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青い半魚人  作者: 松下真奈
第一章
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君だから

 ユウキの親指が、侑子の目元にそっと触れた。

 こぼれ落ちそうになっていた涙を、拭い去ったのだ。

「泣かせてごめんね。聞いてくれてありがとう」

 ユウキは少しだけ笑った。

「ユーコちゃん、さっき俺の歌声を褒めてくれたね。好きって言ってくれた。だから知ってもらいたいって思ったんだ」

 侑子は黙ってユウキを見上げた。

「才(マタナ)なしの声で人前で歌うとき、いつも母の声が頭の中に聞こえてくる。『その声を出すな。その声で歌うな。それはお前の声じゃない』って」

 そこで一度、ユウキは言葉を切った。

「違う。俺の本当の声はこの声だって、反抗しながら歌ってる。でも、だんだん分からなくなってくるんだ。自分の本当の声って、どんな声なんだろうって」

 さっきまでステージに響いていた声を、侑子は思い出した。

「だから今日、ユーコちゃんが俺の歌を聞いて、好きだって言ってくれたことが、とても……とても嬉しかった」

「私はただ、本当のことを言ったの。涙だって勝手に出てきたんだよ。それくらいユウキちゃんの声に力があった」

 侑子は言葉を重ねた。

「それにジロウさんもリリーさんも、ユウキちゃんの歌声を認めてたよ。お客さんだって、心から拍手してた」

 だから自信を持ってほしい。

 才で作り出す声には、人々を惹きつける不思議な力がある。

 けれどユウキ自身の声には、一度捕まえた人の心を離さない力がある。

 侑子には、そう思えた。

「……たぶん、君だから特別嬉しかったんだ」

 斜め上から、ユウキの声が降ってきた。

「君が認めてくれたから」

 侑子が見上げると、緑色の瞳がこちらを見つめている。

「ユーコちゃんが、同(・)じ(・)夢(・)の(・)記(・)憶(・)を(・)持(・)っ(・)て(・)る(・)人(・)だから」

「どういうこと?」

 真意をつかめずに問い返すと、ユウキは真剣な眼差しを向けてきた。

「昨日はあの夢のこと、俺たちが出会う予知夢だったのかもって話したけど……この世界では、夢を共有することには、もう少し別の意味があるって言われてるんだ」

「別の意味?」

「初めから話さなくて悪かった。聞いてもらえる?」

 突然、自分にも関わる話になった。

 侑子はユウキの言葉の意味をつかみきれないまま、頷いた。

「昨日ちゃんと教えなかったのは、後ろめたかったから」

 二人はゆっくりと歩き続けていた。

 侑子はもちろん、ユウキにも目的地があるわけではないのだろう。

 夜空に浮かぶ月が、歩く二人を追いかけるようについてくる。

「後ろめたい?」

「昨日のユーコちゃん、知らないことを一度に経験しすぎて、余裕なかっただろ。今日だって、そんなに変わらないかもしれないけど」

 ユウキは困ったように笑った。

「特に、俺と夢の中でずっと会ってたって分かったとき、すごく戸惑ってたみたいだったし。全部話したら、もっと驚かせると思った。それに……そう、やっぱり後ろめたかったんだ。俺にとって、都合のいい意味でもあったから」

 吐息とともに、小さな謝罪が落ちた。

「ごめんね」

 侑子が隣を見上げると、緑色の瞳がまっすぐこちらを見ていた。

「この世界ではね、同じ夢の記憶を共有している人同士は、お互いの人生に深く関わる相手になるって言われてるんだ」

「深く関わる?」

「人生のキーパーソンっていうのかな」

「キーパーソン……」

「ユーコちゃんの世界には、そういう話はない?」

「うん……少なくとも私は知らない」

「そっか」

 ユウキは頷いて、話を続けた。

「よく聞くのは親子やきょうだいかな。夢の中で何度も会ってた子供がいて、自分に子供が生まれて、その子が大きくなったら夢の子と同じだった、とか。夢の中で一緒に遊んでた子が、実はきょうだいだったとか」

 侑子は黙って聞いている。

「俺の周りで聞いたことがあるのは、天職に就くきっかけをくれた恩師と夢の中で会ってた人とか、大病を治してくれた医師を昔から夢で知ってた人とか。恋人や夫婦だったっていう、ロマンチックな話もあるよ」

 ユウキの言葉を頭の中で反芻しながら、侑子は歩いた。

 やがて意味がつながって、少し興奮しながら口を開く。

「……すごいね。もう当たってる」

「え?」

「だってユウキちゃん、もう私の恩人だよ」

 ユウキが目を瞬いた。

「この世界のことが何も分からなくて、怖くて、どうしたらいいのかも分からなくて。もう限界ってところで助けてくれたの、ユウキちゃんだった。ユウキちゃんに会ってから、この世界のことが少しずつ分かるようになってきたし、だんだん怖くなくなってきたんだもん」

