幻聴
十九時過ぎから始まった演奏だった。それは猛スピードで八曲を演奏し、二十時には終わっていた。
マイクから手を離したユウキとピアノ椅子から降りたリリーは、その瞬間に演奏者の仮面を外したようだ。ステージ上から観客たちと楽しげに言葉を交わし始めたが、侑子にはよく分からなかった。ただ、「ああ話し声はやはり普通の男の人だな」と思っただけだ。ついさっきまでこの空間に響き渡っていたユウキの嵐のような歌声が、ずっと耳の中で渦を巻いて残っていた。
侑子がステージから目を逸らせたのは、ジロウに肩をぽんと叩かれたからだった。
「おい、どうした」
はっとして振り向いた侑子を見て、ジロウは唖然とした。
「どうした? 爆音すぎたか?」
「違います。す、すごくて」
言いながらポロリと涙が落ちた。侑子は自分が涙を溜めていた事実に驚いたが、ああそうだよな。涙くらい落ちるよな。と納得もしていた。
「私あんなの、初めて見ました……」
「そんなに感動した? けどまぁ確かに凄かったよ。ユウキの歌は勢いがあるし、あいつの書いた曲は自分の声をよく活かす。今日はリリーのピアノってのも良かった。ユーコちゃんは初見だものな。そんなに良かったんなら、本人たちにも伝えてあげな。喜ぶぞ」
侑子の様子に笑いながら、ジロウはとても嬉しそうだった。
◇◇◇
演奏を終え、リリーと共に観客たちに挨拶をする。
本来この時間はリリー単独のステージの予定だったので、彼女目当ての客が多かったはずだ。しかしそんな観客たちは、ユウキにも好意的な歓声と拍手を惜しみなく送っている。
ユウキは安堵の息を吐き出し、感謝の言葉を口にした。額にじわりと湧き出した汗がこぼれ落ちていくのが分かった。
やはり才を使わず、自分の声だけで客を前に歌うのは緊張する。客達は本来の自分の歌声を受け入れてくれるのか。彼らの琴線に触れる歌を表現できているのか。それだけの実力が、そもそも自分に備わっているのだろうか。才を使うときには気にもならない些細なことが、大きな不安と自分への不信となり、歌っている間常にユウキを苦しませるのだ。喉を締め付けられ、声が出せなくなる幻想を振り切るように、歌っている時はいつだって必死だった。
――大丈夫。ほら、ちゃんと笑ってる
ホールを満席にする観客たちの表情を確認しながら、ユウキは自分に言い聞かせた。
――大丈夫、笑っている。皆笑顔だ
『地の声を使わないで。私の前では、いつも女の子の声を出しなさい』
ふと、そんな確信を無に返すような言葉が、不機嫌な女の声とともに脳裏に蘇った。
『出来るでしょう? あなたにはその才があるのだから。がっかりさせないでちょうだい』
――もう忘れてしまえ。忘れていいんだ
念じれば念じるほど、どうやら逆効果だったその記憶。
客たちの前ではあくまで平静を装い、笑顔で対応した。
しかしいつもだ。いつもステージで才を使わずに自分の声だけで歌うと、必ずあの女の声が聞こえてくる。
――幻聴だ。消えてしまえ。幻聴だ
隣のリリーが笑顔でこちらに話しかけている。すぐ隣にいるのは彼女のはずなのに、なぜかそんなリリーの声のほうが遠く感じた。
「ユウキ、やっぱりあんたのステージ最高よ! 私も気持ちよかった!」
『元の声をだしちゃ駄目よ』
「今度は他の楽器も入れて歌おうよ。バンド形式にしてさ」
『才で声を変えて』
「ね、皆ももっとユウキの歌聴きたいでしょ? 絶対見に来てね」
『男の子の声なんて、聴きたくないの』
――消えろ。消えろ。消えろ
『その声で話しかけないで! 歌わないで!』
――消えろ!
「あっ。ユーコちゃん! あらら?」
侑子の名と先程までと調子の違うリリーの声音に、ユウキはようやく幻聴を振り切った。
リリーに顔を向けると、彼女が困惑したようにホールの一角を指さしながら見返してくる。
「どうしたのかしら。泣いてるみたい」
その言葉に、ユウキは返事すらそこそこにステージからホールへ飛び降りていた。
ガラスの鱗がシャランと鳴る音が、耳に届いた。
◆◆◆
「ユーコちゃん……?」
不安げな彼のその声に、侑子は顔を上げた。眼の前には沈痛な表情を浮かべるユウキが立っている。
「ユウキちゃん……!」
侑子は握りしめたハンカチで、ぐいと顔を拭くと、目を見開いてこう告げたのだった。
「凄かった! すごく、すごく良かった! ユウキちゃんの歌声、とっても良かったー‼︎」
興奮しているのか、顔は赤く上気している。黒縁メガネは外してハンカチとは反対の手に握りしめられていた。侑子の焦げ茶色の瞳は、潤んできらきら輝いている。
ユウキはその瞳を見て、彼女が悲しくて涙しているのではないと察した。
「あぁ……もっと気の利いた言葉が出てくればいいのになぁ。すごいとか良いとか、そんな陳腐な感想しか言えないなんて」
小声でそうつぶやいて、侑子はすぐにまたユウキを見つめてくる。
「ユウキちゃんの歌、とっても好きだよ。ありがとう、聴かせてくれて」
今度は顔いっぱいの笑顔だった。
ユウキは返すべき言葉を咄嗟に思いつけず、ただ目を瞠って少女の笑顔を見つめ返していた。




