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青い半魚人  作者: 松下真奈
第一章
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発動

 もしかすると、ほんの一瞬、気を失っていたのかもしれない。

 轟音を聞いたのと、凄まじい風圧を感じたのは、ほとんど同時だった。

 身体が一気に後ろへ傾く。

 抵抗する間もなく吹き飛ばされ、次の瞬間には全身を強く打ちつけていた。

 自分が部屋の中央にあるテーブルを越え、その向こうの床まで飛ばされたのだと理解したのは、駆け込んできたジロウの大声を聞いてからだった。

「どうした!?」

 ひっくり返ったその声は、パジャマ姿のジロウのものだった。今まさに部屋の出入り口から飛び込んできたところらしい。その背後から、ぱたぱたと走ってくるノマの足音も聞こえる。

「ユーコちゃん!」

 すぐそばには、ユウキもいた。

「痛っ」

 抱き起こそうとしたユウキの手が肩に触れ、激痛に侑子は思わず呻いた。ユウキがはっと手を引っ込め、心配そうに覗き込んでくる。

「大丈夫? 何があった? どこが痛い?」

 すぐには答えられなかった。痛みに耐えながら、自分の身体がどうなっているのか確かめるので精いっぱいだった。

 侑子は深呼吸し、仰向けの姿勢からゆっくり身体を横へ向けた。特に痛むのは肩と腰だった。脂汗が滲んだが、最初の激痛よりは少しずつ弱くなっている気がする。頭に痛みがないのは幸いだった。

「ユーコちゃん、ちょっとじっとしてられる?」

 ジロウの声とともに、ノマの息遣いも近づいてきた。彼女は侑子の身体を確かめるように手を添えた。しばらくして、ほっと息を吐く。

「よかった。折れているところはなさそうです。ユーコさん、今、痛みを和らげますね。応急的なものですから、完全には取れないかもしれませんが」

 ノマの手が触れていたところから、じんわりと温かさが広がった。

 痛みが完全になくなったわけではない。それでも格段に楽になり、侑子はようやく上体を起こすことができた。

「ありがとうございます。びっくりした……」

「何があった?」

 ユウキはまだ青ざめていた。

「ごめん、ユーコちゃん。来るの遅くなった。俺が部屋に来たときには、もう倒れてて……」

「違うよ。ユウキちゃんのせいじゃない」

 侑子は慌てて首を振った。

「私にも何が起きたのか分からないの。突然、ものすごい風が吹いて……それで飛ばされた」

「風?」

 ジロウが開け放たれた窓へ目を向けた。

 広縁に置かれていた小さなテーブルと二脚の椅子は横倒しになっている。けれど、欄干にも障子にも、ガラス戸にも壊れた様子はなかった。外には、ほとんど風がない。湿り気を帯びた夏の夜気が、静かに漂っているだけだ。人一人を部屋の中ほどまで吹き飛ばすような突風が、自然に吹いたとは考えにくかった。

「もう少し詳しく聞かないと、何とも言えないな」

 ジロウがそう言いかけた、そのときだった。

 部屋の片隅から、音がした。

 月明かりも、廊下の灯りも届かない暗がり。

 何かが、畳の表面を擦っている。

 小さな子供がゆっくりと這っているような、かすかな音だった。

 四人は一斉に黙り込んだ。

 音のする方向を見る。

 ずり。

 ずり。

 確かに、何かがこちらへ近づいてくる。

 ユウキが素早く行灯に火を灯した。

 部屋が一気に明るくなる。

 暗がりにいたものの姿が浮かび上がった。

 四人は揃って目を丸くした。

 最初に声を発したのは、侑子だった。

「……私が編んだあみぐるみ」

 畳の上をよたよたと進んでいたのは、侑子がこの世界で最初に編み上げた、白いクマだった。頭頂部だけに、空色と紺色の糸が混じっている。背中一面には、ユウキが飾りつけた青い硝子の鱗が並んでいた。一歩進むたび、鱗が小さく揺れて光を弾く。