 ユウキは優しく笑った。

 侑子の素直な言葉に、張りつめていたものが少しほどけたようだった。

「ユーコちゃんは、俺が出てくる夢の中で嫌な気持ちになったことある? 怖いとか、悲しいとか」

「全然。いつも楽しかったよ。あの夢だって分かると嬉しかった」

「俺も同じ」

 もう一度笑ってから、ユウキは続けた。

「ただね。人生に深く関わる相手っていうのは、必ずしも良い相手とは限らないらしい」

「え?」

「悪い例だと、自分の人生を大きく狂わせる相手だったとか、死のきっかけになる相手だったとか。そういう話もある」

「死?」

 侑子は目を見開いた。

 なんて恐ろしい夢だろう。

「でも、そういう夢は悪夢として現れることが多いって言われてる。夢の中でずっと恐怖や不安を感じていたりね」

「じゃあ、私たちは……?」

「俺たちは違うって、俺は思ってる」

 ユウキは迷わず答えた。

「だって俺、あの夢の中ではいつも幸せだったから。ユーコちゃんもそうだったんだよね?」

「うん」

「だったら大丈夫だって、俺は信じてる」

 断言ではなかった。

 けれど、その声には迷いがなかった。

「だから、昨日は話せなかった。ユーコちゃんを驚かせたくなかったし、俺自身、少し浮かれすぎてる気もしたから」

 やがて小さな公園が見えてきた。

「少し座ろうか」

 ユウキに誘われ、二人は丸太を横倒しにした遊具に並んで腰を下ろした。

 東の空には、少し欠けた月が光っている。

 侑子はそれを見上げた。

 元の世界で見ていた月と、よく似ていた。

「ユーコちゃんが夢の中で一緒に遊んでた子なんだって分かったとき、やった、って思った」

「そんなに?」

「うん。あの夢はきっと吉夢だったんだって。飛び上がりそうなくらい嬉しかった」

「そんなふうには見えなかった」

「抑えたからね」

 ユウキは照れたように笑った。

「それに、少しほっとした」

「ほっとした?」

「出会ったときから、なんだか妙な気がしてたんだ。ユーコちゃんのこと、初めて会った気がしなかった」

 侑子は目を瞬いた。

「そうなの?」

「うん。特に、作ることが好きだって話してくれたとき。あのときの笑顔を見て、どこかで会ったことがあるような気がした。でも、どうしても思い出せなかったんだ。だから、同じ夢を見てたって確信できたとき、ああ、そうだったのかって。嬉しかったよ」

 公園の街灯は仄暗かったが、今夜は月が明るかった。

 その光を受けたユウキの瞳が、強く輝いている。

「この声で」

 ユウキは自分の喉に軽く触れた。

「才で変えた誰かの声じゃなくて、自分の歌声だけで認められること。それが俺の夢なんだ」

 侑子は黙って聞いていた。

「もしかしたら、その夢を叶えられるのかもしれない。母の言葉から、本当に自由になれるのかもしれない。ユーコちゃんとの夢に、そんな意味があるんじゃないかって……そう思った」

 耳に触れる青年の声は、わずかに震えていた。

 けれどそれは、先ほどまで過去を語っていたときの震えとは違う。

「たとえ俺が勝手にそう思ってるだけだったとしても、ユーコちゃんが俺の人生にとって大事な人なのは変わらない」

 ユウキは笑った。

「そんな人に出会えたんだ。嬉しくないはずがないだろ?」

 綺麗に上がっていた口角が、すぐにふっと緩んだ。

「だけどユーコちゃんは、知らない世界に突然放り出されて、途方に暮れてた。そんな君を、自分の夢を叶えるための何かみたいに考えるのが嫌だったんだ」

 侑子は顔を上げた。

 ユウキは真剣な表情でこちらを見つめていた。

「だから今日、変身館で歌ったあと、ユーコちゃんが泣いてるのを見て、すごく怖かった」

「怖かった?」

「もしあの涙が、俺の声を嫌だと思ったせいだったら」

 ユウキは一度、息を止めた。

「……もう、自分の声を信じられなくなる気がした」

 侑子は目を見開いた。

「でも違った。ユーコちゃんは認めてくれた。好きだって言ってくれた。俺の本当の歌声を」

 ユウキの歌声は、まだ耳の奥に残っていた。

 轟くような低く深い声も、高く澄んだ清らかな声も、すぐに思い出すことができる。侑子は強く頷いた。

「歌を聴いて感動して泣いたのなんて、初めてだったんだよ。自分でも驚いた。でもなんで私泣いてるんだろうって思った瞬間に、好きだからだって分かったの。ああ私、この声がたまらなく好きなんだなって」

「ユーコちゃんがそう思ってくれたことが、俺には大事なんだよ」

 ユウキは笑っていた。けれど緑色の瞳だけは、真剣なままだ。

「本当の声で歌うことを諦めないって、ようやく決められた」

 そして、静かに言った。

「君のおかげだ」

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