発動
もしかしたら、束の間気絶していたのかも知れない。
耳が轟音を捉えたのと、凄まじい風圧を感じたのは同時だった。そこから身体が一気に後方に傾き、抵抗する間もなく侑子の身体は運ばれ、そして全身に強く打撃を受けていた。
自分の身体が、部屋中央のテーブルを超えた床に叩きつけられたのだと把握したのは、ユウキの大声を聞いてからだった。
「どうした⁉︎」
ひっくり返ったその声は、パジャマ姿のジロウのものだった。慌てて駆けつけてきたのだろう。今正に部屋の出入り口から飛び込んできたところだった。彼の背後から、パタパタと走るノマの足音も続いてくる。
「痛っ」
抱き起こそうとしたユウキの手が肩に触れ、激痛に侑子は思わず呻いた。怯んだようにユウキが手を引っ込め、心配そうに見下ろしてくる。
「大丈夫? 何があった? どこが痛い?」
ユウキの問いかけには、すぐには答えられなかった。痛みに耐えるのと、全身の状態を理解するので頭が一杯だ。
侑子は深呼吸して、仰向けの姿勢からゆっくり横に身体を倒してみる。強打したのは肩と腰のようだった。脂汗が出てきたが、段々と痛みは弱くなっている気がした。頭が痛まないのは幸いだったのかも知れない。
「ユーコちゃん、ちょっとじっとしてられる?」
ジロウの声と共に、ノマの息遣いも近くで聞こえた。しばらくして彼女のほっと息を吐く音がする。
「よかった。折れているところはなさそうです。ユーコさん、今痛み止めかけますね。応急的なものですから、完全には取れないかも知れませんが」
その言葉どおり、全く痛まないまではいかないが格段に楽になって、侑子はようやく上体を起こすことが出来た。声も出せる。
「ありがとうございます。びっくりした……」
「何があった? ごめん、ユーコちゃん。来るの遅くなった……俺が部屋に来たときにはもう、倒れてて……」
痛々しそうな表情のユウキに、侑子は慌てて首を振った。
「違うよ。私にもわけが分からなかった。突然突風に飛ばされたの」
「突風?」
侑子の言葉に、ジロウは開けっ放しの窓に目を向けた。
広縁に置かれていた小さなテーブルと二脚の椅子は横倒しになっていたが、欄干や障子戸、窓ガラスが破損した様子はなかった。外もほぼ風のない、夏の湿っぽい空気が漂うだけだ。侑子の身体を吹き飛ばすほどの突風が自然発生的に起きたとは、考えにくかった。
もう少し詳しく話を聞いてみないと見当がつかないな、とジロウが侑子に言葉をかけようとしたときだった。
部屋の片隅、ちょうど月明かりも廊下の灯りも届かない場所から、畳の上を這うような不自然な音が聞こえてきたのだった。
◆◆◆
その音は小さな子供がゆっくりとハイハイをするような、軽く微かだが、確実に畳の表面を擦る音だった。
想定外の音に四人は固まり、一斉にその方向へ注目した。
ユウキが行灯に素早く灯りを灯す。一気に部屋は明るくなり、音の主の姿を明らかにしたのだが、四人ともきょとんとして、しばし間の抜けた表情を浮かべる。
言葉を発したのは、侑子だった。
「……私が編んだあみぐるみ」
そう、彼女の言葉は正しかった。畳の上をすり足でゆっくりこちらに向かって動いてくるのは、侑子がこの世界で一番初めに編み上げた、白いクマのあみぐるみだったのだ。背中一面をユウキが飾り付けた青い鱗で覆われており、よたよたと脚を進める度にその鱗が揺れていた。
「なぜ……ぬいぐるみが動いているのでしょう?」
ノマが困惑顔で、誰に問うでもなくつぶやいた。
「かわいいな、おい」
ジロウが言った。冗談を言っているのか困惑しているのか、分からない声だった。
くまは侑子の膝に触れるところまで来ると、ピタリと動きを止め、その場に座った。そう、座ったのだ。腰を曲げて尻をつけ、関節など入っていないはずの膝を曲げて、体育座りの姿勢を取った。にっこり顔に侑子が刺繍した顔が笑っている。白地に黒い糸なので、表情は分かりやすい。
「あれ?」
そこでユウキは、はっと声を上げた。
