王の才
その日の侑子の家庭教師は、エイマンだった。
卒業してそれぞれ就職や進学をしたユウキや幼馴染たちは、まだ新しい生活のペースを掴んでいる途中だった。家庭教師として割ける時間も、以前より減っている。
その分、よく顔を出してくれるようになったのがエイマンだった。仕事は大丈夫なのかと侑子は気にしたが、「時間ならいくらでも融通が利く」と彼は笑った。
勉強部屋としてジロウが整えてくれた一室には、大きな作業台と勉強机が置かれている。壁際の棚には、侑子のために揃えられた学習書や、関連資料をまとめた分厚いファイルが並んでいた。
侑子とエイマンは机に並んで腰掛け、ヒノクニの歴史年表を広げていた。
「今日は暗い話になってしまうけど、とても大切な歴史の話をしよう」
それだけで侑子は、年表のどのあたりを扱うのか、おおよその予想がついた。
これまで国の成り立ちから順を追って教わってきたヒノクニの歴史は、日本の歴史と似ているところが度々見つかって面白かった。もともと歴史好きだった侑子は、教科書もあっという間に一通り読み終えている。
その中で気づいたことがある。
二つの世界の歴史は、古い時代へ遡れば遡るほど、不思議なほどよく似ていた。たとえば古代の墳墓の名称や、国宝に指定されている建造物の名、歴史上の人物の名前。自分の知っている言葉を見つけるたびに驚かされるのだが、実物の写真を見ればまるで形が違うこともある。歴史上の人物に至っては同姓同名なのに成し遂げたことが違ったり、登場する時代そのものがずれていたりする。
そして時代が進むにつれ、そうした共通点は少しずつ減っていく。近世ともなれば、ほとんど別の国の歴史を学んでいるような感覚になるのだった。
◆◆◆
今日エイマンが話そうとしているのは、おそらく侑子がこれまで何度も耳にしてきた、五年前の政争につながる歴史だろう。
「空彩党と平彩党。この二つの政党の名前は知っているよね」
侑子は頷いた。
現在の与党が平彩党。そして今では解体されて存在しないものの、五年前まで圧倒的な勢力を誇っていたのが空彩党である。
「五年前に正式に王から認められ、政権を担うようになった平彩党は、それほど歴史の長い政党じゃない。政争以前から母体となる政治団体は存在していたけれど、今の党首を中心として政党の形になったのは五年前。ちょうど政争のさなかだ」
エイマンが年表の一か所を指した。
五年前。
太字で記されたそこには、『平空政争』とある。人々がたびたび「五年前の政争」と呼んでいる内戦の、正式な名称だった。
「対して空彩党の歴史は古い。ヒノクニが立憲君主制を取り入れた頃から、その名前が残っている。空彩党から分離して生まれた政党もたくさんあったけれど、どれも長くは続かなかった」
「この国では、王の影響力がかなり大きいですよね」
侑子が口を挟んだ。
最初は日本の天皇に近い存在なのだろうと思っていた。しかしヒノクニについて知れば知るほど、その認識では説明できない部分が増えている。
エイマンは頷いた。
「王とは、ヒノクニを建国した人物の血脈を継ぐ者のことだ。ただ血を引いていれば誰でも王になれるわけじゃない。王位を継ぐには、ある特別な才を持っていなければならないんだ」
「その才も、遺伝するんですか?」
「そう考えられている。初代王の血筋にしか現れない才だ。そして面白いのは、ヒノクニが立憲君主制になったあとも、それ以前も、王が果たしてきた最も重要な役割そのものは変わっていないことなんだよ」
「役割? 王の仕事ってことですか」
「そう。王は、政治家たちが決めたことに基本的には口を挟まない。政党政治が始まる以前は、王直属の家臣や、王家と縁の深い家の者たちが政を担っていたけれど、その頃でさえ、王自身が政治に細かく意見することはほとんどなかったとされている」
エイマンは年表から侑子へ目を移した。
「その代わり、王は神事を執り行う。それは政治上の決定と同じくらい、時にはそれ以上に重要な役割として扱われてきた」
おそらく、かなり噛み砕いて説明してくれているのだろう。それでも侑子には政治の話は難しかった。日本の政治についてさえ、知識も実感もほとんどない。
