大晦日
大晦日のその日は、抜けるような晴天が央里に広がっていた。
午前中の早い時間から、侑子とユウキは散歩を楽しんでいた。こうして気ままに歩くことも、最近は忙しかったので久々のことである。
変身館は大晦日と年明け後一週間の間、閉館するのだという。年忘れコンサートや年明けの宴会会場として営業するものだと思っていた侑子は少々意外だったが、その期間は大体どこの店も閉まり、人々は皆各々の家や滞在先で親しい人との時間を過ごすのだという。
普段は魔法に頼らずに生活している人たちも、この時期ばかりは魔法を存分に使い、家事や仕事から解放された生活を送るらしい。魔法さえあれば店が開いていなくても、一週間くらいは不自由なく暮らせるということだろう。
商店街の店が軒並み閉まっている光景に侑子は驚いたが、所謂シャッター街のような閑散とした雰囲気は漂っていない。通りは侑子達と同様散歩をしている人や、ベンチに座って談笑を楽しむ人、駆け回って笑い声を上げる子供たちで、十分賑やかだったのだ。皆ゆったりと余裕のある表情をしている。侑子もつられるように、自然と口元が緩んだ。
「本当に空いてるお店が一軒もないんだね」
「商売しちゃいけないって決まりがあるわけじゃないんだけどね。大体の店が閉まるよ」
「皆で一斉に休日なんて、日本じゃ考えられないなぁ」
非日常の風景だ。しかしヒノクニでは恒例の光景なのだろう。そんな風に侑子が考えていた横で、ユウキが言ったのだった。
「こんな風に平和な大晦日の風景っていうのは、実はようやく戻ってきたばかりなんだよ」
「政争があったから?」
「そう。少し前まで、皆歳納どころじゃなかった。政争真っ只中のときは、兎に角いつもの生活ができれば万々歳。決着がついてからは、生活基盤を立て直すのに皆が忙しかった」
綺麗に整った町並みからは、とても想像がつかない。
央里は戦地にならなかったが、治安は悪化し、街の景観を整える余裕は行政にも市民にもなかった。争いに終止符が打たれた頃には、かなり荒廃していたのだという。
「ユーコちゃん」
ユウキが侑子を呼び止めたのは、花屋の店先だった。この店も他の店と同様閉まっていたが、水を張った大きなバケツが表戸の前に置いてあり、そこに青々とした葉を広げた榊が入れてあった。傍らに木製の料金箱が値札と共に添えられている。無人販売のようだ。
「ジロウさんに頼まれてたんだ。買っていこう」
ユウキが料金箱に硬貨を入れ、侑子は根本を紐でくくられた榊を一束、バケツから取り出した。そして袋を何も持ってきていないことを思い出し、宙に手を翳して、しばらく集中してみる。
数秒の後、そこには榊を入れるのに丁度良い大きさのビニール袋が出現していた。
「へえ。上手くなったじゃないか」
弾むユウキの声に、少しだけはにかんで、嬉しくなった侑子は榊を袋にいれながら微笑んだ。何もない場所から物を出現させる魔法も、物質変換なのだ。大気を物に変化させる。ただ空気は目に見えないし、明確に触感があるわけでもない。そのため石ころを変換させる場合よりも、侑子にとっては難易度が高かった。最近になってようやくコツをつかめてきたばかりなのだった。頭で思い描いたビニール袋のイメージが、よく叔母と買い物に行っていたスーパーのものだったのだろう。そっくりそのままその店の袋を作り出していたらしく、侑子が出現させたビニール袋には、懐かしいロゴマークが印字されていた。
「どおりで見たことない店の名前だと思った。さて、そろそろ帰ろうか。本番まで、少し練習もしておきたいしね」
ユウキの明るい声に相槌を打って、来た道を引き返す。
今夜、ジロウの屋敷では滞在者皆で賑やかに新年を迎える宴を開くのだ。変身館関係者も多くいるので、毎年ちょっとしたコンサートのようになるのだという。
今夜は侑子も演者側だ。見知った人々だけなので、緊張よりも楽しみという気持ちの方が大きい。少し前の自分からは、想像もしていなかった心境である。
「今年は今までで、一番楽しい歳納になりそう」
