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出会い

 人通りが多くなっていたことが幸いした。侑子は男をまくことに成功したらしい。

 はぁはぁと荒い呼吸を繰り返し、額を伝う汗を拭うことも忘れて、後方を確認する。

 狭そうな路地を目にする度にそちらに入って、どこをどう走ったのか不明だが、とにかく走った。

 何度か躓いて転んだ。靴下だけの足で何度も石ころを踏みつけた。足の裏が痛くて、膝も擦りむいて血が滲んでいた。


――休みたい


 広い場所に出るのは不安だったが、路地の先に噴水が見えた。

 足を引きずるようにして、ヨタヨタとそちらに向かって歩いていく。

 

 ――あ。いけない……


 噴水の縁に腰かけようと進み、あと一歩というところで、ふらついてしまった。


「おっと」


 側に人がいたことに気づかなかった。それほど神経は磨り減っていたのだ。

 その人に思いきりぶつかってしまったと分かったと同時に、気遣う声が上方から降ってくる。


「大丈夫?」


 声をかけることに躊躇いのないと分かる、すっきりした声だった。

 侑子は咄嗟に「すみません」と言おうとしたが、声が掠れてでなかった。喉がカラカラだったのだ。

 咳き込むと、肩をふわりと支えられたのがわかった。

 その人が身に付けていたものなのだろう、柔らかな生地の衣が、侑子の頬をくすぐった。


「怪我してるよ。ちょっと待って」


 男の人だなと思ったと同時に、侑子の身体は宙に浮いた。

 声は出なかった。目を丸めながら思わず見上げると、緑色の瞳が心配そうに覗きこんでいた。

 深緑色だった。先ほどから鮮やかな彩度の高い色ばかり目についていたので、こんなに落ち着いた色もあったのだと気づく。

 しかし同時に、肩と膝の裏に温かな手の感触を感じて、侑子は仰天する。自分は横抱きにされていたのだった。


「大丈夫? ここ座っていられる?」


 男は驚きすぎて固まる侑子を、噴水の側のベンチまで運んでくれたようだった。そっと腰掛けさせると、優しく微笑んで「ちょっと待っててね」と噴水まで戻って行った。

 彼は何やら大きなボストンバッグのようなものを持ってくると、その中から透明な筒状の物体を取り出した。なんだか水筒みたいな形だなと思って見つめていると、本当にそれは水筒だったようだ。透明な筒の上部を取り外した男は、下半分(長細いタンブラーのような形になっていた)を侑子に差し出す。


「どうぞ。今日は暑いから、きっと美味しいと思うよ」


 礼を言おうとすると、声が酷く掠れた。男はにっこり笑って、侑子に飲むように促した。

 手渡された水筒の中を覗き混んでみた。側面から見たとき、その水筒は確かに透明だった。


――透けてる


 向こう側が見えていたのだから。しかし上から覗き混むと、確かに飴色の液体が数個の氷とともに、水筒の中を満たしているのが見えるのだった。


――どういう仕組み?


 また一つ不可解なものを発見してしまった。

 しかし鼻をくすぐる甘い香りと、水筒から伝わってくる心地よい冷気に惹かれて、促されるまま飴色の液体を一口飲み込んだ。


「おいしい……!」


 口一杯に広がる甘さは、侑子にとって馴染みのある味だった。


「梅ですか」

「そうだよ。うちの庭で採れたんだ」


 男は軽やかに笑った。

 侑子の方も喉が潤されたことで、ちゃんと声が出るようになっていた。


「おいしいです」

「それは良かった」


 繰り返した言葉に、男が面白そうに笑っている。

 梅の木は賢一の家の畑にも生えていて、毎年季節になると高橋家で梅仕事をするのが恒例だった。今年の六月も、皆でわいわい言いながら大量の梅シロップを作ったばかりだ。


「全部飲んでしまって構わないよ。お口に合ったみたいで安心した」


 男のその言葉に甘えて、あっという間に飲み干した。

 喉は思ったよりずっと乾いていたらしい。結構な量だと思ったのに、すぐに水筒は空になってしまった。

 頭のてっぺんから指先まで、水分が行き渡ったように感じて身体が軽くなった。優しい砂糖の甘味が広がって、顔からも力が抜けていく。

 そんな侑子を眺めながら、男は優しく微笑んでいた。

 そこでようやく侑子の方も、その人のことをしっかり目に留めることができたのだった。


 落ち着いた緑色だと思った瞳は、複雑な色味をしていた――ビオトープのようだ。濁りを持つ瞳は穏やかに光を湛え、全体的に凛々しい印象の顔立ちを、幾分柔らかくしている。

 短髪はくすんだ灰色。侑子からすると見たこともない珍しい色なのだが、先ほどから原色そのままのような色や、虹色の髪の人も沢山目にしていたので、その中ではかなり目立たない部類に入るであろう。

