歌いたい
◇◇◇
一緒に歌うことを決め、侑子がユウキの手を取ったあの日から、二人は時間を見つけては声を重ねた。初めこそ緊張したものの、ユウキの前で歌うことに抵抗を感じなくなるまで、そう時間はかからなかった。夢の中で何度も歌っていたからかもしれないし、すっかりユウキに心を許していたからかもしれない。
そしてユウキは、侑子が歌うたびに、こちらが恥ずかしくなるほど褒めてくれた。どこまでも甘く、優しい肯定の言葉は、侑子には錆落としのように思えた。重く動かしづらくなっていた心の扉の蝶番が、少しずつ本来の動きを取り戻していく。
『ユーコちゃんは、耳が良いのかもしれない』
ある日、新しく覚えた曲の旋律を歌い終えると、ユウキが言った。
『一度聴いただけで、正確に歌っちゃうんだもんな』
ユウキは嬉しそうだったが、侑子にはいまひとつピンとこない。ただ聴いたとおりに歌っているだけなのだから、自分では特別なことをしているつもりなどなかった。
『もっと自信を持つこと。それがユーコちゃんの一番の課題だね。謙虚なのが、いつも良いこととは限らないよ』
日に一度は言われているような言葉だった。しかしその日、ユウキはさらに一歩踏み込んできた。
『どうして、そんなに自信がないの?』
侑子はすぐには答えられなかった。
歌っている間なら、ユウキの目を真っ直ぐ見られる。声だって、いくらでも出せる。歌い終えた途端にそれができなくなることを、自分でも不思議に思うことがあった。
ユウキと歌うようになってから、その落差を何度も指摘された。
『歌ってるときのユーコちゃん、全然恥ずかしがり屋に見えないんだよね』
以前、そんなことを言われたこともある。
だからこそ、ユウキには理解できないのだろう。
――歌っているときの私と、歌い終わったあとの私は、そんなに違うのかな
『……ちっぽけな理由だって、自分でも分かってはいるんだけど』
苦々しい気持ちとともに、ようやく言葉を吐き出した。
『歌は好き。大好きなの。小さい頃からずっと。頭の中に音楽が浮かぶと、すぐ歌ってた』
何年も前の記憶を辿りながら、侑子はゆっくりと話し始めた。
『私が七歳から十歳くらいまで、母がお年寄りたちが共同生活する施設で働いてたの。家のすぐ近くにあったから、学校が終わると、母の仕事が終わるまでそこで待ってたんだ。おじいちゃんやおばあちゃんと話したり、ちょっとしたお手伝いをしたりしながら。そこでね、みんなよく昔の歌を歌ってたの。若い頃に流行った歌とか、子供の頃に歌ってた歌とか』
最近では家を離れている時間の長い母も、あの頃は毎日家にいた。仕事中でさえ、気軽に会いに行くことができた。
叔父一家や兄との暮らしに不満があるわけではない。それでも思い返せば、あの頃には今とは違う安心感があった。
『そこで覚えた歌を、私もよく歌ってた。私が歌うとみんな褒めてくれたし、喜んでくれたの。それが嬉しかったのもある。もちろん、歌そのものが素敵だって思ったのが一番大きいんだけど』
そこで一度、言葉が止まった。
『だけどね、ある日、学校の友達と好きな歌を歌う機会があって。そこで、いつもみたいに歌ったんだけど……』
あの日に歌った旋律は、今でも簡単に思い出せる。
あれから人前で歌ったことは一度もなかった。それでも頭の中では、何度となく繰り返してきた。それほど好きな歌だった。
記憶の中に、カラオケボックスの小さな個室が蘇る。
地域の子供会の行事が終わったあとの打ち上げだった。侑子は母と二人で参加し、近所の同級生たちも親子で来ていた。
そこで侑子は何の気なしに、その頃一番好きだった曲を選んだのだ。
『ほかの子はみんな、そのとき流行ってた曲を歌ってた。その中で私だけ、何十年も昔の歌を歌ったのね。そしたら一斉に笑われちゃって……今こうやって話してると、些細なことだったんだなって思うんだけど。それから、人の前で歌うのがどんどん嫌になった』
まだ語彙も乏しく、誰かの気持ちを想像することにも慣れていない子供の言葉は、率直なぶんだけ残酷だった。
侑子が美しいと思っていた歌詞は「ダサい」と言われ、心を揺さぶられるほど好きだった旋律は「古臭い」と笑われた。しまいには歌い方にまで心ない言葉を浴びせられた。
自分が泣いていると気づいた頃には、部屋の中には気まずい空気が満ちていた。
子供たちの親は我が子を叱り、侑子の歌を褒めてくれた。けれど幼い侑子には、それさえその場を収めるための言葉に聞こえてしまった。
