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重なる声

『覚悟を決めろ』


 ハルカに言われた言葉を反芻して、侑子はただ立っていた。

 ホールの中を見渡せば、ユウキの姿はすぐに見つけられる。今日ここに至るまでにユウキと交わした会話と、ギターの旋律、二つ重なった歌声が頭の中でこだました。


「ユーコちゃん」


 背後から声をかけられ、振り返るとジロウがいた。いつもと変わらない気安い表情のままだ。彼はちっとも心配していないという風に、ニカっと笑って親指でステージを示している。


「そろそろスタンバイしときな。ユウキにも声かけとくから」


 頷いた侑子は、控室からステージへと続く通路へ移動しようとした。そんな彼女を「そうだ」と呼び止めたジロウが手招きする。


「人差し指をだしてみな」


 なんだろうと訝しみながらも、侑子はジロウの見本の通りに、利き手の人差し指を立てて天井を指すようにする。よし、とうなずきながら、ジロウは自分の片手で侑子の人差し指をぎゅっと握りこむと、わざとらしいふざけた力み顔をつくり、これまたわざとらしい「ふぅぅーん」というおかしな唸り声を立てた。何事だろうと思いながら、その様子がおかしくて笑い出した侑子を横目に、ジロウは握りこんでいた自分の手を上方へ抜いた。「すぽっ」というオノマトペつきである。

 侑子は声を上げて笑った。


「なんですか? 今の」

「今のはねぇ。おまじないさ」


 にかっとしたいつもの笑みのまま、ジロウは説明する。


「少し緊張が解けただろう? そういうおまじない」


 侑子ははっとして、ジロウを真っ直ぐ見つめた。励ましてくれたのだと、そこで気がついた。


「ありがとう。ジロウさん」

「魔法じゃないよ。ただのおまじない。魔法ナシで頑張るつもりのユウキの横で、俺が魔法をかけたら意味がないからな」


 うん、と頷いた侑子は自然に笑顔になっている。


「その調子だ。ユーコちゃん、もう一つ良いおまじないを教えてあげよう。これはステージの上から試してみるといいよ。観客が自分の方へ向いたら、全てジャガイモだと思い込むんだ」


 それを聞いた侑子は、再び声を上げて笑った。


「それ知ってます。私の世界でも同じことをしますよ」


 新たに二つの世界の共通点を見つけた。侑子は軽くなった胸に手をやり、軽く深呼吸してから意識をステージへと向けた。


――きっと大丈夫


 侑子は歩き始めた。 




◆◆◆




 ホールを照らしていた照明の光量が落ち、歓談していた人々の声が静まっていく――しかし完全な暗転と静寂ではない。

 侑子は息を殺すようにして、ユウキに続いてステージに足を踏み入れた。

 人々の視線がステージに注がれるのが分かった。殆どの人がまず初めにユウキを確認したようだ。そして彼の隣に立った侑子に、視線が移動したのだろう。


「あの子誰だろう?」


 という声が聞こえて、侑子の心拍数は一気に跳ね上がった。定位置について前を向くと、先程のジロウとの会話の通りに、ジャガイモジャガイモと唱え始める。

 フロアの天井から吊るされていた前明かりのスポットライトの光量が上がり、観客の表情が見えにくくなった。侑子にとっては嬉しい効果だが、一方で観客側からは自分の姿が更によく見える状態になったというところまでは、意識が回らなかった。幸いだっただろう。

 司会の「余興の時間ですよー」と告げる声が聞こえて、ギターを構えたユウキが片手を上げて、ホールに散らばる人々の注目を集め始める。


「皆、卒業おめでとう。楽しい余興の先陣を切らせていただきます」


 今日の観客は彼の同級生と恩師達だったが、噴水広場で曲芸をする時によく聞いていた、よそ行きの言い回しをユウキは使った。横並びだったので表情は見えなかったが、その口調から彼があの営業スマイルを浮かべているのだと分かる。


――慣れてるなぁ


 感心している侑子の前で、あっという間にホールから歓声と拍手が巻き起こっていた。

 大多数が先程まで学生だった若者たちなので、その声は若々しい。酒が入っているせいか、浮足立ったように陽気な色がかなり濃かった。

 侑子はその勢いと大きさに少しだけ気押されたが、既にこれだけの高揚感が出来上がっているのならば、きっと自分の歌声も受け入れてもらえるはずだという、前向きな思考にすぐに切り替える。そうすることが出来るようになったのは、これまでの練習の成果としか言えない。


――よく見える……


 いつしか侑子はジャガイモジャガイモと唱えるのを忘れて、前を見据え始めた。照明の明るさに慣れてきて、ホールからこちらを見ている人々の表情を確認できるようになっていた。


