出立
「お世話になりました」
出立は日の出前だった。朝露が草木を濡らす匂いが辺りに立ち込めている。
侑子はメムの長ランに、深々と頭を下げていた。
「頭をお上げなさいな、ユウコさん」
ランの声は柔らかく、湿った朝靄の中で揺れるランタンの灯りによく似ていた。
「生涯かけて感謝を伝えなければならないのは、私たちのほうです」
ランの隣で頷くキノルを見て、侑子は首を振った。
「私はただ来ただけです。それに本当に役に立てるのか分からない。正直、国の危機を救えるだなんて、そんなことが自分にできるとは思えない……」
本音だった。
来訪者がこの世界へやって来ることには、何かしらの意味があるらしい。けれど少なくとも、人格者だから選ばれるわけではないのだろう。
侑子は自覚している。
――私は自分勝手な感情で動いてきた、無責任な人間でしかない
「気負うなよ」
言葉を挟んだのはヤヒコだった。柔らかな微笑を浮かべている。
「期待されてるって意識する必要はない。ユウコはただ、自分のやりたいようにこの世界で立ち回ればいいんだ」
(そのために私たちがついてる。ユウコが困ったら、いつでもメムが助ける)
タブレット上の緑の文字が仄かに光り、侑子の顔を照らした。コルに握られていた右手に、ぎゅっと力が込められたのが分かった。
「ヤチヨの言葉の通りだね。メムは導く民。いつかまた会える時も来るかもしれない。どうか元気で。あなたが笑顔でいられるように、いつも祈っていますよ」
ランは侑子の首に、藍染めの手ぬぐいを掛けた。
「端にメムの文様を刺繍してあるの。旅の無事と幸運を運ぶまじないの一種だ。私の趣味のようなものだよ。持って行って。あなたの旅の友として」
「ありがとうございます」
侑子は藍色の布を指先でそっと撫でた。
今の侑子は、ここへ来た時とはすっかり違う格好をしていた。デートに着ていた服と靴では、これから先の山道を歩き続けるには心許ない。そこでキノルたちが、動きやすいシャツと丈夫なパンツ、防寒用の上着、それに侑子の足に合う歩きやすい靴まで用意してくれたのだ。どれもメムの女性たちが使っていたものだったが、まだ十分に着られる。
元の服は洗って畳み、靴と一緒にザックへ収めてある。トコヨノクニで着ていた服を、ここへ置いていく気にはなれなかった。
微笑んだ侑子に、彼女を囲むように立っていた子供たちから嬉しそうな声が漏れた。
「ねえユウコ。最後にもう一回だけ、一緒に歌ってよ」
スサの申し出に、侑子は迷いなく頷いた。
夜明け前の小さな里に、鳥の鳴き声よりも楽しげな歌声がこだました。
◆◆◆
メム人との道中は、侑子にとって大変楽しいものだった。急勾配や極端に荒れた道を進むのは難儀だが、そうでもない場所を歩くことには段々慣れてきた。進みながら会話も弾む。余裕があれば歌うこともできた。まるで遠足のようだと侑子は思った。
休憩のたびにヤチヨが呼び寄せる獣や鳥たちに触れるのも楽しかったし、家族やメム人のことを誇らしげに話すコルも微笑ましかった。
「ユウコもメムと一緒に暮らせばいいのに」
絶対楽しいよ、と何度も誘いをかける少年の言葉が嬉しかった。
「もしも王都で知り合いが見つからなかったら、その時は一緒に連れて行ってもらおうかな」
侑子の言葉にうんうんと顔を輝かせる息子を、ヤヒコはそのたびに「こら」と諫めたものだ。
「嫌なほうに期待をかけるもんじゃない。流れが乗っちまうだろうが」
こんな時ヤチヨは、決まってタブレットにこう書く。
(会えるよ。ユウコはユウキちゃんに絶対会える)
そして画面の隅に、小さく『言霊』と付け足すのだ。
言霊については、侑子がメムの人々に教えたわけではなかった。彼らも昔から知っていた。それは侑子が驚いたことの一つだった。
ユウキをはじめ、侑子がこれまで出会ったヒノクニの人々で、言霊のことを知る人はいなかった。説明すると皆、『素敵なおまじないだね』などと感想を口にしたものだ。
「ありがとう。コル、大丈夫だよ。コルたちと一緒に暮らさなくたって、いつでも会えるんでしょう? メムは移動が上手なんだから。また会いに来てよ。これも言霊にしよう。私たちはいつでもまた、会える」
メムの少年は嬉しそうに頷き、侑子の手を握った。