ただ、一つだけ分かる。
この世界では、政治や歴史について考えるときでさえ、魔法という存在を切り離すことができないのだ。
「神事って、もしかして……王の持つ特別な才が、その儀式で使われるってことですか?」
ノートにメモを取る侑子を眺めながら、エイマンはしばらく考えるように顎へ手を添えた。
「分からない」
「分からない?」
「王がどんな才を持っているのか、一般には明かされていないんだ。その特別な力が神事の中で本当に使われているのかさえ、僕たちは知らない」
意外な答えに、侑子は手を止めた。
「じゃあ、どうしてそんなに神事が重要だって……」
「結果があるからだよ」
「結果?」
「この国が、長いあいだ守られてきたという結果だ」
エイマンの指が、年表のずっと古い時代へ滑っていく。
「昔から、神事が滞れば天変地異が起こると言われている。地震、噴火、大雨、洪水。逆に、王が神事を滞りなく続けている限り、そうした災害からヒノクニは守られる、とね」
侑子は思わず口を開けた。
「魔法で災害を防ぐことができるってことですか?」
「そう信じられている、というのが正確かな」
エイマンはそう断ってから続けた。
「王の神事によってヒノクニは守られている。王の特別な才がその力の源なのだ、と。少なくとも、国が成立してから千年以上にわたって、そう考えられるだけの事実が積み重なってきた」
そういえば、と侑子は思った。
別世界へ来てしまった衝撃ですっかり意識の外へ追いやられていたが、すでに十月も終わろうとしている。それなのに、この世界へ来てから台風という言葉を一度も耳にしていない。
毎日のように天気予報を見ているのに、大きな災害を警告するような報道にも出会っていなかった。
「長い歴史の中では、他国から侵略を受けたこともある。けれど、ヒノクニへの大規模な侵略はことごとく失敗してきた。それさえ王の力によるものだと信じる人は多い。ただ――」
そこでエイマンは言葉を切った。腕を組み、少しのあいだ年表を見つめる。
「これは君もすでに知っていることだけど、五年前の平空政争では、それまでの常識では説明できないほど大きな被害が出た」
侑子も年表へ目を落とした。
「政争そのものは一年ほどだった。それでも、あの混乱の中で多くの人が亡くなり、広い土地が焼け、傷ついた。教科書に太字で残さなければならないほどの出来事だったんだ」
エイマンの声が少し低くなる。
「なぜ、王によって守られていたはずの国で、あれほどの犠牲が出たのか。王の神事に何かが起きたのか。それとも、僕たちが信じてきた仕組みそのものに、知らない部分があるのか」
「原因は分かってないんですか?」
「少なくとも、一般にはね」
その一言に、侑子はわずかな引っかかりを覚えた。
エイマンの瞳は濁りのない水色だった。まっすぐ侑子を見つめながら、彼は話を続ける。
「君に再会したとき、かつて僕の父が、君と同じ世界から来た人と親しくしていたと話したよね」
「はい」
「その人が亡くなったのは、今から二十年ほど前だ。それから君がやって来るまで、トコヨノクニから来た人がこの国に現れたという記録はない」
「ユウキちゃんから聞きました。国が混乱した時期を乗り越えた頃に、私みたいにトコヨノクニから人がやって来ることがあるって」
侑子は少し考えてから続けた。
「そういうふうに歴史が繰り返しているんですか? つまり……別の世界から誰かがやって来ることが、この国の平和な時代の始まりを意味するとか」
エイマンはすぐには答えなかった。やがて、ふっと優しい笑みを浮かべる。
「そうだったらいいと、僕は思っている」
「思っている?」
「来訪者が現れることと国の安寧に、本当に因果関係があるのかは分からない。だけど、歴史を調べていると、偶然だと言い切るには妙な符合があるんだ」
そしてエイマンは、どこか願うような声で言った。
「君がこの国にとって、幸運を運んでくれる人だったらいい。あの悲劇は、もう二度と繰り返したくないからね」




