重なる声
◇◇◇
——覚悟を決めろ
ハルカに言われた言葉を反芻しながら、侑子はただその場に立っていた。
ホールを見渡せば、ユウキの姿はすぐに見つかる。今日ここに至るまでに交わした会話や、ギターの旋律、二つ重なった歌声が頭の中でこだました。
「ユーコちゃん」
背後から声をかけられ、振り返るとジロウがいた。いつもと変わらない気安い表情のままだ。彼はちっとも心配していないというふうに、にかっと笑って親指でステージを示した。
「そろそろスタンバイしときな。ユウキにも声かけとくから」
侑子は頷き、控室からステージへ続く通路へ移動しようとした。
「そうだ。ユーコちゃん」
呼び止めたジロウが手招きする。
「人差し指、出してみな」
何だろうと訝しみながらも、侑子は言われたとおり利き手の人差し指を立てた。
「よし」
ジロウはその指を片手でぎゅっと握り込むと、わざとらしく力んだ顔を作った。
「ふぅぅーん……」
何事だろうと思っているうちに、その顔がおかしくて笑いがこみ上げてくる。
侑子が吹き出したところで、ジロウは握っていた手を勢いよく上へ抜いた。
「すぽっ」
とうとう侑子は声を上げて笑った。
「なんですか? 今の」
「今のはねえ、おまじないさ」
いつもの笑みを浮かべたまま、ジロウが言う。
「少し緊張が解けただろう? そういうおまじない」
侑子ははっとして、ジロウを見つめた。
励ましてくれたのだと、そこで気がついた。
「ありがとう、ジロウさん」
「魔法じゃないよ。ただのおまじない。魔法ナシで頑張るつもりのユウキの横で、俺が魔法をかけたら意味ないからな」
「うん」
頷いた侑子の顔には、自然と笑みが浮かんでいた。
「その調子だ。ユーコちゃん、もう一つ良いおまじないを教えてあげよう。これはステージの上から試してみるといい。観客が自分のほうを向いたら、全員ジャガイモだと思い込むんだ」
侑子はまた声を上げて笑った。
「それ知ってます。私の世界でも同じこと言いますよ」
「へえ。そこまで一緒なのか」
また一つ、二つの世界の妙な共通点を見つけた。
侑子は少し軽くなった胸に手を当て、深く息を吸った。
――きっと大丈夫
意識をステージへ向け、侑子は歩き出した。
◆◆◆
ホールを照らしていた照明が落ち、歓談していた人々の声が次第に静まっていった。しかし完全な暗転にも、静寂にもならない。
侑子は息を殺すようにして、ユウキに続いてステージへ足を踏み入れた。
人々の視線が一斉にこちらへ注がれるのが分かる。ほとんどの人がまずユウキを見て、それから隣に立つ侑子へ目を移したようだった。
「あの子、誰だろう?」
どこかから聞こえた声に、心臓が跳ね上がった。
定位置について前を向き、先ほどジロウに教えられたとおり、頭の中で唱える。
――ジャガイモ、ジャガイモ……
天井から吊るされた前明かりが強くなり、客席の表情が見えにくくなった。侑子にとってはありがたい効果だったが、そのぶん向こうからはこちらがよく見えるのだというところまでは、頭が回らなかった。幸いだったかもしれない。
司会者が「余興の時間ですよー」と声を上げる。
ギターを構えたユウキが片手を上げ、ホールに散らばっていた人々の注目を集めた。
「みんな、卒業おめでとう。楽しい余興の先陣を切らせていただきます」
今日の観客は同級生と恩師たちだ。それでもユウキは、噴水広場で曲芸をするときによく耳にした、少しよそ行きの口調を使った。
横に並んでいるので表情は見えない。それでも声を聞けば、いつもの営業用の笑顔を浮かべているのだろうと分かる。
――慣れてるなあ
感心している間に、ホールから歓声と拍手が巻き起こった。
大半がつい先ほどまで学生だった若者たちだ。酒が入っているせいもあるのか、声は明るく、浮き立つような熱気が満ちている。
その勢いに一瞬気圧されたものの、侑子はすぐに考え直した。
――こんなに楽しそうなんだから、きっと大丈夫
そんなふうに考えられるようになったこと自体が、これまでユウキと重ねてきた練習の成果なのかもしれない。
いつの間にか、ジャガイモと唱えることも忘れていた。
――よく見える……
照明の明るさに目が慣れてきたのか、こちらを見ている人々の顔が少しずつ分かるようになってきた。
――ジロウさんとハルカくんだ。手、振ってくれてる
ミツキとスズカ、アオイも見つけた。この三人は、侑子がなぜここに立っているのか知らされていなかったらしく、揃って驚いた顔をしている。