「なぜ……ぬいぐるみが動いているのでしょう?」

 ノマが困惑した顔で呟いた。

「かわいいな、おい」

 ジロウが言った。冗談なのか、本気で感心しているのか、声だけでは分からない。

 白いクマは侑子の膝までたどり着くと、ぴたりと止まった。そして、その場に座った。

「えっ」

 腰を折り、尻を畳につける。関節など入っていないはずの脚まで曲げ、ちょこんと座り込んでいる。

 侑子が黒い糸で刺繍した目と口は、もともと笑っているような形だった。

「あれ?」

 ユウキが声を上げ、クマを凝視する。

「このあみぐるみ……ユーコちゃんの魔力が流れてる」

 白いクマが顔を上げた。ユウキに向かって、二度、三度と頷く。

「……今、頷いた?」

 次には立ち上がり、侑子の膝へ顔を埋めるようにして、指のない両腕でしがみついた。すりすりと顔を擦りつけてくる。

「かわいい……!」

 ぬいぐるみが、こんなふうに動いたらいいのに。そんなことを考えたことは、何度もあった。

 侑子は白いクマを持ち上げ、そのまま胸へ抱きしめた。

「きゅぅ」

「鳴いた!」

 侑子は慌ててクマを離し、顔を覗き込んだ。綿を詰めるとき、鳴き笛など入れていない。音が出る仕掛けなど、どこにもないはずだ。

「あらあら。本当ですね。ユーコさんの魔力が通っています」

「魔法使ったのか?」

 ノマとジロウが驚いた顔をしている。

 侑子は首を傾げた。

 腕の中のクマも、真似するように首を傾げる。

「よく分からないんですけど……」

 侑子は、月を眺めていたところから順番に、何が起きたのか話し始めた。



◆◆◆



「精霊のご利益かな」

 話を聞き終えたユウキが言った。片膝を立てて畳に座る彼の瞳は、好奇心で爛々と輝いている。

「前にユウキちゃんが話してた、歌(ウタ)の?」

 白いクマは、テーブルの上に置いた侑子の手を乗り越えたり、その下をくぐろうとしたりして遊んでいた。ときおり「ぴぃ」とか「ぷぅ」とか、気の抜ける音まで発している。やはり、そんな仕掛けを作った覚えはない。

「そう。言葉に宿る精霊」

 ユウキは少し考えるように首を傾げた。

「本当に精霊のおかげなのかは分からないけど……ユーコちゃん、歌(ウタ)を声に出して唱えたんだろ?」

「しかも、ユーコちゃんの心境と、その歌(ウタ)に込められた心情はよく似ていた」

 ジロウが言葉を継いだ。

「精霊ってのは、魔法と違って目に見えるものじゃないからな。本当にいるのかどうかも、俺には分からん。ただ、昔からそういう話が残ってるってことは、何か理由があるのかもしれないな」

 あの和歌を口にしたことが、何かのきっかけになったのだろうか。それが魔法を発動させるための呪文だったとは、侑子にはとても思えない。

 けれど、あの直後に自分の中で何かが起きたのは確かだった。

「精霊からの応援だったのかもしれませんね」

 ノマが、乱れてしまった侑子の髪を手櫛で優しく整えてくれる。

「この世界へやってきたユーコさんへの、頑張って、というエールです」

「……だったら、嬉しいな」

 侑子は自分の両手を見つめた。

 あの突風を起こしたのは、自分なのだろうか。

 まだ、まるで実感がない。

 けれど、その風に巻き込まれたらしい白いクマは、今もテーブルの上を元気に歩き回っている——少なくとも、このクマには自分の魔力が流れている。

 それだけは、ユウキにもノマにも分かるらしい。

「ユーコちゃん、これ」

 ユウキが部屋の隅から、一体のあみぐるみを持ってきた。

 桃色のウサギだった。白いクマとは違い、ユウキの手の中でくったりとしている。

「同じ魔法、かけられる?」

 差し出されたウサギの片耳の付け根には、青い硝子の鱗が飾られていた。それは行灯の光を受け、ちらちらと輝いている。

「さあ……どうやったのか、自分でも分からないんだよね」

 侑子はウサギを受け取った。

「でも、やってみる」

 両手で包み込むように持つ。リリーに教わった通り、目を逸らさず、手の中を見つめた。身体の中を巡っているという魔力を、指先へ集める。そう想像する。

 すると。

 耳の後ろが、むずむずした。

「……あれ?」

 わずかな違和感だった。

 けれど、これまでの魔法練習では一度も感じたことがない。

――これ、もしかしたら

 できるかもしれない。

 テーブルの上では、白いクマが動きを止め、きょとんとした様子で侑子を見ている。

 視界の端には、息を詰めて見守るユウキとノマの姿もあった。

 そのときだった。

「あっ! 待った!」

 ジロウが突然、大声を上げた。

「ユーコちゃん、ここじゃちょっと危ないかも……!」

 けれど、遅かった。

「ああっ!」

 轟音が弾けた。

 直後、ガラスが豪快に砕け散る音が、深夜の屋敷中に響き渡った。

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