歌を口ずさみ始めたユウキの隣で、侑子は自分の声をその旋律に乗せ始めた。そしてそんな今の状況が、夢とはまるで反対だとぼんやり思ったのだった。あの夢の中で歩きながら先に歌い出すのは、決まって侑子からだったのだ。しかしそんなことは、すぐに気にならなくなる。ただ喜びを感じるのだった。二人で並びながら歌えることに。あの夢はもう見ることはなくなっていたけれど、その代わりに現実で実感できる瞬間を手にしているのだから。
◆◆◆
侑子とユウキの二人で始めた練習には、程なくアミとリリーが加わることとなった。
「今日はリリーはソロで歌わないの?」
ユウキがそう訊いた。
てっきり練習風景を覗きにきただけだと思いきや、リリーは本格的に演奏に加わる姿勢を見せたのだった。ピアノ椅子に座って、「今日はどの曲をやるの?」と訊ねたリリーは、ユウキの反応に薄く笑った。
「うん。何となく誰かと一緒にやりたいなーって。そんな気持ちになっちゃった。今からピアノねじ込んだら、邪魔になっちゃうかしら……。それならコーラスだけでも参加させて欲しいんだけど」
目を丸くしながらユウキは答えた。
「どうしちゃったのリリー。らしくないね。毎年一人で弾き語りだったのに。もちろん一緒にやるのは大歓迎だけど」
アミも侑子も頷く。侑子はむしろ、リリーと一緒に歌う機会なんてなかなかなかったので、是非にと声を大にして誘いたかった。その一方で、彼女の元気のない理由について見当もついていたので、どのように励ましたものか、思いあぐねている。それはユウキも同じようだった。
「とりあえず、一緒に音を合わせてみませんか? まだまだ本番まで時間はあります。音に乗っているうちに、なんとなく考えもまとまってきますよ。とにかく楽しむつもりで」
アミはギターを掻き鳴らし始めた。
「そもそも今日は、歌う方も演奏する方も全員で楽しむことが大切なはずですよ? 心から楽しみながら年神様をお招きしないと」
音に運ばれるように耳に入ってきた彼の言葉は、侑子の口から自然と歌声を誘い出していた。リリーも形良く唇を微笑ませると、彼女の指が鍵盤の上を踊り始めた。ユウキの歌声も後から続く。
侑子はこの日の服に、着物を選ばなくて良かったと思った。曲が進んで四人の気が昂ぶるに連れて、自然と身体そのものがリズムを刻み始める。踵が拍子を取るように動き始め、肩が揺れだす。音楽に合わせて身体が踊り出した経験なんて初めてだったが、楽器の音に、歌声に、誘われるように侑子の身体は揺れた。
「誰かにドラム叩いてほしいなぁ。せっかくならベースも。リズム隊ほしいな」
侑子同様身体を揺すっていたユウキが、息を整えながら言った。ピアノとギターの二人も楽器から手を離して、各々水分補給をしているところだった。
「楽しくなっちゃったね」
「今から誰か呼んでみましょう。誰かしら来るわよきっと」
いつもの明るい口調のリリーが、透証を通じて誰かを呼び出している。そんな様子を見ながら、侑子は小さく「良かった」と呟いたのだった。息を弾ませながら会話するリリーに、先程までの影は見られない。もしかしたら一時的な回復なのかもしれないが、少なくともそんな彼女の気を紛らわせ、前に向かせる方法があるということが分かった。そしてその手段が、自分の手の中にも確かに存在することが確認できて、侑子は誇らしい気分にすらなるのだった。素晴らしい高揚感だった。
◆◆◆
「ちょっと涼んでくる」
曲が終わって、アミが練習部屋から出て行った。その場は自然と休憩する流れになった。
「ふう。叩いた叩いた」
ドラムスティックを置いたミユキは、タオルで顔を押さえつけながら大きく息を吐き出した。そんな彼女にドリンクボトルを手渡しているのはショウジだ。少し前にリリーから呼び出されたのは、この姉弟だったのだ。
「折角の大晦日なのに、こっちに来てもらっちゃって本当に良かったの?」
ユウキが「今更だけど」と付け足しながら、二人に訊ねた。姉弟は年末年始は央里郊外の親戚の家で過ごす予定だったはずだ。
