あの日の色
「その格好、久しぶりに見た」
着替えを済ませて廊下に出てきた侑子は、向かい側のドアから出てきたユウキを目にした。
彼の髪は、いつもの灰色ではなく薄い水色で、頭の上で大きな髷を形作っている。顔には沢山のラメが輝き、唇は玉虫色に染まっていた。噴水広場で曲芸を披露していた時の、あの姿だった。
「今日はこの衣装で始めてみようかなと思って。ステージの上で途中から早着替えなんてしたら、面白そうじゃない?」
「早着替え? もしかして魔法で?」
「そう」
ユウキはにっこり微笑んだ。そして彼は、侑子の姿をしばらく観察してからこう言った。
「ユーコちゃんの衣装も、似合ってるね!」
侑子は嬉しくなった。今日身につけているのは、ユウキの衣装に無数に縫い付けている硝子の鱗を、同じ様に布地に隙間なく付けたショートドレスだった。衣装が擦れる度に、鱗が揺れて光を反射する。ユウキとノマに手伝ってもらいながら侑子が魔法で仕立てた、初めての衣装である。
「どうせだったら、お化粧もしてみる?」
提案する口調のはずなのに、ユウキは侑子の背を軽く押しながら、ドレッサー前に座らせてしまう。侑子は鏡の向こうに、戸惑った表情の自分を見つけた。
「やったことない。きっと変だよ」
「そんなことないよ。それに、これだけ派手にメイクした俺の隣で歌うんだから、何にもしてない方が目立つよ」
「そっか……」
もう何度も人前で歌っているし、人の注目を浴びることには慣れてきていた。しかし、やはり言葉にして目立つなどと言われると、気になってしまう。なりをひそめていた小心者の自分が少しだけ顔を出して、化粧を施そうと顔に触れてくる褐色の指を許してしまった。
「仮面をつけて踊るのってさ、神様や精霊を自分に乗り移らせて、一緒に時を過ごすためのものなんだって」
ユウキは背後から、侑子の右頬に触れた。
何の話を始めたのだろうと、侑子がじっと続きを待っていると、頬に触れた彼の指が、軽くその場所を撫でたのが分かった。そこに衣装に使われているのと同じ硝子の鱗が、数枚出現する。そのままユウキの指は侑子の顔の上を移動して、彼の指が撫でた場所に、次々鱗が生まれていった。どうやって皮膚と接着しているのか分からなかったが、顔が突っ張る感覚も、重さを感じることもなかった。ユウキが言葉の続きを繰り出す前に、侑子の右頬から目尻に至る箇所に、輝く青い鱗が生えていた。
「噴水広場で才を使ってた時のメイクは、守るための鎧。でも今日のメイクは、仮面。目に見えない神様や精霊たちと一緒に歌い踊るための仮面だよ。俺はそう考えるようにしてる」
「仮面」
呟いた侑子の唇が指先で撫でられ、その色が淡い紅色に変化する。もう一度其の上を指がなぞると、七色に輝く不思議な笹色が重ねられていた。その色がユウキの唇を彩るものと同じ玉虫色だと、侑子は鏡越しに確認した。
「目を瞑って」
囁くような指示通りに、瞼を落として再び目を開く。そこには青いまつ毛と、長く細いアイラインで焦げ茶の瞳を強調させた、自分の顔があった。青藤色から空色のグラデーションをかけたアイシャドウが、目の周囲を囲っている。
「髪の色、自分で変えてみようかな」
侑子は両手で黒髪に触れてみた。今までこの世界で髪色を変えたのは、初めて変身館を訪れる時にユウキによって不意打ちをくらった時だけだった。それ以来髪の色を変えようという気持ちにならなかったのは、黒髪が元いた世界の象徴のように思えていたからかもしれない。
「やったことないんだけど、ちゃんとできるかな」
魔法で初めての試みをするのは、いつだって緊張する。背後から侑子の両手に添えるように、ユウキの手が重なった。
「大丈夫。できるよ。心の中で色をイメージして。ちゃんとその通りに染まるから」