さらに見回すと、顔馴染みの歌歌いやミュージシャンたちもいた。ジロウが手の空いている者を手伝いに駆り出したのだろう。彼らも驚いていたが、侑子と目が合うとすぐに名前を呼んで手を振ってくれた。
自分は緊張のあまり、ずっと周りが見えなくなっていたのだ。
侑子はようやくそれに気づいた。
そして不思議なことに、こうしてステージに立ち、スポットライトを浴びている今のほうが、心は少しずつ落ち着いていった。
聞き慣れたギターの音が鳴った。
一曲目が始まる。
侑子は一瞬だけ隣を向いた。同じ瞬間にこちらを見たユウキと目が合う。
二人でほんのわずかに頷き合い、息を吸った。
◆◆◆
侑子の魔力は透明だ。
けれど、その歌声には確かな色彩があった。
目には見えないはずなのに、まるで実体を持ってそこにあるかのように、明るく空間を満たしていく。
横から聞こえてくる彼女の歌声は、楽しげに弾んでいた。
――まるでユーコちゃんの声に、腕を引かれてるみたいだ
唇から滑り出していく自分の声を感じながら、ユウキは口角を上げた。
やはり侑子と歌うのは気持ちがいい。
才を使っていない、自分自身の声。それなのに、こんなにも素直に楽しいと思いながら歌えている。
今日はエレキギターを使っていた。二人ともマイクを使っているが、増幅されたギターの音は練習のときより格段に大きく、厚みがある。それでも侑子の声は楽器に埋もれず、ユウキの声と重なりながら、ホールいっぱいに伸びていった。
「ユーコちゃんって、あんなに歌えたんだ」
客席の端で、今日の手伝いに駆り出されていた歌歌いの一人がジロウに声をかけた。
変身館への出入りが増えた侑子とは、すでに顔馴染みだ。いつもおとなしく、動作も控えめな少女という印象しかなかったのだろう。別人のようにステージで歌う姿を、驚いた顔で見つめている。
「そうなんだよ。とても良い声だろう? ユウキがどうしても一緒に歌いたいってきかなくてね。あれは彼女からユウキへの卒業祝いでもあるんだよ」
「へえ。そういえばユウキも、ずいぶんリラックスした顔で歌ってるな。あんな雰囲気で歌うやつじゃなかったのに。いつもの鬼気迫る感じも良かったけど、俺はこういうのも好きだな」
何気ないその感想に、ジロウはステージを見つめたまま、遠い昔を思い出した。
長く伸ばした髪にウェーブをかけ、フリルやリボンのついた華やかな服を着せられた、小さな少年。
まだ声変わりさえしていなかった頃だ。
幼い子供の声でありながら、その声は地声よりも不自然なほど高かった。
魔法によって変えられた声だと知ったときも、それが母親の望みで行われているのだと知ったときも、ジロウはひどく驚いた。
そして何より忘れられないのは、魔力を使い果たし、本来の声に戻ってしまったときのユウキの顔だった。
あんなに小さな子供が、どうしてこんな絶望した顔をするのだろう。
胸が苦しくて仕方なかった。
その子供が今、自分の声で歌っている。
誰かの声に変えることもなく、隣から聞こえるもう一つの声と重ねながら、笑っている。
「ユウキ、良かったな」
誰にも拾われなかったジロウの呟きは、二人の歌声に溶けていった。
◆◆◆
何度目かの拍手を受け止める頃には、侑子の緊張はすっかり和らいでいた。
一曲目が終わった瞬間、わっと歓声が上がったときには、身体全体が足元から揺れたように感じた。それが自分の震えではなく、観客たちの昂ぶった声と拍手によるものなのだと気づいた途端、大きな安堵とともに、じわじわと喜びが込み上げてきた。
胸の奥が痺れるように震えた。
それはもう、恐怖ではなかった。
二曲、三曲と進むにつれ、侑子の表情は柔らかくなり、いつしか自然な笑みまで浮かんでいた。
「次が最後の曲になります」
ユウキが告げると、ホールは再び静かになった。
いつしか観客たちは歓談することさえ忘れ、ステージの二人に注目している。
ギターを置いてピアノの前へ向かうユウキと、わずかに立ち位置を変えた侑子を、いくつもの視線が追った。
侑子の身体に、再び緊張が戻ってくる。
今から歌う曲だけは、特別だった。
――この曲をここで……こんなに大勢の人の前で歌えたら……
胸の奥で、言葉が続く。
――きっと、もっと歌うことを好きになれる
声に出して大好きな歌を歌うことをためらわず、好きなものを好きだと、自信を持って言える自分になれる。
そんな予感がした。
――なりたい。そんな自分になりたい
一瞬だけ、辺りから音が消えたような錯覚に陥った。
