君だから
ユウキの親指が、侑子の目元にそっと触れた。
こぼれ落ちそうになっていた涙を、拭い去ったのだ。
「泣かせてごめんね。聞いてくれてありがとう」
ユウキは少しだけ笑った。
「ユーコちゃん、さっき俺の歌声を褒めてくれたね。好きって言ってくれた。だから知ってもらいたいって思ったんだ」
侑子は黙ってユウキを見上げた。
「才なしの声で人前で歌うとき、いつも母の声が頭の中に聞こえてくる。『その声を出すな。その声で歌うな。それはお前の声じゃない』って」
そこで一度、ユウキは言葉を切った。
「違う。俺の本当の声はこの声だって、反抗しながら歌ってる。でも、だんだん分からなくなってくるんだ。自分の本当の声って、どんな声なんだろうって」
さっきまでステージに響いていた声を、侑子は思い出した。
「だから今日、ユーコちゃんが俺の歌を聞いて、好きだって言ってくれたことが、とても……とても嬉しかった」
「私はただ、本当のことを言ったの。涙だって勝手に出てきたんだよ。それくらいユウキちゃんの声に力があった」
侑子は言葉を重ねた。
「それにジロウさんもリリーさんも、ユウキちゃんの歌声を認めてたよ。お客さんだって、心から拍手してた」
だから自信を持ってほしい。
才で作り出す声には、人々を惹きつける不思議な力がある。
けれどユウキ自身の声には、一度捕まえた人の心を離さない力がある。
侑子には、そう思えた。
「……たぶん、君だから特別嬉しかったんだ」
斜め上から、ユウキの声が降ってきた。
「君が認めてくれたから」
侑子が見上げると、緑色の瞳がこちらを見つめている。
「ユーコちゃんが、同じ夢の記憶を持ってる人だから」
「どういうこと?」
真意をつかめずに問い返すと、ユウキは真剣な眼差しを向けてきた。
「昨日はあの夢のこと、俺たちが出会う予知夢だったのかもって話したけど……この世界では、夢を共有することには、もう少し別の意味があるって言われてるんだ」
「別の意味?」
「初めから話さなくて悪かった。聞いてもらえる?」
突然、自分にも関わる話になった。
侑子はユウキの言葉の意味をつかみきれないまま、頷いた。
「昨日ちゃんと教えなかったのは、後ろめたかったから」
二人はゆっくりと歩き続けていた。
侑子はもちろん、ユウキにも目的地があるわけではないのだろう。
夜空に浮かぶ月が、歩く二人を追いかけるようについてくる。
「後ろめたい?」
「昨日のユーコちゃん、知らないことを一度に経験しすぎて、余裕なかっただろ。今日だって、そんなに変わらないかもしれないけど」
ユウキは困ったように笑った。
「特に、俺と夢の中でずっと会ってたって分かったとき、すごく戸惑ってたみたいだったし。全部話したら、もっと驚かせると思った。それに……そう、やっぱり後ろめたかったんだ。俺にとって、都合のいい意味でもあったから」
吐息とともに、小さな謝罪が落ちた。
「ごめんね」
侑子が隣を見上げると、緑色の瞳がまっすぐこちらを見ていた。
「この世界ではね、同じ夢の記憶を共有している人同士は、お互いの人生に深く関わる相手になるって言われてるんだ」
「深く関わる?」
「人生のキーパーソンっていうのかな」
「キーパーソン……」
「ユーコちゃんの世界には、そういう話はない?」
「うん……少なくとも私は知らない」
「そっか」
ユウキは頷いて、話を続けた。
「よく聞くのは親子やきょうだいかな。夢の中で何度も会ってた子供がいて、自分に子供が生まれて、その子が大きくなったら夢の子と同じだった、とか。夢の中で一緒に遊んでた子が、実はきょうだいだったとか」
侑子は黙って聞いている。
「俺の周りで聞いたことがあるのは、天職に就くきっかけをくれた恩師と夢の中で会ってた人とか、大病を治してくれた医師を昔から夢で知ってた人とか。恋人や夫婦だったっていう、ロマンチックな話もあるよ」
ユウキの言葉を頭の中で反芻しながら、侑子は歩いた。
やがて意味がつながって、少し興奮しながら口を開く。
「……すごいね。もう当たってる」
「え?」
「だってユウキちゃん、もう私の恩人だよ」
ユウキが目を瞬いた。
「この世界のことが何も分からなくて、怖くて、どうしたらいいのかも分からなくて。もう限界ってところで助けてくれたの、ユウキちゃんだった。ユウキちゃんに会ってから、この世界のことが少しずつ分かるようになってきたし、だんだん怖くなくなってきたんだもん」
ユウキは優しく笑った。
侑子の素直な言葉に、張りつめていたものが少しほどけたようだった。
