魔法練習
翌日、侑子は前を走るノマに続いて、自転車を漕いでいた。
ハンドルの中央では、黄色い魔石がほんのりと光っている。確かにペダルは軽く、足にほとんど負担を感じない。爽やかな朝の風を受けながら、侑子は見知らぬ街を走っていった。
「終わったらすぐにそっちに行くから」
そう告げて、ユウキは学校へ向かった。ジロウも変身館へ出勤している。
昨日、リリーの家で魔法を教えてもらう約束をした侑子は、ノマとともに彼女の家へ向かっているところだった。
侑子にはまだ、この世界はもちろん、この街の広さも土地勘もほとんどない。
知っているのは、ジロウの屋敷から変身館までは徒歩で十分ほど、ユウキと出会った噴水広場までは自転車で二十分ほどということくらいだ。
自力で歩いたリリーの家から噴水広場までは、ずいぶん遠かったように感じた。けれど実際には、そこまで離れていないらしい。あのときはエイマンから逃げようと必死で、同じ辺りをぐるぐると回ってしまっていたのだろう。
自転車を走らせてほどなくすると、見覚えのある畑の畝が目に入ってきた。
「着きましたよ。こちらがリリーさんのお宅です」
自転車を降りた侑子が門に掛けられた立派な石の表札を見ると、そこには端正な字体で「平」と彫られていた。
記憶通りの大きな日本家屋だった。
門の先から玄関までのあいだには、枝ぶりを美しく整えられた大きな松が立ち、その横には岩で囲まれた池が見える。
侑子がこの世界へ来た日に逃げ出した広い畑とは景色が違う。あの場所は、屋敷の反対側にでもあるのだろう。
「すごく大きなお屋敷なんですね」
「リリーさんの一族は、古くから養蚕業を営まれていたお家なんですよ」
玄関先で二人が靴を脱いでいると、リリーが出迎えに来てくれた。
今日は紺色の作務衣を身につけ、長い髪を高い位置で一つに結んでいる。
「いらっしゃい、ユーコちゃん。ノマさんも。まずはお茶でも飲んで涼みましょう。今日も暑くなりそうだわ」
「お邪魔いたします。リリーさん、作務衣ですか。気合いが入っていますねぇ」
「魔法練習といえば、この格好よね」
聞けば、学生たちが屋外で魔法の実習をするときには、作務衣を着ることが多いらしい。
侑子も寺で僧侶が外仕事をしているときに着ているのを見たことがあったが、二人の説明を聞く限り、こちらの学生にとってはジャージや体育着に近いものなのだろう。
せっかくだからと勧められ、侑子もノマにリリーと同じ紺色の作務衣を出してもらった。
初めて身につけたが、着心地がよく、動きやすそうだった。
「形から入るのも大切よ。それじゃあユーコちゃん、頑張りましょうか」
「はい! よろしくお願いします」
外紐をぎゅっと結び、侑子はリリーに頭を下げた。
◆◆◆
リリーに伴われてやってきた練習場所は、何もない空き地だった。
昨日、彼女は「うちの畑」と話していたので、以前は何か作物を育てていた場所なのだろう。
今は茶色い土が広がり、ところどころに小さな雑草が生えているだけだった。
「まずは基本的な『物質変換』からやってみましょうか。土を使うのが分かりやすいわ。身近だし、量もたくさんあるから」
リリーはそう言って、足元の土を一掴み手に取った。
「見てて」
ほんの数秒、その土に視線を注ぐ。
すると侑子にも見覚えのある光の粒が現れ、リリーの手の中を覆っていった。
土が完全に見えなくなった次の瞬間、光の粒がぱっと弾ける。
そこには、真ん丸の白い玉が載っていた。
白く濁った水晶玉のような、半透明の球体だった。
「はい、できあがり」
「さっきまでそれ、ただの土でしたよね」
侑子は差し出された玉を手に取り、まじまじと眺めた。
固く滑らかな表面には、先ほどまで土くれだった痕跡などどこにも残っていない。
それどころか、どこかで見たことがある。
「あれ……これ、魔石に似てません?」
「そうよ。これはまだ魔力を入れてない、空っぽの魔石」
その言葉で思い出した。
