しい者もいたが、視線はステージの上に定まっていた。
「すっかり出来上がってるなぁ」
ショウジが酔っ払い達の体たらくを見下ろしながら、愉快そうに笑った。そんな彼も先程まで酒を口にしていたが、全く酔っているようには見えない。演奏が終わったら羽目を外すんだと宣言していた。
「私、こういう雰囲気好きだわ。今日呼んでもらえて本当に良かった。やっぱり叩いてる時が一番楽しいし」
「そうね」
ミユキの言葉に返したのはリリーだった。
「嫌なこと、考えなくて済むもの。私も音楽の中心にいる時が一番好き」
深い青のアイシャドウと鱗に隠されて、彼女の表情は分からない。侑子はほんの少しだけリリーのことが気になったが、ユウキの大声によって意識を客席へと引き戻された。
「皆さん! 今日は僕たちをトリに据えてくれて、ありがとう!」
歓声が一段大きくなった。それが合図だったのだろうか、オレンジの明かりから青く変わったスポットライトが、演奏の開始を促した。
◆◆◆
普段は魔力に頼らない生活を心がける人でも、大晦日から一週間は、魔法の力を借りて日々を送る。この大広間の中一つを切り取ってみても、そこは魔法に溢れた世界だった。テーブルに並ぶ食事は、どれも魔法で出現させた物である。何種類もの飲み物、グラスに皿も同様だ。汚れた食器は魔法によって一瞬で清潔に清められ、子供の食べこぼしもすぐに片付けられる。
そんな色とりどりの魔力で溢れたその場所の中で、一段高くなった空間だけは、魔法と切り離されていた。楽器とスピーカーから生み出される音は空気の振動で、それは魔力から生み出されたものではない。生身の人間が指で鍵盤を押し、弦を弾き、スティックでヘッドを叩いて生じさせたのだ。そして重なる二つの歌声も、二人の人間の身体から生み出される生きた振動。その振動が空気を揺らす波の大きさは、一つ一つ違って、複雑に絡み合い、時には結ばれては離れながら人々の耳に届いていく。
曲が一つ終わる度に拍手と歓声が起こるのはライブハウスと同様だったが、ステージが一段高くなっているおかげで、かろうじて境界線が保たれている状態だった。侑子のすぐ側まで人々は近づき、その場でいつの間にか誰もが身体を音の波に乗せて揺れている。誰かが指示したわけでもないのに、そのリズムには一体感が生じていて、まるで揺れる水面を眺めているようだった。
◆◆◆
また一つ曲が終わり、侑子がマイクを下げた瞬間だった。
ふわっと衣装が持ち上がって、目の前が白くなったかと思うと、次の瞬間には侑子は別の衣装を身に纏っていた。先程までの青い鱗の衣装ではなく、純白のテントラインのワンピースだ。
ユウキが話していた、『早着替え』が実行されたのだ。ステージ上の全員が白の衣装に変わっている。
客席からの拍手が、一段と華やかになった。
「最後の曲いくよ」
ユウキの声に、アミのギターが続いた。空気を切り裂くような高音が、独特な歪み方をしている。この日の為にユウキが作ったばかりの、新しい曲だった。
侑子は主旋律は歌わない。ユウキの声に合わせて、所々ハミングするように音を重ねるだけだ。声を合わせる瞬間に、僅かに二人の視線が合う。化粧が消えたその顔は紛れもなくユウキのものだったが、侑子はあの夢の中の半魚人と対峙している気分になった。
――不思議な感情を誘う旋律だ
歌声が終わり、楽器の音が一つずつ消え、最後はリリーの指先だけがゆっくりと鍵盤の上を歩いた。最後の一音の余韻がすっかり空気中に消え去った後に、その日一番大きな歓声が、大広間を包み込んでいった。




