宴の始まりと招かれざる客
大晦日という言葉は共通していても、その夜の空気感は侑子と紡久の知っている物とは、全くの別物だった。その日ジロウの屋敷に集まっていた人々は、約六十人。全員が収まる大広間は、屋敷の地下にあった。普段は使い道のないこの広い部屋が賑やかになる光景を、侑子は初めて目にした。こんなにも大勢の人々が自分と同じ家の中で生活していたのだと知って、今更驚くのだった。
大広間は地下のはずなのに窓があり、外の庭の景色が映っている。それは魔法によるリアルタイム映像を移しているスクリーンなのだということは、数日前に会場準備を手伝った際、ノマから聞いていた。
午後六時。文字盤の十二の上を秒針が通り過ぎようとする様を、その場の全員が席に着いた状態で見守る。沈黙にくすぐられた子供の笑い声が時折聞こえたが、皆無言だ。これだけでも、侑子には未経験のことである。
一体何を待っているのか。前もって説明をされなかった侑子は、テーブルを挟んで向かい側に座る紡久と時折視線を交わしながら、二人で首をかしげていた。
そして六時きっかりを告げる大きなベルの音が、その場にけたたましく鳴り響いたのだった。まるで目覚まし時計の音のようだが、大音量だ。鼓膜が壊れるのではないか、と思った侑子はびっくりして、思わず耳を塞いでしまった。紡久も同様だ。赤ん坊が泣き出す声も聞こえたが、圧倒的に大きなベルの音にすっかりかき消されている。
ベルの音が止むと、残響が収まらない内に、今度は沢山のクラッカーが弾ける音が続いた。戸惑いながら隣から回ってきた数個のクラッカーを手に持たされると、促されるまま侑子も紐を引っ張る。向かい側の紡久のクラッカーから放たれた紙リボンが真っ直ぐ飛んできて、侑子の頭頂に綺麗に乗っかった。その様を見てユウキが大笑いしていた。
「こっちの世界って、もしかして日付が変わるのは午後六時なんですか?」
空のクラッカーを両手に持ったまま呆然とした表情の紡久が、誰に対してなのか曖昧な質問を投げた。質問する彼の声は張り上げたように大きくなっていたが、侑子も同じ状態なので理解できる。耳の中では、まだベルの残響と次々と弾けるクラッカーの破裂音が響き渡っている。声を張り上げないと、自分の言葉すら聞こえないのだ。
「いや、日付が変わるのは午前零時。今はまだ十二月三十一日だよ」
ユウキが答える。いつもと変わらない声音だった。
「ツムグくんとユーコちゃんには、サプライズのつもりで敢えて伝えていなかったけど、新しい年に変わる午前零時の六時間前に、こうやって宴の始まりを知らせるために賑やかにするんだよ。大きな音でベルや鐘を打ち鳴らしたり、クラッカーを使ったりしてね」
ジロウの説明に耳を傾けている間に、耳の感覚が元に戻っていく。侑子はほっと息をついた。
「誰に知らせるんですか?」
訊ねたのは紡久だった。彼の方も表情がようやく元に戻り、声の調子も普段のトーンだ。
「年神様だよ。今年一年を守ってくださった年神様と来年の年神様をお招きして、六時間の宴を共に楽しむんだ。今年は羊神様だったから、来年は猿神様だな」
「年神様……」
紡久と侑子は、顔を見合わせた。今度は侑子がジロウに質問する。
「その『ようじん』様と『えんじん』様っていうのは、神様の名前ですか」
「そうさ。ようじん様が羊の神様。えんじん様が猿の神様。年神様は全部で十二柱いらっしゃって、順番に一年の人々の暮らしの安寧を守ってくださる。十二年で一回りするんだよ」
「同じだね」
「でも、ちょっと違うような。羊神様とか猿神様とか、そういう呼び方聞いたことなんてあった?」
「……ないかも」
ジロウの答えを聞いた侑子と紡久は、また新たに二つの世界の微妙な共通点を発見することになったのだった。
二人が自分たちの知っている十二支の物語や正月の話をしている間に、目の前のテーブルの上に次々と料理が出現していた。この日のために、ジロウとノマが考案してきたご馳走だった。実際に手で何度か調理している風景を侑子も目にしていたし、味見をさせてもらうこともあった。調理方法や盛り付け方を熟知した二人によって、今日は魔法で一秒もかからずにテーブルの上に呼び出されている。集まった人々の中には、「私も作ってみたんです」と準備してきた料理を呼び出す人もいたので、テーブルの上はあっという間に色とりどりのご馳走で溢れかえった。
「そろそろ乾杯しよう」
ジロウが指を鳴らすと、目の前に美しく光るグラスが現れた。短い脚がついたゴブレットで、中はキラキラと輝く液体で満たされている。甘くて芳しい果実のような香りが漂ってきた。
侑子は周囲に倣ってゴブレットの脚をつまむように持つと、高く掲げて「乾杯!」と叫んだ。硝子同士がぶつかり合うきらびやかな音に続き、照明を受けた沢山のグラスが、人々の笑い声に共鳴するように賑やかに煌めいた。
◆◆◆
来客を告げるブザーが聞こえたのは、乾杯からしばらく経った頃だった。
談笑に湧く会場で、その音にはじめに気づいたのはノマだった。彼女はすぐに胸にかけた透証で応答する。
「はい。どちら様でしょう?」