ユウキが見せてくれた、魔力を使い切ったあとの魔石だ。光を失ったそれと、よく似ている。
「魔石って、こうやって作るんですか?」
「作り方はいろいろあるけど、私は土から作ることが多いわ。身近にいくらでもあるし、慣れてるから」
リリーは侑子の手から白い球体を受け取ると、指先で軽く転がした。
「今は器を作っただけ。ここに魔力を注ぎ込めば、いつも使ってる魔石になるの」
「じゃあ、土を魔石に変えたってこと?」
「そう。正確には、魔力を溜めておける器に変えたのね。こうやって何かを別の物質に作り変える魔法を『物質変換』っていうの」
「これが基本なんですか?」
「基本中の基本。学校に入ったばかりの子供たちが、実習で最初に習うような魔法よ」
「これが……」
侑子は白い球体をもう一度見た。
「学校に入る前から、簡単なものならできる子も多いわ」
「……できるかなぁ」
「最初から魔石を作ろうとしなくていいのよ。頭の中で具体的に思い描けるものに変えてみましょう」
侑子はリリーがやったように、足元の柔らかそうな土を一握り手に取った。
賢一の家で畑仕事を手伝ったことがある。そのときに触った土の感触を思い出した。
「量は?」
「目分量でいいのよ。そんなところにこだわらなくて大丈夫。目は閉じないでね。慣れてきて、そのほうが集中しやすいなら閉じてもいいけど、最初は変えるものをしっかり見たほうがいいわ」
「魔力は、血と同じように身体の隅々まで巡り、循環しているものです。その流れを意識して、土を持つ手のひらへ集めるようなイメージを持ってみてください」
少し離れたところで見守っていたノマも、背後から助言してくれる。
侑子は二人に言われた通り、手の中の土へ意識を集中させた。
しかし。
何も起こらない。
いくら待っても、侑子の手の中に光の粒は現れなかった。
握った土だけが、指の隙間からぽろぽろとこぼれ落ちていった。
◆◆◆
その後も石や雑草など、手にするものを変えて何度も試した。
けれど、どれも変化しなかった。
侑子の手に光の粒が現れることはなく、身体の中を巡っているという魔力が動く感覚も分からない。
「やっぱり私、魔法使えないんですかね」
一生懸命に助言してくれるリリーとノマに申し訳なくなり、自然と声が小さくなった。
夏の日差しの下で練習を続けていたせいで、三人ともじっとりと汗ばんでいる。
今はノマが日除けに組み立ててくれた大きなタープの下で、氷を浮かべた麦茶を飲みながら休憩しているところだった。
「そんなに暗くならないでよぉ。魔力があるのは確かなんだから、使えないってことはないと思うの。今まで一度も使ったことがないんですもの。身体が魔力の外への出し方を知らないだけよ、きっと」
レジャーシートの上に投げ出した足を組みながら、リリーは侑子を元気づけるように肩を叩いた。
「私だって、やったこともないのに突然バク宙してみろって言われたら無理よ。それと同じじゃない」
「そうですよ。それに、魔法が使えなくても案外困らないものです。さあ、どうぞ」
穏やかに微笑んだノマは、小さな重箱から植物の葉で包まれた丸いものを取り出し、侑子に差し出した。
「私が作ったんですよ。魔法は使わずに、手だけで」
大きな笹の葉をそっと広げると、中から緑色の丸い団子が現れた。
「わ! ノマさんの笹団子! やったー!」
リリーが大喜びで頬張り始める。
侑子も一口かじってみた。
「美味しい……!」
柔らかな餅と滑らかな漉し餡が舌の上でほどけ、優しい甘みが口いっぱいに広がった。
蓬と笹の瑞々しい香りが鼻へ抜け、侑子は思わず頬を緩めた。
「お口に合いましたか?」
「とっても美味しいです!」
一個をぺろりと平らげると、ノマは「たくさんありますから」と二つ目を勧めてくれた。
「ノマさんが作ったんですか?」
「そうですよ。ジロウさんもお料理上手ですが、私も料理は好きなんです。特にお菓子作りは楽しいですね。この笹団子は祖母から母へ、母から私へと代々教え継がれてきた、我が家の味なんです」