ユウキの手の暖かさが伝わってきて、侑子は心が落ち着いていくのを感じた。
鏡に映る黒い髪を見つめながら、夢の風景を思い浮かべた。
―――暗い夜空。ネオンの光り、星空、街灯
熱された飴の固まりが左右に引っ張られるように、コーヒーカップの回転が目に映るありとあらゆる光を長く長く引き伸ばしていく。
『バルブ撮影っていうんだよ』
朔也の声が耳元で聞こえた気がして、侑子は僅かに視線を上げた――――光の粒はきっと発生したのだと思う。しかし目線を上げて正面を見ていたはずの侑子は、魔法が生じた証拠のその現象を覚えていなかった。
鏡の中の自分の髪は、あの夢の中のコーヒーカップの上で半魚人の背後に見た色そのままに染まっていたのだった。
「わ。すごいな。これどうやったの?」
ユウキは驚いていた。手に一束すくい取った侑子の髪は、彼が見たことのない複雑な色に染め分けられていた。黒く見えるのは正確には元の侑子の黒髪ではなく、何種類もの黒だった。
キラキラと芯の方から発光する不思議な髪もあった。金銀、橙、水色に瑠璃色。無数の色がその一束に存在した。
「あまり変わってないかな」
「いやいや、よく見てみなよ。全然違うから」
ぱっと見て黒いので、侑子はそんな風に言ったのだろうか。ユウキに促されて鏡に近づき髪色を確かめた侑子は、ほっとしたように頷いた。
「良かった。ちゃんと考えていたイメージに近いかも。あのね、夢の中で乗ったコーヒーカップあるでしょう? あれに乗っている時に見える景色を想像したの」
侑子は自分の使った魔法の凄さには、思いも及んでいないらしい。
ユウキはそれもそうか、と思い直しつつ彼女の説明を聞いて微笑んだ。
「そうかなと思ったよ。なんとなく見覚えのある色だったから」
「あの夢がもう見れなくなっちゃったの、残念だよね」
「うん。だけど夢の中でユーコちゃんとまた会っても、結局いつもの俺達と同じことをするだけだろうなとも思うよ。一緒に散歩して、一緒に歌って」
侑子は笑った。顔半分を僅かに覆う鱗が煌めく。立ち上がった彼女は、そうだ! と何を思いついたのか、楽しそうに二つの手のひらをユウキの前に広げて見せた。
白い光が飛び散った侑子の指の間には、見覚えのある薄い膜が張り付いていた。水かきだった。半透明のその膜は、かつて夢の中ではユウキの手に生えていたものだった。
「ユウキちゃんはギター弾くからダメだよね。指を動かしづらくしちゃう。私は歌うだけだから」
にっこり笑いながら水かきのついた手を高く掲げている。ユウキはそんな彼女の仕草にも覚えがあった。照明の光りを半透明の膜越しに眺めているのだろう。
「それ、どうやってくっつけたの?」
水かきを指さしながらユウキは訊いた。侑子は膜を指先でなぞりながらふふ、と笑った。
「接着剤かな。できるだけ人体には無害なものでお願いしますって念じたけど、以外と粘着力強いみたい」
「じゃあ俺が出したこの顔の鱗と同じだね」
ユウキが侑子の頬の鱗をつついた。
「外す時も魔法でやった方がいいよ。そうだユーコちゃん、早着替え一緒にやろうよ。ステージの上でさ。折角だったら全員で」
ちょうどそこで、リリーの声が廊下から聞こえてきた。ドアを開けてバンドメンバー達が入ってくる。全員ステージ衣装を着用済みである。今日はもれなく全員が硝子の鱗を身に着けていた。
「わあ。顔にも鱗が生えてる」
ミユキは侑子の顔を見て目を丸くした。
「素敵ね。神秘的」
「皆もやる?」
祭りの前の高揚感がそうさせたのか、いつの間にか全員で顔に鱗をつけた奇妙な化粧を施していた。全員で鏡を見つめながら笑い合った。
「行こう」
侑子たちの出番が迫っていた。新年を迎える二時間前だった。