――ジロウさんとハルカくんだ。手を振ってくれてる


 ミツキとスズカ、アオイの姿も確認できた。この三人は侑子が今この場所になぜ立っているのか事情を知らないので、予想通りの驚き顔であった。

 ホールを一通り見回すと、顔見知りの歌歌い達やミュージシャンたちの姿も見える。ジロウが時間に空きのある人を手伝いに駆出していたのだろう。彼らはミツキ達と同じように驚いている様子だったが、すぐに侑子の名を呼んで手を振ってくれた。

 侑子は自分が緊張のあまり、すっかり周りを見ることができなくなっていたのだと、この時になってようやく理解したのだった。

 そしてステージでスポットライトを浴びている今のほうが、どんどん心が落ち着いていくのを、不思議に感じていた。

 聞き慣れたギターの音がした。

 一番初めの音曲が始まる。侑子は一瞬だけ隣に顔を向けた。同じタイミングで此方を向いたユウキの視線とぶつかり、お互い僅かに頷いた後、すうっと息を吸い込んだ。



◆◆◆



 侑子の魔力は透明だが、歌声は確かな色彩を持っていて、まるで実体としてそこにあるかのような存在感を放っている。

 横から聞こえてくる彼女の歌声は、楽しげに弾んでいた。


――まるでユーコちゃんの声に腕を引かれているみたいだ


 唇から滑り出していく自分の声を感じて、そんな感覚にユウキは口角を上げる。

 やはり侑子と歌うのは気持ちがいい。(マタナ)は使っていない声なのに、こんなにも純粋に楽しみながら歌うことができているのだから。

 今日はエレキギターを使っている。ユウキと侑子二人もマイクを使ってはいるが、電気によって音を増幅させたギターの音は、練習の時よりも格段に大きく重厚だった。けれど侑子の声は楽器の音に負けることなく、空間いっぱいに広がっていた。

 

「ユーコちゃんって、あんなに歌えたんだ」

 

 ジロウに話しかけてきたのは、今日の手伝いに駆り出されている歌歌いの一人だった。変身館への出入りがすっかり多くなった侑子と顔なじみになっていたが、いつも大人しく、あまり大きな動作もない少女だと思っていた。そんな彼女が、別人のようにステージで歌っている。そんな姿に驚きを隠せなかった。


「そうなんだよ。とても良い声だろう? ユウキがどうしても一緒に歌いたいってきかなくてね。あれは彼女からユウキへの卒業祝いでもあるんだよ」

「へえ。そういえばユウキも、随分リラックスした顔で歌ってるな。あんな雰囲気で歌うやつじゃなかったのに。いつもの鬼気迫る感じも良かったけど、俺はこういうのも好きだな」


 そんな何気ない感想に、ジロウはふと過去のことを思い出して、視線をステージに戻した。

 長く伸ばした髪にウェーブをかけ、フリルやリボンで華やかに飾り立てられた、女児服を身に着けた少年が頭に浮かぶ。

 あの頃は声変わりももちろんまだで、幼児特有のあどけない発音で喋っていたが、その声は地声よりも随分高く非現実的なものだった。それが魔法によって変声されたものであることと、それが彼の母親の指示で行われたものだと知ったのは、当時のジロウにとって大変ショッキングな出来事だった。魔力を使い切り、本来の自分の声に戻った時の絶望的な表情を、今でも忘れることはできない。あんなに小さな子供が、こんな表情を浮かべることができるのかと、胸が苦しくて仕方なかった。


「ユウキ、良かったな」


 誰にも聞き取られることのないジロウの独り言は、彼がいっとき思い返した過去の記憶と共に、ホールの空気となって消えていった。



◆◆◆



 何度目かの観客たちからの拍手を受け止める頃には、侑子の緊張も大分解けていた。

 一曲目が終わった瞬間にワッと歓声が上がって、身体全体が足元から揺れるように感じたが、それが自分の震えではなく、観客たちの昂ぶった声と拍手によるものだと気づいた。途端に大きな安堵とともに、じわじわと喜びが滲み出てきたのだった。胸の奥が痺れるように震えたのは、興奮だったのかもしれない。

 二曲、三曲と曲が進むに連れて、侑子の表情は柔らかく、笑みが浮かぶまでになっていた。


「次が最後の曲になります」


 ユウキの言葉が終わると共に、ホールは再び静まっていく。いつしか観客達は歓談することも忘れて、ステージの二人に注目していた。彼らの視線は、ギターを置いてピアノの前に座るユウキと、僅かに立ち位置を移動した侑子を追いかけた。