「これ、本当に絶品よね」
三個目の最後の一口を口へ放り込みながら、リリーが笑った。
「こういうものは、魔法だけでは伝えられません」
ノマは重箱に綺麗に並んだ笹団子を、愛おしそうに見つめた。
「母も祖母も、そのまた母も、手で作り、口で教え、一緒に作ることで伝えてきたのです。材料を揃えるために山へ入り、手で笹の葉や蓬を摘み、水を汲み、鍋で沸かす。そうやって覚えてきたものなんですよ」
侑子は手元の笹団子を見た。
「その工程に、魔法はなくてもいいのです。魔法がなくても、人を喜ばせたり、笑顔にしたりすることはできますから」
「そうね」
ごちそうさま、と手を合わせたリリーが大きく頷いた。
「これはジロウさんの受け売りだけど、美味しいもの食べて笑っていられれば、大抵のことは大丈夫よ」
◆◆◆
今日は猛暑になりそうだった。
三人はタープを畳み、屋敷の中へ戻ることにした。
魔法の練習は、侑子本人がまたやってみたいと思ったときにすればいいということで、今日はお開きとなった。
それでも侑子の心は、先ほどより少しだけ軽くなっていた。
昼食を作るというノマの申し出に、待ってましたとばかりにリリーが「よろしく!」と返事をする。
それから彼女は、侑子を自分の部屋へ案内した。
――リリーさんの部屋……
そこは、侑子が初めてこの世界へ足を踏み入れた場所だった。
長い廊下の一番奥に、その部屋へ続くドアがあった。
焦げ茶色の木製で、飾りも装飾もない。
銀色の丸いドアノブも、侑子の世界にあるものと何一つ変わらないように見えた。
「緊張してる?」
リリーには簡単に見透かされてしまった。
「ユーコちゃん、開けてみない?」
銀色のドアノブに釘付けになっていた侑子の視線が、ほんの少しリリーへ動き、また戻る。
侑子は頷いた。
そっと手を伸ばす。
冷たい金属の感触が、掌に触れた。
ドアノブを握り、ゆっくりと回す。
そして、扉を開いた。
◆◆◆
期待していなかったと言えば、嘘になる。
もう一度このドアを開けば、その向こうには自分の部屋があるのではないか。
朝、目を覚ましたときのまま、ベッドの上ではタオルケットが乱れている。
枕元に置いたぬいぐるみたちが、いつもの顔でこちらを向いている。
そんな部屋を見て、やっぱり大丈夫だったんだ、少し変わった夢を見ていただけなんだと安心しながら足を踏み入れる。
そしてドアを閉めようと振り返れば、クリーム色の髪の女性などどこにもいない。
そこには、毎日見ていた廊下の壁がある。
――やっぱり少しは……期待してた
けれど耳に届いたのは、聞き慣れない他人の家のドアが開く音だった。
その向こうには、この世界へ来た日に大きな戸惑いとともに目にしたのと同じ光景が広がっている。
自分の部屋よりも広い畳敷きの部屋。
鮮やかな赤や桃色の薄布を幾重にも重ねたカーテン。
白い猫脚の、天蓋付きのベッド。
知らない部屋だった。
「リリーさんのお部屋って、可愛いですね」
胸の奥からせり上がってくるものを押し戻そうと、侑子は無理に明るい声を出した。
「天蓋付きのベッドなんて、私、初めて見ました」
リリーが心配そうにこちらを見ているのは分かっていた。
それでも、何でもないふりをするつもりだった。
けれど、そんな気負いはあっという間に萎んでいった。
「ユーコちゃん」
名前を呼んだのは、部屋の主ではなかった。
耳に馴染んだ声。
この世界へ来てから、誰よりたくさん聞いた声だった。
まだ出会って二日しか経っていないことが、不思議に思えるほど安堵する声。
侑子は振り返った。
ユウキが立っていた。
せめて泣くまいと堪えた。
涙はどうにか止められたけれど、声が震えるのまでは隠せなかった。
「ユウキちゃん。やっぱり私、帰れないみたい」
ユウキは何も言わなかった。
ただ、褐色の手を伸ばし、そっと侑子の頭を撫でた。
そのときになって初めて、もう一方の肩をリリーのしなやかな指が支えてくれていたことに、侑子は気づいた。




