痕
(その痕、どうしたの?)
ヤチヨの視線が注がれる先と、その文を見て、侑子は「ああ」と呟いた。
薄衣はすっかり水分を含んで透けていた。侑子の肌に点々と散る、小さな赤黒い痣。首筋から鎖骨、うなじにもくっきりと。まるで刻印されたような痛々しい内出血の跡が、ヤチヨの前に曝け出されていたのだ。
「傷じゃないよ。キスマークだよ」
首を傾げたヤチヨは怪訝な表情を浮かべている。どうやら分かっていないようだった。
――ずるいな、私は
裕貴について、話していなかった。
ユウキのことを恋人だと説明していたにもかかわらず、数日前まで一緒にいたもう一人の恋人の存在は隠していたのだ。自分に親切にしてくれるメム人から軽蔑されたくないがための、保身だった。
「日本にね……トコヨノクニに、付き合ってる人……恋人がいたんだ。こっちに来る直前、ヤチヨちゃんに見つけてもらう少し前まで、その人と一緒にいたの。手を繋いでた。彼が通ったドアを、私は通れなかったの。同じ場所に出るはずだったけど、私はこの世界に来ていたから」
ヤチヨは相槌を打ちながら、侑子の説明を飲み込んでいるようだった。どういう感情からの表情なのか、眉を寄せたり唇を歪ませたり、複雑な変化が短い間に彼女の顔の上で繰り広げられた。
「この痕、口で強く吸われると、こんなふうに皮膚の上に残るんだよ。口でつけられた内出血ってことなんだけど……分かるかな」
説明しながら、恥ずかしさは全く感じなかった。
せっかく打ち解けて友人になった人から軽蔑されるだろうという、嫌な予感があったからだ。むしろどんどん冷静になっていく。
(痛くない?)
ヤチヨの片方の手が侑子の鎖骨へ伸びた。くっきりと残る痕の一つを、彼女の白い指が優しく撫でる。
「痛くないよ」
(それなら、よかった)
ヤチヨは笑顔で頷いた。
その顔が少しの冷たさも含まないものだったので、侑子はほっとしたような、余計に不安になるような妙な気分に陥った。
「ねえ、ヤチヨちゃん」
言い訳しようと呼んだのかもしれない。
だからヤチヨが遮るようにタブレットを見せてきてくれて良かったのだと侑子はその数秒後に振り返った。言い訳なんて、できる立場ではないのだ。
(そろそろ上がろう。この温泉、薬効がつよい。疲れや怪我に効く。でも疲れすぎてると、すごく眠くなる)
「そうなんだ。……ああ、確かに」
湯は浸かった肌が見えなくなるほど白濁していて、少しもったりとしている。匂いもどこか甘く、薬っぽい。薬効があるという説明には納得できた。
(深く寝たら、運ばなきゃいけなくなる)
「それはダメだね。運ばれるの恥ずかしいし。ヤチヨちゃん……も…………たい、へん……」
視界がぐらりと揺れたような気がして、侑子はそれが眠りに落ちる一歩手前だと分かった。
徹夜した翌日の授業、特に昼下がりの退屈な授業で、たまにこんなふうにカクンと頭が落ちてしまうことがあった。
――いけない
両手で頬をパチンと叩くと、わずかに睡魔が後退した。なんとか立ち上がり、ヤチヨに腕を貸してもらいながら、侑子は湯治場からテントまで戻ることができた。
頭はぼうっとして、意識の半分近くを白濁した湯の中に忘れてきてしまった気がした。
◆◆◆
「こいつは、また。随分と執念深くつけられたな」
下世話な含みを持ったその言葉の直後、バシンという物騒な音が鳴った。
ヤヒコの「いてえ」という非難めいた声が続く。
「お前が呼んだから、話を聞いてやってたんだろうが。変な痣があったっていうから」
ヤチヨはタブレットに書いた文字と、空白に描いた絵を見返した。拙い絵は人の裸体を描いたもので、先ほど侑子の身体にあった痣の大体の位置と数を示していた。
侑子が語ったキスマークというものが、彼女の説明通りのものなのか確信が持てずにいたのだった。
あんなにも見るからに痛そうなのに、口づけで恋人からつけてもらうものとは本当なのだろうか。侑子は自分に心配をかけまいと、あえてそんな嘘をついただけなのではないか。本当は何か怖い目に遭ったのではないか。
ヤチヨは気を揉んでいたのだった。
(まじまじ見すぎ。ヘンタイ)
「お前な。そんな下手な絵を見て、変な気起こるわけないだろ」
非難の視線に反論したヤヒコの背中に、ヤチヨはもう一撃だけ平手打ちを食らわせた。それでようやく溜飲を下げることを決めたらしい。一つ頷いて、改めてタブレットに文字を書く。
(怪我じゃない?)
