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青い半魚人  作者: 松下真奈
第一章
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帰れない

 その夜。

 柔らかな寝具に身体を沈めながら、侑子はユウキから聞いた話を何度も思い返していた。

 ユウキが経験した悲しい子供時代の記憶も、才で声を変えながら生きるという感覚も、自分の歌声を誰かに認められる喜びも、侑子には本当の意味では分からない。

 同じ夢を共有していたことが、どんな意味を持つのかも分からない。

 それでも、ユウキが侑子にとって特別な存在であることだけは確かだった。

 彼がいなければ、侑子は今もこの世界で迷子のままだったかもしれない。

 けれどユウキは、侑子のほうこそ自分にとって大事な存在なのだと言った。

――私が、ユウキちゃんの人生にとって大事な人……?

 並行世界が存在することも、魔法が本当にあることも、もう分かっている。

 どちらも自分の目で見た。触れることだってできた。

 なのに、それらよりずっと身近で確かなはずの、自分自身のことが信じられない。

――ユウキちゃんにはお世話になってるし、助けてもらったのも本当。何か返せるなら返したいけど……私にそんな大層なこと、できるのかな

 ユウキは自分のことを買いかぶりすぎているのではないだろうか。

 もし期待されたような人間ではなかったら。

 いつか、がっかりさせてしまったら。

 そう考えると、少し怖かった。

 身体は疲れているはずなのに、目が冴えてしまう。

 何度か寝返りを打ったあと、侑子は眠ることを諦め、寝具から起き上がった。

 

 広縁へ出て、障子と、その外側のガラス窓を開ける。

 湿気を含んだ重たい夏の空気が、庭の草木の匂いとともに流れ込んできた。

 欄干に寄りかかって空を見上げると、月が浮かんでいた。満月ではない。

 けれど表面に浮かぶ濃淡も、大小のクレーターが描く模様も、侑子がずっと見慣れてきた月と同じように見えた。

「同じに見えるんだ……」

 本当に同じ月なのかは分からない。

 それでも、よく知っている姿がそこにあることに、侑子は少しだけほっとした。

 ここへ来てから、知らないものばかりだった。

 知らない街。知らない人。魔法。魔力。透証。トコヨノクニ。

 そんな世界の空に、見慣れた月だけが浮かんでいる。

「……もう本当に、帰れないのかなぁ」

 声に出した途端、胸の奥に押し込めていたものが目を覚ました。

 朔也の顔が浮かんだ。

 母の顔も浮かんだ。

 目の奥が熱くなり、涙が滲んでくる。

 今度は、止めようとは思わなかった。

 涙はぽろぽろと頬を伝い、寝間着や欄干に小さな跡を作った。

 帰る方法は分からない。

 トコヨノクニから来る人の存在を知っているこちらの人々でさえ、元の世界へ戻る方法は知らないようだった。

 そして、こちらの世界でそのまま生涯を終えた人もいる。

――帰れないかもしれない

 初めて、その可能性を言葉ではなく実感として受け止めた気がした。

 侑子はもう一度、月を見上げた。

 この世界でたった一つ、元いた場所でも見ていたものに縋るように。

 声を押し殺すこともせず、侑子はしばらく泣き続けた。

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