「いいんだよ。親戚の中で、今一番いじり甲斐あるのが俺たちだから。あまり寛げる感じじゃないんだ。ちょっと息苦しくなるっていうか」
「そうそう。いとこ達がもう皆結婚しちゃったものだから、次は私達だって。良い人はいないのとか、そろそろ結婚しとかないととか、とにかくそんな話ばっかり振られる。親戚に会えるのは嬉しいんだけどね」
ミユキもショウジも二十代半ば。リリーと歳が近かった。侑子にとっては兄の朔也と同じくらいだという認識があったので、それくらいの年齢で周囲から結婚を意識され始めるのは、こちらの世界でも共通なのだなと思った。
「リリーさんから連絡来て、ここぞとばかりに飛び出してきたんだ。お言葉に甘えて、今日は泊めさせていただきます!」
「ショウジったら、『楽しく酒が飲める』って、ここに来る間ルンルンだったんだよ」
「ミユキも人の事言えないだろ」
「なら良かった。私ったら、無意識に先輩の圧力かけちゃったかと思った」
リリーが愉快そうに笑った。侑子は場の雰囲気に嬉しくなる。気持ちよく歌って踊った後の身体は、まだ本番ではないというのに、心地よい疲労感をまといだしていた。しかしそんな感覚にすら、胸が期待に疼いている。
座布団の上で伸ばした脚の上に、あみぐるみたちがよじ登ってきた。彼らもさっきまで、侑子の周囲で彼女の動きを真似るようにリズムをとったり思い思いに踊っていたのだ。その数はざっと数えて、十体はいるだろう。本番でも一緒に踊ってもらう予定だった。
「こいつらにも、疲れるって感覚あるのかな?」
侑子の隣に胡座をかいたユウキが、ふと思い浮かんだ疑問を口にした。確かにあみぐるみたちは、侑子の身体の上でゴロゴロと横になって寛いでいる。先程までの踊っていた時の動きと比べると、随分緩慢だった。
「さあ。どうなんだろうね」
そうとしか答えようがなく、侑子はしばらくあみぐるみの様子を眺めていた。彼らののんびりした仕草と、心地よさそうに転がる様子に、つられてその場に横たわりたくなってくる。
「そういえばアミさん戻ってこないね。私も涼んでこようかな。ついでに呼んでくるよ」
眠気覚ましに廊下の冷気を顔にあてたくなった侑子は、そう告げて立ち上がった。あみぐるみたちはユウキの足の上に移動させてやる。すっかり眠り込んでいる様子の個体もあった。
◆◆◆
練習部屋を出てすぐの廊下に、アミの姿はなかった。自室に戻ったのだろうか。
暖房を効かせた上に皆の熱気ですっかり室温が上昇していた練習部屋に比べて、空調のついていない廊下はひんやりしていた。外気そのままの冷たさではないが、澄んだ冬の空気が立ち込めている。侑子はすっかり火照っていた頬が、あっという間に熱を奪われていくのを感じた。思わず身震いが出た。
「アミさーん」
廊下の曲がり角に向かって呼んでみたが、近くにはいないようだ。
侑子がアミの部屋に向かうために、階段を上りきったところだった。
「―――は……はい、彼らのと…………は……済んでいます…………を……引き続き」
アミの声が聞こえ、侑子は彼の名を呼んで、すぐに「あ」と口を手で抑えた。誰かと通話中だったのだ。
こちらに向いた薄紫の瞳が、僅かに見開かれたのが分かった。予想外のタイミングで侑子が現れたので、驚いたのであろう。彼のそんな表情を見たのは、初めてだった。侑子も同様に目を丸くしてしまった。『ごめんなさい』と口の形と表情だけで伝えた侑子に、アミの表情はすぐにいつもの調子に戻っていった。
「また連絡しますね。それでは、良い歳納を」
指輪型の透証に向かって、通話相手にそう告げている。通話を終えたようだった。
「大丈夫。親戚に歳納の挨拶をしていただけだから」
侑子の横に並んで階段を降りながら、アミは言った。そうなんだ、と相槌を打ちつつ、先程のアミの口調は親戚と話をしているにしてはどこか他人行儀というか、とても丁寧な言葉遣いのような印象を受けた侑子は、僅かに違和感を感じていた。
しかしその僅かな疑問はすぐに霧散して忘れてしまうのだった――歳納の宴が、始まろうとしていた。




