母と娘と息子
「母は娘が欲しかったんだ」
帰り道。
街灯に照らされた道を、二人並んで歩いていた。
ユウキは唐突に、自分の過去について話し始めた。
「ユウキちゃんのお母さん?」
「そう。俺を産んだ実母ね。俺が生まれたとき、父はいなかった。母が妊娠してるあいだに、どこかに消えちゃったんだって。とんでもない奴だね」
突然の重い話題に、侑子は言葉を失った。
けれどユウキは、わずかに笑っていた。
「昨日ちょっとだけ話したね。もう少し詳しく、この話してもいい? ……ユーコちゃんに聞いてほしくなったんだ」
「聞くことしかできないと思うけど、いくらでもどうぞ」
侑子は何度も頷いた。
今の自分には、それくらいのことしかできない気がした。
そんな侑子を見て、ユウキはふふっと小さく笑い、そのまま話を続けた。
「母は、何でも自分の思い描いた通りにならないと気が済まない人だった。結婚相手も、その人と作る家庭も、きっと全部、頭の中に理想の形があったんだと思う」
二人の歩幅は、とてもゆっくりだった。
商店街を抜けると、人通りもまばらになっていく。
「その理想の一つが、かわいい娘を持つこと。フリフリの服を着せて、髪を飾って、自分のそばに置いておきたかったんだろうね」
ユウキは少し間を置いた。
「でも父はいなくなって、次に生まれてきたのは、母が望んでた娘じゃなくて息子だった」
自分自身のことなのに、どこか他人の話でもするような口調だった。
「母はがっかりしたみたい。でも俺、赤ん坊の頃はまあまあかわいい顔してたらしくてさ。だったら女の子として育てればいいって、そう思ったみたいなんだ」
侑子は隣を歩くユウキを見上げた。「なんじゃそりゃって話だよなあ」と言いながら、彼はまだうっすらと笑っている。
昨日は、今が充実しているから過去なんて気にならないと言っていた。
けれど、本当にそうなのだろうか。
笑っているのに、その表情には薄い影が差しているように見えた。
「俺が言葉を喋り始めた頃、母は俺にあの才があることに気づいた。ある日、俺は才を使って人形遊びをしてたらしいんだ。ドールハウスに女の子の人形を並べて、それぞれ違う声を当てて遊んでた」
そこでユウキは、少しだけ目を細めた。
「あのときの母の嬉しそうな顔、よく覚えてるんだ」
侑子は黙って続きを待った。
「母は俺にこう言った。『今日から女の子の声で話して。その青いスカートの人形の声がいいわ。その女の子の声で話すのよ』って」
「そんな……」
侑子は思わず足を止めた。
何か言おうとしたが、言葉が見つからない。歪みそうになった口元を、きゅっと引き結んだ。
「でも、その頃の俺は嬉しかったんだよ」
ユウキも足を止めた。
「母を喜ばせられたことが、ただ嬉しかった。それ以外、何も考えてなかった。たぶん小さな子供って、そんなものなんだ。母親との関係が世界のほとんど全部で、自分と母親の境目だって、まだよく分からない」
静かな道の片隅で、二人は向かい合って立っていた。
「だから母が喜べば、俺も嬉しかった。疑問なんて持たずに、言われた通り、青いスカートの人形の声で母と話すようになった」
ユウキは再び歩き始めた。
「本当の自分の声が分からなくなるくらい、才を使って女の子の声で生活してた。でも当然、使い続ければ魔力は減る。底をつけば、回復するまで声を変えられない」
そこで初めて、ユウキの表情から笑みが消えた。
「そうすると母は、ひどく不機嫌になった。口を利いてくれなくなるし、それでも俺がしつこく話しかけると、叩かれた」
言葉を切り、ユウキは侑子を見下ろした。
「まだ話してもいい?」
侑子は黙って頷いた。
「歩こう」
また、二人で歩き始める。
「そんな俺たち親子を心配してくれてたのが、ジロウさんなんだ。当時、ジロウさんが大家をしてたアパートに、俺と母は住んでた。母が理不尽なことで俺を怒ってると、いつも庇ってくれた」
先ほどまでより、ユウキの声が少し柔らかくなった。
「魔力を使い切って、才が使えなくなったときの俺の声を聞いて、『いい声を持ってるな』って褒めてくれたんだ」
侑子は、ついさっきステージで聞いた声を思い出した。
地を揺らすような低い声。
高く澄んだ声。
あれほど自由に行き来していた、ユウキ自身の声。
「母が留守のときには、内緒で男の子の服を着せてくれたり、母が禁止してた男の子向けの絵本やおもちゃで一緒に遊んでくれたりしてさ……あの時間、とっても楽しかったんだ」
ユウキは懐かしそうに笑った。
「それで、だんだん分かってきた。俺は母が言うような女の子じゃない。男の子なんだって」
二人は黙々と歩いた。
月が空に浮かんでいる。夏の夜の湿った空気が、肌にまとわりついた。
「スカートやワンピースを着ることに違和感を覚えるようになった。長く伸ばした髪をリボンで飾るのも、嫌になった。一緒に遊んでたほかの子供たちと、自分は明らかに違ってたから」
ユウキは前を向いたまま話し続けた。
「でも母に言えば絶対に怒られる。だからずっと我慢してた。だけどある日、母が新しく買ってきた女の子の下着を着ろって言ったとき、もう我慢できなくなった」
ユウキの声が、わずかに低くなった。
「才で声を変えることも忘れて、『着たくない。気持ち悪い』って拒否したんだ」
ジロウの屋敷の前まで来た。
二人は一度足を止めたが、ユウキは侑子の手を引いた。
まだ話は終わっていないらしい。
屋敷の前を通り過ぎ、そのまま歩き続ける。
「顔をひっぱたかれた」
淡々とした声だった。
「『その声を出すな! 私に息子はいない!』って怒鳴られた。同じようなことは、それまでにも何度も言われてた。でも、あの日は我慢できなかった」
街灯の下を通り過ぎるたび、二人の影が伸びては縮んだ。
「それで、裸のまま家を飛び出した。そのままジロウさんの家に逃げ込んだんだ」
ユウキが小さく笑った。
「ジロウさん、すごくびっくりしてたな。でもすぐに『大丈夫、大丈夫』って。男の子の下着と服を着せて、抱きしめてくれた」
その笑みが、先ほどまでとは違って見えた。
「いつ俺が来てもいいように、ちゃんと用意してくれてたんだ。俺が気に入ってたヒーローもののキャラクターがプリントしてあるやつ。すごく嬉しかった」
ユウキは少し照れたように笑った。
「ずっとここにいる。ここにいたいって、大泣きしながら駄々こねた」
そこまで話して、ようやくユウキの表情に穏やかな笑みが戻った。
緑色の瞳が街灯を映して、静かに光っている。
「それから俺は、正式にジロウさんの家に引き取られることになった。母はこの街を出ていった。今は新しい家庭を持ってるって話は聞いたけど、詳しくは知らない」




