ドアの向こう側
自室に続くドアを開けたはずだ――確かなはずだ。
確かにいつものドアノブを、握ったはずだ――絶対に。
ドアに飾った小さな貝殻のリースは、小学校の林間学校で作ったものだ。右端に飾った貝殻は薄紅色をしていて、その色を視界の端でとらえたのを覚えている……
確かに見たはずだ。
――あれは私の部屋のドアだった
なのになぜ。なぜ。
「え」
「え」
二つの声が重なった。
どちらの声の主も困惑していて、次の瞬間には、お互いの姿を瞳に映して同じように固まった。
ただ違ったのは、侑子はドアノブを握った状態で立っていたのに対して、もう一人の人物は部屋の中の座布団の上に胡座をかいた状態だったという点だ。
侑子がその人の姿を観察したのは、正確には何秒間だっただろうか。
すごく長い時間にも感じたし、瞬き一回分ほどの刹那にも感じた。
かなり特徴的な外見だったため、認識しやすかったのかも知れない。
成人女性のようだ。形の良い丸顔に、背中を覆う艶やかな長い髪。カスタードクリームのような珍しい色の長髪は、毛先部分だけ鮮やかなピンク色に染まっていた。
身に付けているのは、柔らかそうな質感のミモレ丈ワンピース。ミルクティーのように柔らかな色のその服も相まって、『まるでお菓子みたいな格好だな』と、侑子は現実逃避するように頭のなかで呟いた。
「ど、どちらさま……?」
目の前のお菓子のような女が、恐る恐るという様子で言葉をかけた。
侑子の方は、それが自分に対する声掛けなのだと理解するまで、やや時間を要した。
見た目のわりには深くて低い、落ち着いた声色だった。
はっと気づくと、女の瞳がまっすぐにこちらを見つめているのが分かり、侑子は小さくヒッと悲鳴を上げた。
――なに……? なに? この目は
女の瞳は、侑子が見たこともない色をしていたのだ。
――動いてる……色が、動いてる!
遊色と言うのだろうか。祖母の指輪についていた、オパールを彷彿とさせる色だった。白っぽい瞳に瞳孔は黒く、その周囲に様々な色が浮かんでいるのだ。
美しいと感じるには、今の侑子に余裕が足りなさすぎた。
――こんな目、カラコンでもありえない……だって、だって動いてる
彼女の瞳は正に遊色だ。動かないのは黒い瞳孔だけで、他の色は動いている。
あっという間に恐慌状態の底に足をついた侑子は、カタカタと震え出した。
そんな様子を目の当たりにした女は、今度は気遣う様子で立ち上がり、侑子に近づいてきた。
「あのう……大丈夫? どこか具合でも悪いの?」
きっと真っ青な顔をしていたに違いない。
しかし距離を縮められたことにより、侑子は弾かれたように後退して、乱暴にドアを閉めた。
「ごめんなさい! 間違えましたっ!」
自室のドアを開けたはずなのに、なぜ鍵をかけ忘れたトイレの個室を開けてしまった人のような言葉を叫んでいるのだろう。
訳がわからないままドアを閉めた侑子は、そのまま階下のリビングへ戻ろうと踵を返した。
しかし――
「なっ⁉︎ なんで⁉︎」
腰を抜かしたのなんて、初めてだった。へなへなとその場に崩れ落ちつつ、目の前の光景を必死に目に映す。
そこは本来3LDKの自宅の廊下のはずだった。二階には侑子と朔也の部屋と、両親の寝室しかない。たったの三部屋だ。廊下はとても短い。ほんの数歩で階段に突き当たるはずだった。
――どういうことなの……!
今彼女の目の前に伸びるのは、侑子の知っている自宅の廊下を、十本繋げても足りるのか不明な程長く続く廊下だったのだ。
そしてそんな廊下に突き当たるのは、階段ではなさそうだ。何故ならそこは、二階ではなく一階だったのだから。
――なんで?
侑子が出てきた部屋のドアは侑子の左手側にあった。そして長い廊下を挟んでドアの反対側に存在したのは、庭だった。縁側があり、その先に枯山水を思わす、侑子がよく知る庭とは少し趣が違う空間が、果てが分からぬほど広大に広がっていたのだった。更に――――
――なんで外が明るいの?
ついさっき自室のドアを開けたときには、夕方だったはずだ。それなのに今は午前中のような太陽の明るさが、自分を照らしてくる。
侑子は陽気な日差しのなかで、恐怖に顔を歪ませた。
「ねぇあなた。本当に大丈夫? どうしたの?」
自分が閉めたドアから、遊色の瞳の女が出てくる。
正気を失った侑子のことを心から心配しているようだった。しかしそんな事は、今の侑子には伝わらなかった。
侑子は絶望した。
たった今自分が閉めたはずのドアから、あの女が出てきた。
――私が開けたはずのドアはどこ?
――私が出てきたはずのドアはどこ?
侑子は完全にパニックに陥った。
腰を抜かしていたはずなのに、女が手を伸ばしてきた瞬間に、素早く庭から外に飛び出していた。