「ユーコちゃんは、俺が出てくる夢の中で嫌な気持ちになったことある? 怖いとか、悲しいとか」
「全然。いつも楽しかったよ。あの夢だって分かると嬉しかった」
「俺も同じ」
もう一度笑ってから、ユウキは続けた。
「ただね。人生に深く関わる相手っていうのは、必ずしも良い相手とは限らないらしい」
「え?」
「悪い例だと、自分の人生を大きく狂わせる相手だったとか、死のきっかけになる相手だったとか。そういう話もある」
「死?」
侑子は目を見開いた。
なんて恐ろしい夢だろう。
「でも、そういう夢は悪夢として現れることが多いって言われてる。夢の中でずっと恐怖や不安を感じていたりね」
「じゃあ、私たちは……?」
「俺たちは違うって、俺は思ってる」
ユウキは迷わず答えた。
「だって俺、あの夢の中ではいつも幸せだったから。ユーコちゃんもそうだったんだよね?」
「うん」
「だったら大丈夫だって、俺は信じてる」
断言ではなかった。
けれど、その声には迷いがなかった。
「だから、昨日は話せなかった。ユーコちゃんを驚かせたくなかったし、俺自身、少し浮かれすぎてる気もしたから」
やがて小さな公園が見えてきた。
「少し座ろうか」
ユウキに誘われ、二人は丸太を横倒しにした遊具に並んで腰を下ろした。
東の空には、少し欠けた月が光っている。
侑子はそれを見上げた。
元の世界で見ていた月と、よく似ていた。
「ユーコちゃんが夢の中で一緒に遊んでた子なんだって分かったとき、やった、って思った」
「そんなに?」
「うん。あの夢はきっと吉夢だったんだって。飛び上がりそうなくらい嬉しかった」
「そんなふうには見えなかった」
「抑えたからね」
ユウキは照れたように笑った。
「それに、少しほっとした」
「ほっとした?」
「出会ったときから、なんだか妙な気がしてたんだ。ユーコちゃんのこと、初めて会った気がしなかった」
侑子は目を瞬いた。
「そうなの?」
「うん。特に、作ることが好きだって話してくれたとき。あのときの笑顔を見て、どこかで会ったことがあるような気がした。でも、どうしても思い出せなかったんだ。だから、同じ夢を見てたって確信できたとき、ああ、そうだったのかって。嬉しかったよ」
公園の街灯は仄暗かったが、今夜は月が明るかった。
その光を受けたユウキの瞳が、強く輝いている。
「この声で」
ユウキは自分の喉に軽く触れた。
「才で変えた誰かの声じゃなくて、自分の歌声だけで認められること。それが俺の夢なんだ」
侑子は黙って聞いていた。
「もしかしたら、その夢を叶えられるのかもしれない。母の言葉から、本当に自由になれるのかもしれない。ユーコちゃんとの夢に、そんな意味があるんじゃないかって……そう思った」
耳に触れる青年の声は、わずかに震えていた。
けれどそれは、先ほどまで過去を語っていたときの震えとは違う。
「たとえ俺が勝手にそう思ってるだけだったとしても、ユーコちゃんが俺の人生にとって大事な人なのは変わらない」
ユウキは笑った。
「そんな人に出会えたんだ。嬉しくないはずがないだろ?」
綺麗に上がっていた口角が、すぐにふっと緩んだ。
「だけどユーコちゃんは、知らない世界に突然放り出されて、途方に暮れてた。そんな君を、自分の夢を叶えるための何かみたいに考えるのが嫌だったんだ」
侑子は顔を上げた。
ユウキは真剣な表情でこちらを見つめていた。
「だから今日、変身館で歌ったあと、ユーコちゃんが泣いてるのを見て、すごく怖かった」
「怖かった?」
「もしあの涙が、俺の声を嫌だと思ったせいだったら」
ユウキは一度、息を止めた。
「……もう、自分の声を信じられなくなる気がした」
侑子は目を見開いた。
「でも違った。ユーコちゃんは認めてくれた。好きだって言ってくれた。俺の本当の歌声を」
ユウキの歌声は、まだ耳の奥に残っていた。
轟くような低く深い声も、高く澄んだ清らかな声も、すぐに思い出すことができる。侑子は強く頷いた。
「歌を聴いて感動して泣いたのなんて、初めてだったんだよ。自分でも驚いた。でもなんで私泣いてるんだろうって思った瞬間に、好きだからだって分かったの。ああ私、この声がたまらなく好きなんだなって」
「ユーコちゃんがそう思ってくれたことが、俺には大事なんだよ」
ユウキは笑っていた。けれど緑色の瞳だけは、真剣なままだ。
「本当の声で歌うことを諦めないって、ようやく決められた」
そして、静かに言った。
「君のおかげだ」