 侑子は再び緊張によって身体が硬直しはじめるのを感じた。今から歌う曲は特別なのだ。


――この曲がここで……この大勢の人の前で歌えたら……きっと……きっと歌うことをもっと好きになれる


 声を出して大好きな曲を歌うことに少しも躊躇せず、自信を持って好きなことを好きと声に出して言える自分になれる。そんな予感がするのだ。


――なりたい。そんな自分になりたい


 一瞬だけその場が無音になって、全ての動きがスローになる錯覚に陥った。後ろでピアノ椅子に座るユウキの気配だけが感じられて、その気配をもっと感じたいと、侑子は無意識に目を閉じる。 

 瞼という(とばり)から自由になった侑子の瞳が、再びスポットライトの元で煌めいたのは、最初のフレーズがマイクを伝って会場全体に行き届いてからだった。

 此方を見つめる、いくつもの顔が見える。知っている顔もあれば、知らない顔も多かった。その顔のどれもが、過去のあの時に自分に向けられていた表情とは、別物であることが分かる。

 喉に刺さった魚の骨が取れたように、侑子はどんどん声が真っ直ぐに伸びていくのを感じていた。



◇◇◇



 数日前。 


『素敵な歌だ』


 呟いたユウキの声は、思わず口からこぼれ落ちたもののように小さかった。

 歌い終えた侑子は、しばらくの間視線を宙に彷徨わせていて、そんなユウキの言葉は耳に入らない。

 何年ぶりかに声に出して歌ったその旋律の美しさに、もう少しだけ浸っていたかったのだ。


『もっと早く歌っていれば良かったな』


 侑子の言葉に、返事をするのでも、問いかけるのでもなく、ユウキはただ黙って座っていた。 


 侑子が大好きだったというその歌に、ユウキが感心を示さないはずはなかった。歌ってみてよ、と軽い口調で頼んだのが良かったのかも知れない。侑子はしばらく逡巡した後、ためらいがちに『本当に久しぶりだから、歌詞を間違えるかもよ』と断った後に、思い切ったというように、息を吸い込んだのだった。


『何て名前の歌なの?』

 

 歌い終えてぼうっとしている侑子の手を取りながら、ユウキが沈黙を破って問いかけた。

 

『この曲も謝恩会で歌おうよ。ユーコちゃんが歌って、俺はピアノで伴奏つけるよ。ほら、もう一回歌ってみて』

 

 練習部屋として使っている屋敷の一室には、ギターの他にもピアノやドラムセットなど、様々な楽器が置いてある。ユウキがこれらの楽器に親しんできたのを伺わせた。

 そんな部屋の一角に鎮座しているグランドピアノの前まで侑子を誘うと、ユウキは「ほら」と歌唱を促したのだった。

 その後即興で様々な拍子の伴奏を弾いて見せるユウキの横で、何度も何度も侑子はその歌を歌うことになったのだった。正確に覚えていた歌詞が、どんどん口をついて出てくる――大好きな旋律に乗せて。



◆◆◆



 深く下げた頭を、再び上げる。顔を上げた侑子の目に映ったのは、観客たちの笑顔だった。

 いつの間にかすぐ隣にユウキが立っていて、そちらを見上げる。優しく細めた緑の瞳が、侑子のことを見つめていた。


――歌いきった


 ようやく実感が湧いてきて、あまりの安堵感に脱力しそうになったが、最後の気力で侑子は再びマイクの前に口を近づけた。大切な祝福の言葉を述べる。


「ご卒業おめでとうございます」


 

◆◆◆



「あの歌はユーコちゃんの世界の歌なの?」


 控室のソファの上で侑子は脱力していた。声をかけてきたのは、リリーだった。

 予想外の人物の声に、びっくりして跳び起きた。その様子に大きく笑い声を上げながら、リリーは説明する。


「私もユウキたちの卒業をお祝いするために来たのよ。余興の最後にねじ込んでもらったの」


 ホールでは既に次の余興が始まっていて、楽しげな笑い声が聞こえてくる。侑子が赤面しながらソファに座り直すのを見ながら、リリーも隣に腰掛けた。


「びっくりした。ユーコちゃん、歌が上手なのね」

「ありがとうございます……」

 

 これでは赤く染まった頬が、いつまで経っても治らない。侑子は熱の引かない頬を手のひらで覆った。


「ユウキの曲はどれも知ってるわ。ここでもよく歌ってるわね。だけど、最後の曲は初めて聞いた」

「ゴンドラの唄っていうんですよ」


 侑子は忘れもしないその曲の名前を口にした。


「私がいた世界で、百年くらい前に流行った曲なんです」

「そう。とても美しい歌ね。どんなに古くても、魅力ある歌は色褪せないもの。ユーコちゃんの声に命を吹き込まれて、また誰かの記憶に残っていく。『恋せよ乙女』かあ。なんて素敵な言葉かしら」


 リリーは一度聞いただけのフレーズを口ずさみながら、化粧を整え始めた。

 低く落ち着いた声で繰り出される旋律は、緊張と昂りによって固くなった侑子の心を、やさしくほぐしていくのだった。


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