 年は若いはずだ。褐色の肌をしているのと、見慣れない容貌なので正確には判断できないが、おそらく朔也より年長ということはないだろう。長身のその身体は、先ほど侑子の頬を撫でた薄布で首もとから覆い隠されていた。マントのようなものだろうか。薄くて透けそうなのに、向こう側は全く見えない――先ほどの水筒といい、とても奇妙だった。

 侑子が男の外見を観察しつつ思いを巡らせている間、彼は大きな鞄の中からタオルを取り出していた。


「手当てしていい?」


 侑子を不安にさせない為の気遣いなのだろう。優しい声音で許可を得ようとする。

 それだけで恐怖ではちきれそうだった侑子の心は、じんわり暖かくなった。

 素直に頷いた侑子を確認して、男は微笑む。そして手に持ったタオルに視線を移すと、しばらく手元を見つめていた。


 そして次の瞬間――――


 男の手の周囲から、水が涌き出した。

 何もないはずの空中が、突然蛇口になったような光景だった。ところが重力に従って下に落ちるはずの水は、そのまま男の掌の範囲を越えずに留まった。

 透明で境目の見えない茶碗でも持っているのではないか――――そう疑った侑子だったが、そんなものはない。

 生き物のように揺れながら、水はタオルを湿らせていく。

 信じられない行為を目の当たりにした侑子はすっかり固まり、涌き出す水が消え去った空中を、ただ呆然と見つめていた。

 男は濡れたタオルを、片手でぎゅっと絞った。絞り出された水滴は、今度は素直に地面に落ちて、タイル張りの美しい路に点々と跡をつけていく。


「膝見せてね。土で汚れたところ拭くだけだから……どうしたの?」


 ベンチに座った侑子の正面に跪き、擦りむいて血が滲んだ膝に触れようとしたところだった。男は手を止めて侑子を覗きこんだ。


「今の……今の、何ですか?」

「今の?」

「み、水が。水が何もないところから出てきて……あれは、一体なに?」


 みるみるひきつる侑子の表情を見て、今度は男の方が首をかしげる。


―――彼女は何を怖がっているのだろう?


 おそらくこの少女の質問は、たった今自分がタオルを濡らした行為についてだろう。

 一言で説明できるのだが、それだけで彼女の恐怖を取り除くのは不可能な気がした。そもそもなぜそんな質問をされるのかすら分からなかった。


「大丈夫、ただの水だから。君に嫌な思いはさせない」


 出来るだけ簡潔に伝えたつもりだ。表情を固くしないよう意識する。笑みを浮かべて少女を安心させるよう、優しく触れた。


「……」


 ついさっき梅ジュースを飲んでいた時の緩んだ顔が、嘘のように消え去っていた。知らない少女だったが、誰かがこんな風に怯えきった表情を浮かべるのは、胸が痛んだ。


――一体何があったんだろう


 足についた土や砂利を、丁寧に拭き取り、優しく取り除いてやる。

 時折血が滲んだ傷跡に触れて痛みに顔を歪めることはあっても、じっと座って大人しくしている。

 汚れたタオルを洗うため、再び掌に水を呼んだ時だけ、目を見開いて固まっていたが――


「ごめん、ちょっとだけ滲みるよ」


 手短に伝えると、少女の右足を左手で押さえ、素早く右手を膝の傷口にかざす。傷口を洗うために水を呼んだのだ。水が触れたのが分かったのだろう、彼女は小さく悲鳴をあげて、腰を浮かそうとした。


「痛い? ごめんね、傷を洗いたいだけだから」


 どうやら害をなす人物とは思われていないようだ。今にも逃げ出してしまいたいという表情でいっぱいだけれど、一度だけ小さく頷くと、そのまま大人しくなった。

 反対側の膝にも傷があったので、同じように洗ってやる。

 かざしていた手を離すと、土で汚れた茶色い跡が消え、赤い血が滲んだ傷跡だけが残っていた。


「治癒には詳しくないんだ。申し訳ないけど、これで我慢してくれるかな」


 荷物から小さなケースを出すと、その中か傷あてを取り出す。

 こういうものはいつも持ち歩いていたほうがいいという、お節介焼きな同居人の勧めでバッグに入れっぱなしにしていたものだった。


――役に立ちそうだ


 大きめの物だったら、傷をすべて覆い隠せるだろうか。個包装から出して傷口に貼ってやろうとすると、思いもよらない言葉が少女から飛び出した。


「絆創膏……!?」


 何やら傷あてにひどく感激しているようだが、理由は分からない。

 しかし先ほどまでの恐怖に歪んだ表情より、ずっと良い。ほっとしたような顔を浮かべた少女を見て、自然と顔が緩む。


「あの、ありがとうございました。それくらい自分でやります」


 はにかんだように呟く少女は、傷口に絆創膏を貼り終えると、深く頭を下げてきた。


「本当にありがとうございました」

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