背後にいるユウキの気配だけが、不思議なほど鮮明に感じられる。
その気配をもっと近くに感じたくて、侑子は目を閉じた。
やがて、最初の音が鳴る。
侑子は息を吸い込んだ。
最初のフレーズがマイクを通してホールへ広がったあと、ゆっくりと目を開いた。
こちらを見つめる、いくつもの顔がある。
知っている顔も、知らない顔もあった。
けれど、そのどれもが、あの日自分へ向けられた表情とは違っていた。
喉の奥に長いこと引っかかっていたものが、するりとほどけたような気がした。
侑子の声は、今までよりもさらに真っ直ぐに伸びていった。
◇◇◇
数日前。
『素敵な歌だ』
ユウキの声は、思わず口からこぼれたように小さかった。
歌い終えた侑子はしばらく宙を見つめていて、その言葉にもすぐには反応しなかった。
何年ぶりかに声に出して歌った、大好きな旋律。
もう少しだけ、その余韻の中にいたかった。
『もっと早く歌ってればよかったな』
ぽつりと呟いた侑子に、ユウキは何も返さなかった。
ただ、急かすことなく待っていた。
侑子が大好きだったというその歌に、ユウキが興味を持たないはずはなかった。
歌ってみてよ、と軽い調子で頼んだのがよかったのかもしれない。
侑子はしばらく迷ったあと、『本当に久しぶりだから、歌詞を間違えるかもよ』と断ってから、思い切るように息を吸い込んだのだった。
『何ていう歌なの?』
余韻から戻ってきた侑子の手を取り、ユウキが尋ねた。
曲名を聞くと、すぐに続ける。
『この曲も謝恩会で歌おうよ。ユーコちゃんが歌って、俺がピアノを弾く。ほら、もう一回歌ってみて』
練習に使っている屋敷の一室には、ギターだけでなく、ピアノやドラムセットなど、さまざまな楽器が置かれていた。
ユウキは部屋の隅にあるグランドピアノへ向かい、椅子に腰掛ける。
『ほら、もう一度』
促され、侑子は再び歌い始めた。
一度旋律を聴いただけのユウキは、鍵盤の上で音を探しながら、少しずつ伴奏を組み立てていく。拍子や音の置き方を変えては弾き直すその横で、侑子も何度となく同じ歌を繰り返した。
忘れているかもしれないと思っていた歌詞は、不思議なほど滑らかに口をついて出てくる。
大好きだった旋律に乗って。
◆◆◆
深く下げていた頭を上げる。
侑子の目に最初に映ったのは、観客たちの笑顔だった。
拍手が聞こえる。
あの日、途中で止められた歌とは違う。
今度は最後の音まで、自分の声で歌った。
いつの間にかすぐ隣にユウキが立っていた。
見上げると、優しく細められた緑の瞳が侑子を見つめている。
――歌いきった
ようやく実感が追いついた。
あまりの安堵に身体から力が抜けそうになる。それでも侑子はもう一度マイクへ顔を寄せた。
今日、この場所で一番伝えなければならない言葉が残っている。
「ご卒業おめでとうございます」
◆◆◆
「あの歌は、ユーコちゃんの世界の歌なの?」
控室のソファで力尽きたように座っていた侑子は、聞こえてきた声に跳び起きた。
リリーだった。
その反応がおかしかったのか、リリーは大きな声で笑う。
「私もユウキたちの卒業をお祝いしに来たのよ。余興の最後にねじ込んでもらったの」
ホールではすでに次の余興が始まっていて、楽しげな笑い声がここまで届いてくる。
侑子が赤くなりながら座り直すと、リリーも隣へ腰掛けた。
「びっくりした。ユーコちゃん、歌が上手なのね」
「ありがとうございます……」
これでは熱くなった頬が、いつまで経っても元に戻らない。
侑子は両手で頬を覆った。
「ユウキの曲はどれも知ってるわ。ここでもよく歌ってるもの。でも、最後の曲は初めて聴いた」
「『ゴンドラの唄』っていうんですよ」
侑子は、忘れもしないその曲の名前を口にした。
「私がいた世界で、百年くらい前に流行った曲なんです」
「そう。とても美しい歌ね」
リリーは鏡を取り出し、化粧を整えながら微笑んだ。
「どんなに古くても、魅力のある歌は色褪せないもの。ユーコちゃんの声に命を吹き込まれて、また誰かの記憶に残っていく」
そして、先ほど聴いたばかりの旋律を、小さく口ずさむ。
「『恋せよ乙女』かあ。なんて素敵な言葉かしら」
低く落ち着いたリリーの声で、侑子が長いあいだ一人きりで抱えてきた旋律が流れていく。
もう、自分一人の記憶の中だけにある歌ではなかった。
誰かが聴いて、覚えて、また口ずさんでいる。
そのことが、侑子にはたまらなく嬉しかった。