余計に惨めになった。
誰がリモコンの停止ボタンを押したのかは覚えていない。
侑子が歌うことをやめたあとも、カラオケ特有の軽い伴奏だけが、しばらく部屋の中に流れていた。
『気にすることないって分かってる。好きな歌は好きでいていいってことも分かってるの。歌うことが好きな気持ちだって、ずっと変わってない。だけど人前で歌おうとすると、あのときのことを思い出して、歌いたくないって思ってしまう。またあんな気持ちになるくらいなら、歌わなくていいやって。歌うだけなら、一人でもできるから』
そこまで話して、ユウキがずっと真剣な目でこちらを見ていることに気づいた。
何も口を挟まず、ただ侑子の話を聞いている。
途端に恥ずかしくなり、侑子はうつむいた。
『ユウキちゃんが苦しんだことに比べれば、本当にちっぽけな理由でしょう? こんなことも乗り越えられないなんて、やっぱり情けないって思うんだよ。だから、ますます歌えなくなる』
これ以上説明しようとすれば、何もかも言い訳になってしまうような気がした。
侑子は口をつぐんだ。
今はただ、決めたことをやるしかない。それがユウキと一緒なら、きっと大丈夫だ。一人で歌ったあのときとは違う。
さあ練習しよう、と唇を開きかけたとき、それより先にユウキが口を開いた。
『大きいも小さいもないよ。ユーコちゃんがそれだけ辛かったなら、それだけ大きな傷だったってことだ。他の誰かの苦しみと、自分の苦しみを比べることに意味なんてない』
ユウキの手が、侑子の手を包んだ。
『話してくれてありがとう』
微笑んだ顔がひどく優しくて、侑子は不意に、夢の中の半魚人が目の前にいるような気がした。
これが夢の中だったなら、迷わずその胸に飛び込んでいただろう。
『俺はユーコちゃんの歌が好きだ。一緒に歌ってると、あの夢の中にいるみたいに感じるんだ』
包まれた手が温かい。
『こんなに幸せな気持ちで歌えるんだから、俺は救われてる。これからどれだけ大勢の前で歌ったって、中には好きじゃないって思う人もいるかもしれない。でも、それは怖がらなくていい』
ユウキは少しだけ指に力を込めた。
『一番近くで一緒に歌ってる俺は、間違いなく君の歌が大好きだから。それだけは忘れないで』
夢の中の半魚人は喋らなかった。
歌ったことだって、なかったはずだ。
それなのに侑子には、あの夢の中でも、ずっと一緒に歌っていたような気がした。
言葉も旋律もなかったのに。
自分が歌えば、すぐそばにもう一つの声があったような。
そんな、ありもしないはずの記憶だけが、不思議なほど確かな感触を伴って胸の奥に残っていた。
『歌おう、ユーコちゃん』
侑子は頷いた。
今までで一番素直に、歌いたいと思えた。
◇◇◇
そんな出来事の翌日だった。
ユウキが卒業祝いとして、謝恩会で一緒に歌ってほしいと言い出したのだ。
もともと予定していた噴水広場での披露までは、まだ一週間ほど猶予があった。それが突然、さらに早まった。
しかも今度の客は、ユウキと同じ学校を卒業する生徒や教員たちである。
最初こそ渋い顔をしていた侑子だったが、「自分への卒業祝いにしてほしい」とユウキに頼み込まれ、最後には承諾してしまった。知らない観客ばかりの噴水広場より、気心の知れた友人たちがいる場所のほうが心のハードルは低いのだ、という彼の言葉にも一理ある。
ユウキにとっても、いつも才を使った歌声を期待して集まる観客の前で、いきなりそれを封印するよりは挑みやすいのだろう。
そして何より、舞台は変身館だ。
誰かに変わるための場所でありながら、ユウキにとっては、自分自身の声で歌うことに何度も挑んできた場所でもある。
『……もしかして、昨日の一連の流れは、今日私を納得させるための作戦だった?』
少し意地悪な気持ちになって尋ねてみた。
ユウキは涼しい顔で口角を上げるだけで、否定も肯定もしなかった。
『どうだろう。ただ言えるのは、俺だって怖いってことだよ』
笑みが少しだけ薄くなった。
『自分の声を否定されるのは怖い。たぶん今の俺が、人前で歌うときに一番怖がってることだ』
けれど次の瞬間には、くしゃりと表情を崩して笑った。
『だからユーコちゃんに甘えたの。お願いだから、一緒に歌ってほしい。怖いんだ。だから隣で、君の歌を聴きながら歌いたい』
侑子はその言葉に、もう首を横へ振ることができなかった。