「怪我じゃない。お前はまだ夫がいないからな。知らなくても仕方ないだろうよ。この痣は、恋人に愛された印みたいなもんだ。口づけでつけるんだよ。時間が経てば薄くなって消えるさ」
妹にこんな説明させるなんて、どんな嫌がらせだよとヤヒコは締めくくりにぼやいた。
一方のヤチヨは兄の説明に目を丸めていた。侑子と同じ説明だった。ということは、侑子は真実を語っていたのだ。
(恋人?)
妹の疑問に、ヤヒコはふとテントの中に見える侑子の寝顔へ目をやった。深く眠っているようだった。連日の山歩きで、疲れは相当溜まっていたはずだ。
「いたんだろう、トコヨノクニに。気の毒にな。家族や恋人と別れて、ユウコはここにいる」
言葉にすると、自分たちが侑子に強いている行為が改めて理不尽に思えてくる。ヤヒコは深く溜息をついた。
(ユウコの恋人、王都にもいるよね?)
「歌歌いの男だったな」
七年前の侑子の初めての来訪から今に至るまでの話は、ヤヒコもすでに把握していた。ユウキという男との奇妙な文通のこと、そして彼との関係についても、侑子は隠すことなく語ったのだ。
「会えない期間が六年、後ろの二年は完全に繋がりが絶えていた。この先会える希望なんてないと考えるのが自然だったろう」
寝息すら聞こえない深い眠りに落ちた侑子の顔は、まるで蝋人形のようだった。心を失くした空洞を見ているような気分になりながら、ヤヒコは妹に言い聞かせる。
「たとえその歌歌いのことを愛したままだったとしても、触れ合える恋人を求めるのは不思議じゃないさ。この先会える希望のない相手だけを一生想い続けろなんて、誰が言える? 部外者がどうこう口出しできることじゃない」
眉をひそめる表情は、腑に落ちていないという訴えだろう。ヤチヨは話せない代わりに、表情で多くの感情を伝えることに長けていた。そしてヤヒコは、そんな妹の気持ちを読み取ることが誰よりも得意だった。
「納得いかない?」
その問いには首を横に振ったが、ヤチヨは難しい表情を浮かべたままだった。
「心の機微ってのは、理屈じゃ説明できないものだ。チヨ、目の前でユウコを見ていたほうが、俺のこんな説明聞いてるよりも理解できると思うぞ。――ついて来いよ。ユウコとその歌歌いの顛末、俺たちで見届けてやろうぜ」
(ユウコを王都へ送るの?)
兄の言葉に新たな驚き顔を作って、ヤチヨは文字を綴った。
(次のメムの拠点へ、一緒に行くと思ってた)
「ランは元々そのつもりだったみたいだけど、ユウコの話を聞いたら気が変わったみたいだな。王都の知り合いの元まで送り届けてやるべきだろうって。そもそもユウコは、王都に戻りたがっていただろう?」
ヤヒコの脳裏に、子供たちと輪を作って歌っていた侑子の姿が浮かんだ。顔いっぱいの笑顔は無理して作ったものではなく、広がる歌声まで楽しげに弾んでいた。
「来訪者にこの国を愛してもらいたいなら、まず俺たちが来訪者を大事にしなきゃ筋が通らないってさ」
ヤヒコは小さく息を吐いた。
「ユウコが幸せでいることが、巡り巡って天膜の力にもなる。……結局そこに俺たちの都合が混じるのが嫌になるけど、俺たちはこの理の上で生きていくしかない。それでひとまずユウコが笑えるのなら……乗っかってもいいだろう?」
兄の顔に一片の哀しみを見つけて、ヤチヨは口をつぐんだ。――出てくる言葉はないのだが。
彼女はただ頷いた。