ブザーは屋敷に用事がある者が門に触れると、自動で鳴る仕組みになっている。誰かが門前で待っているようだった。予想外の来客である。ノマは応答しながら、何度も小首をかしげた。
「ジロウさん、ちょっと」
ノマとジロウは席を立って、部屋を退出していった。ユウキは僅かに訝しむ表情を浮かべ、二人の背を見送る。
「お客さんかな」
何となく口にした侑子の言葉に、ユウキは腑に落ちない顔だった。
「もう招待してる人はいないはずだけど……歳納の宴の最中はね、滅多なことじゃないと席を外さないものなんだよ。午後六時から午前零時まで、その間は他所の宴にお邪魔することも控えるし、極力透証での通話もしない」
「そうなんだ」
では二人が出ていった今の状況は、相当重大な用事でもあったということだろうか。途端に心配になったが、一方のユウキは表情を緩めて、侑子に料理の皿を勧めた。
「まあ、きっと大丈夫さ。食べて待ってようよ。二人が戻ってきたら、料理の感想を教えてあげよう」
◆◆◆
「挨拶?」
ジロウは不快感を顕にすることを、少しも躊躇わなかった。たった一言の言葉尻にも、表情にもだ。そんなことをするのは、ここ最近のジロウには珍しい。傍らで見守っていたノマは緊張していた――五年前、政争で混乱していた日々の中では度々目にしていた屋敷の主の姿を、こんな日に再び目にするとは思ってもいなかった。そしてジロウがこんな態度を返す来客もまた、あの頃と同じ類の人間のように見えた。
「平彩党の政治家さんが、わざわざ歳納の宴の最中にですか?」
政治家という単語とわざわざという副詞を強調して、ジロウはあからさまな吐息を吐いた。しかし目の前の男は、そんなジロウの態度など、まるで気に留めない様子で軽く笑った。唇の片側だけが上がる、特徴的な表情だった。
「ご近所も回らせていただきました。ご挨拶だけです。お時間もとらせませんし、ご厄介にもなりません」
「まぁ。本当ですか? 他の宴にも?」
ノマは素で声が裏返るほど驚いた。政治家が一般人の歳納の宴に突然やってくるなんて、聞いたことがなかった。そもそも宴に招待されていない者が、突然乱入してくること自体が非常識な行動なのだ。そんな行為を政治家という職業の者がとるなんて、信じがたかった。
「ええ。皆さん驚かれていましたけどね。私も普段は多忙にしておりまして、この時期にようやく挨拶回りの時間が取れた次第でして。それに……こちらには、個人的にお会いしたい方々が滞在中と耳にいたしました。是非お目にかかりたい」
ジロウもノマも一瞬思考が固まった。しかし二人共表情に心情を出さないことには長けている。
「そりゃ、うちの宴にはライブハウスの売れっ子たちが何人も出席してますからね。けど、そういう目的もあると分かった以上は決して通すわけにはいきませんよ。皆完全にプライベートな休暇を楽しんでいる最中なんですから」
一段低くなったジロウの声に、男はようやく苦笑いを浮かべた。無理だと覚ったのだろうか。
男は中肉中背の特徴のない体型と、個性のない黒いビジネススーツ姿だった。質素と言った方がいいだろう。艶のない茶の短髪はペッタリと固められているが、とても政治活動をしているような威圧感はなかった。グレーのネクタイには光沢もなく、宴の席に合うような華やかな雰囲気が微塵も感じ取れない。
ノマは先程の発言と合わせて、この男が近所の宴にも顔を出したというのははったりに違いないと確信した。
「邪険にして申し訳ございませんが、どうぞお引取りくださいませ」
毅然としたノマの声に男はついに諦めたのか、予め準備しておいた定型文のような挨拶を口にすると、門を出ていこうとした。
その猫背気味の後ろ姿に、ジロウが声をかける。
「あんたそういえば、名刺も持っていないのか? もう一度名前を聞かせろ」
立ち止まった男がゆっくりと振り返る。その顔は、先程と同じ口角が片方だけ持ち上げられた、不自然な笑顔だった。仄かな街灯に照らし出されたその顔が、やけに不気味に見えて、ノマは無意識に眉をひそめてしまった。
「申し訳ありません。名刺は先程ご挨拶に上がらせて頂いた宴で、ちょうど切らしてしまいまして。私は、ダチュラ・ロパンと申します。それでは、大切なお客人によろしくお伝え下さい」
男は狭い歩幅で、ゆっくりと門から出て行った。革靴が地面を擦るような足音がすっかり聞こえなくなると、黒い門は閉ざされる。
ジロウとノマは、しばらく男が立ち去った門の方向をじっと見据えていたが、どちらともなく顔を見合わせた。
「―――すぐにエイマンくんに連絡しよう。お父さんに取り次いでもらう。こんな日に悪いが」
「理由が理由ですもの」
「ノマさんは、先に宴に戻ってくれ。ユーコちゃんとツムグくんには……」
ジロウはしばらく、顎に手をあてて考え込んだ。
「伏せておきましょうか。不安にさせても気の毒です。せめて年が明けてからでも」
「そうだな」
ジロウは頷く。ようやく彼らしい笑顔が戻った。
「今日は歳納の日。心からの笑顔で、この世界での初めての年越しをさせてやりたいものな」