「このあみぐるみ、ユーコちゃんの魔力が流れてる」
くまは顔を持ち上げて、ユウキに向かって二度三度頷いた。そして再び立ち上がると、侑子の膝に顔を埋めるようにして、指のない腕でしがみつく姿勢をとると、スリスリと擦りついてくる。
「かわいい……!」
ぬいぐるみがこんな風に動いたらいいのに、と考えたことがあった。侑子はくまを持ち上げると、ぎゅっと胸に抱きしめていた。きゅぅ、と間の抜けた音が聞こえる。鳴き声も出せるのか。侑子は驚いた。
「あらあら。本当ですね。ユーコさんの魔力が通ってます」
「魔法使ったのか?」
ジロウとノマが目を白黒させている。侑子は二人のその言葉に、はて、と考え込む。胸元に抱きしめたくまは、首をかしげながら此方を見上げている。
「よく分からないんですけど……」
侑子はこうなるまでの経緯を語り始めた。
◆◆◆
「精霊のご利益かな」
侑子の説明を聞き終えて、ユウキが言った。片膝を立てて畳の上に腰を下ろした彼の瞳は、爛々と光っている。
「前にユウキちゃんが話してた、和歌の?」
クマは机の上で組んだ侑子の手を乗り越えて遊具にしながら遊んでいる。どういう仕組なのかは不明だが、時折ぴいとかぷぅだとか、気の抜ける音が聞こえてくる。綿を詰める際に鳴き笛を入れていないので、音が鳴る仕掛けはないはずなのだが。
「そうだよ。言葉に宿る精霊……だって、そうとしか考えられなくない? ユーコちゃんは歌を声にして唱えたんでしょ?」
「しかもユーコちゃんの心境と、その歌に込められた心情は一致していた」
ジロウがユウキの言葉を継いだ。
「精霊ってのは、魔法と違って見えないからな。眉唾モノなのは仕方ないが、そういうことで飲み込んだほうが納得できるかも知れないな」
あの和歌を口ずさんだこと――それが魔力を魔法として発動するための呪文を詠唱したことになるのだろうか。侑子にはぴんとこないが、それもこの世界の理だというのなら、そうなのだろう。
「ユーコさんの魔力が開放されたのは、精霊からのエールということでしょう」
乱れてぐしゃぐしゃになった侑子の髪を、ノマが優しく手櫛で整えてくれる。心地よいその感触に身を任せるようにしていると、自然と彼女の言葉も飲み込めるような気がした。
「この世界に来たユーコさんへの応援ということでは? 私はそのように感じましたよ」
侑子は自分の手のひらを見つめた。あの突風は自分が起こした魔法なのだろうか。実感は全くないが、結果あの風に巻き込まれたのであろうクマのあみぐるみは、命を吹き込まれたように動き回っている。
この信じがたい現象は、魔法ということにしておかないと説明がつかないかもしれない。
「ユーコちゃん、これ」
ユウキが部屋の隅から、一体のあみぐるみを抱いてきた。テーブルの上でちょろちょろ動き回るクマとは別の、桃色のウサギのあみぐるみだった。こちらはユウキの手の中でくったりとして、動いてはいなかった。
「同じ魔法、かけられる?」
手渡された桃色のウサギには、片耳の付け根に青い鱗が縫い付けてあった。行灯の灯りを受けてチラチラと輝く。
「さぁ……どうやったのか分らないんだよね。できるのかな」
侑子はウサギを両手で包むように持つと、リリーに教わった通り目を逸らさないように意識しながら、手の中を見つめた。身体の中を循環しているらしい魔力を指先に集めるイメージを描く。
すると、何だか耳の後ろがムズムズするような違和感を僅かに感じた。今までの魔法練習では、感じたことのない感覚だった。
―――これは、もしかしたら
いけるのかもしれない。
テーブルの上からきょとんとした仕草で侑子を見つめるクマがいた。視界の隅に自分を見守る、ユウキとノマを捉えられる。
その時だった。
あっ! と思い出したように大きな声で慌てる、ジロウの声が聞こえた。
「待った! ユーコちゃん! ここじゃあちょっと危ないかも―――あぁっ!」
大きな衝撃音と共に豪快にガラスの割れる騒々しい音が、深夜の屋敷に響き渡った。




