同じ月
満月だった。
夜、一人で窓を開け、その日の月を眺めることは、いつしか侑子の習慣になっていた。
広縁に出て、空を見上げる。
どこかから歌声が聞こえていた。
ユウキだ。
おそらく自室の窓を開けて歌っているのだろう。
初めてユウキの歌声を聞いてから、もう何度も変身館で歌う彼を観た。
けれど、ステージの上のユウキは、いつも戦っているように見えた。
リリーのピアノだけを伴奏に歌うときも、バンドで歌うときも、自らギターを弾きながら歌うときも。
表情から、どこか張り詰めたものが消えることはなかった。
母親の声と戦いながら歌っているのだろうか。
今、自分の部屋で歌っているときも、そうなのだろうか。
一方、噴水広場で定期的に行う曲芸では、才を使って声を変えて歌う。
そのときのユウキは、驚くほどのびのびとしていた。
自分がどんな表情をすれば観客の目を引き、どう振る舞えば魅了できるのか。それさえ計算して演じているような余裕がある。
ユウキと過ごす時間が増え、彼のことを知れば知るほど、不思議だった。
噴水広場にいるユウキと、変身館のステージに立つユウキ。
同じ人なのに、まるで二人の別人がいるように見える。
――今日も、月は変わらない
この世界での生活にも、ずいぶん慣れてきた。
侑子は自分の順応性の高さに驚きながら、同時に安堵してもいた。
帰る方法が分からないのなら、ここで暮らしていくしかない。
そんな覚悟も、少しずつでき始めていた。
それでも、月を見ていると、ときどき無性に感傷的になる。
今日は、そんな夜だった。
向こうの世界。
少し前まで自分が暮らしていた場所のことが、次々と浮かんでくる。
一度浮かんだ記憶は、なかなか消えてくれなかった。
聞こえてくるユウキの歌が、今夜はどこか悲しげだった。
その旋律に、気持ちまで引っ張られていく。
「みんな、どうしてるかなぁ」
突然いなくなったのだ。
きっと家出か、誘拐事件として扱われているだろう。
あの日、もうすぐ来るはずだった侑子を待っていた賢一や望美、愛佳たちは、あちこち探し回ってくれたに違いない。
すぐに朔也にも連絡がいっただろう。
せっかくのデートを中断させてしまったかもしれない。
兄が慌てふためく姿は、簡単に想像できた。
両親にも連絡しただろう。
母は帰国したのだろうか。
父は、見つかってからでも遅くないと言って、まだ帰ってきていないかもしれない。
そういう人だ。
それでも侑子は、父を薄情だとは思わなかった。
父が帰国してもしなくても、今の自分が帰れないことに変わりはない。
満月は明るく、大きかった。
部屋の灯りをすべて消しても、月明かりのおかげで辺りの輪郭が見える。
「月は同じなのかな」
並行世界がどういう仕組みなのか、侑子には分からない。
同じように見えるこの月も、向こうの世界で見ていた月とは、まったく別のものなのかもしれない。
けれど、見慣れた模様はよく似ていた。
侑子は数日前、ハルカに見せてもらったこの世界の地図を思い出した。
そこには、侑子が見慣れていたものとよく似た大陸や島々が描かれていた。
地理に特別詳しいわけではないので、二つの世界の地形がどこまで正確に一致しているのかは分からない。
それでも、少なくともヒノクニの国土が、日本列島とほとんど同じ形をしていることは分かった。
侑子が今いるのは、この国の首都。
一般には王都と呼ばれる、央里という町だった。
地図の上で位置を確かめれば、向こうの世界の東京都西部にあたる。
さらに驚いたことに、央里にあるリリーの家と、向こうの世界にある侑子の自宅も、地図上ではほとんど同じ場所にあった。
似ている。
あまりにも似ている。
それなのに、歴史も国も、人々の暮らしも違っている。
あの地図を見たことで、侑子はかえって、自分が本当に別の世界へ来てしまったのだと実感した。
そして今、頭上には見慣れた月が浮かんでいる。
――もし、本当に同じ月だったら
侑子は目を細めた。
――少し前に、お兄ちゃんたちもこの月を見てたのかな
この世界へ来てから日付や時刻を確認したところ、二つの世界にはおよそ十二時間の時差があり、向こうの世界のほうが半日ほど進んでいることが分かっていた。
今ここにある月を、向こうの世界では少し前に誰かが見上げていたのかもしれない。
そう思ったとき、記憶の底から一首の歌が浮かんだ。
「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」
ぽつりぽつりと口にする。
遠い昔、異国から月を見上げ、故郷の山に出ていた月を思った歌。
今の自分も、少しだけ同じなのかもしれない。
「覚えてるもんだな」
小学校では毎年冬になると、百人一首を使ったカルタ大会があった。
もともと国語も歴史も好きだった侑子は、ほとんどの歌を覚えていた。
こんなときにすら出てくる自分の記憶に、少し笑う。
けれど、その笑みは長く続かなかった。
視界が、じわりと滲んだ。
侑子は目を閉じた。
涙が一筋、頬を滑っていく。
また感傷的になってしまった。
「……ん?」
違和感があった。
閉じた瞼の裏。
真っ暗な視界の隅で、何かが弾けたように、細かな光が散った。
――なんだろう
侑子はぱっと目を開けた。
周囲が急に明るくなったわけではない。
目眩もしない。
けれど、手がおかしい。
じんじんと痺れている。
侑子は祈るように両手を組んだ。
その瞬間、息を呑んだ。
熱い。
両手が、内側から焼けるように熱を持っていた。
「何、これ……?」
怖くなった。
声が震える。
見た目には何も起きていない。
赤くなってもいなければ、炎が出ているわけでもない。
それなのに痺れはどんどん強くなり、熱は手のひらから指先へ広がっていく。
左腕が目に入った。
銀色のブレスレット。
透明な透証。
そのそばで揺れる、六枚の青い硝子の鱗。
「ユウキちゃん!」
助けを求める自分の声が耳に届いた。
その瞬間だった。
何もなかったはずの目の前で、空気が弾けた。
猛烈な風が、侑子を正面から襲った。
「きゃっ!」
大きな物音とともに身体が宙へ浮く。
侑子は何が起きたのか理解する間もなく、部屋の中ほどまで吹き飛ばされた。




