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七月二十四日

――暑い。既に暑い


 侑子は軽く唸りながら、ベッドから起き上がった。

 六時にセットしてある目覚まし時計は、まだ鳴っていなかった。時刻を確認すると五時半だ。

 

 こんなに早い時間から既に暑いのだ。日中はどれだけの酷暑になるのだろう。

 うーんと大きく伸びをして立ち上がる。



◆◆◆



「お兄ちゃん、朝だよー」


 兄の部屋はすぐ隣だ。ドアをノックして、返事も待たずにすぐに開ける。どうせノックと声かけくらいでは起きない。朔也(さくや)は朝が弱いのだ。


「ねえ。朝だよ。あ! エアコンついてるのに窓開いてるし。信じられない」

「うう……もうちょっと……」

「今日の朝ごはん当番、お兄ちゃんだよ。私汗かいちゃったから、シャワーあびてくるね」


 揺り起こしてやろうとした手で慌てて窓を閉めると、問答無用でエアコンをオフにした。パソコンの横に置きっぱなしのビール缶を持って、兄の部屋を後にする。


 リビングのカーテンを開け、エアコンをつけた。やはり既に暑かった。籠ったような湿気が、汗ばんだ肌に不快にまとわりつく。

 今年の梅雨は記録的に短く、本格的な暑さの訪れも早かったのだ。

例年なら八月上旬に見られる最高気温の数字が、六月末から連日叩き出されていた。


 七月二十日。

 一学期最後の日だった。




◆◆◆




 ぬるい温度のシャワーが素肌を濡らし、べっとりと肌に張り付いた汗を追いやっていく。その感覚が心地良い。無意識に呼吸が吐き出されていった。

 照明を付けずに浴室を使うのが、侑子は好きだった。朝だと尚のこと良い。まだ夜の気配が消えきっていないほの暗さの中に、朝の透き通った空気が混ざり合う。まだ夢の溶け残りが揺蕩っているようだ。大好きな夢の残像の中に、新しい一日の始まりを感じる。


――ああ、気持ちいいな


 思わず鼻歌でも口ずさみそうになった。しかし平日の朝なので、そんなにゆっくりはしていられない。


 名残惜しさを感じつつ身体を拭いて制服に身を包んだ。

 白地に紺色の襟がついた、よくあるセーラー服だ。胸元には一年生の印である、彩度の低い赤いリボンを結ぶ。

 侑子はこのリボンを見るたびに、乾いた血のような色だなと思う。二年生は青で三年生は緑色なのだが、どちらももう少し明るく瑞々しく見える。一年生のこの色だけ大変地味なので、女子生徒からは好ましく思われていない。しかし皆入学してしばらく経った頃には、不満も言わなくなる。どうせ二年生に進級したら、リボンの色はすぐに変わるのだ。


「ゆうこぉー。茹で玉子でいい?」


 キッチンから朔也の声が聞こえた。侑子が身支度を整えている間に、すっかり目は覚めたようである。

 肩下まで伸びた黒髪を、慣れた手つきで三つ編みにしながら、「私半熟がいいなぁ」と返事をした。



◆◆◆



「明日から中学は夏休みか。いいなぁ学生は」


 どばどばと音が聞こえそうな勢いで、レタスはソースまみれになっていく。


「お兄ちゃんかけすぎだよ。ふふ。いいでしょう、長い夏休み。何しようかなぁ」


 なーんにも予定ないなぁと、侑子は頬杖をついた。

 部活には入っていないが、仲が良いといえる友人たちは皆部活だ。

 年の離れた朔也は会社員。夏休みは盆を挟んだ一週間弱だけだろう。そんな貴重な休みを、妹に全て使うはずはない。


「今からでも何か部活入れば」

「入りたいと思わないもん」


 本心だった。侑子の通う公立中学に、彼女の興味を引く部活はなかった。

 運動全般が苦手だ。その上内気な性格の為、新しい集団の中に入っていくという行為自体が億劫だった。

 中学に入学した当初も、新しいクラスや友人たちに馴染むのに、人一倍時間を要したのだ。同じ小学校からの親しい友人たちが、たまたま同じクラスだったことを、見えない神にどれだけ感謝したことだろう。


「合唱部とか絶対良いと思うのに……まぁお前は入らないよな。小学校の時みたいに、手芸クラブがあればよかったのにな」

「いいの。手芸は家でもできるもん。合唱部ってさ、練習の時一人ずつ歌わせるんだって。絶対無理」


 何度も繰り返した会話だった。その度に朔也は、心配そうな表情を向けてくる。干支一回り以上歳の違う兄にとって、社交的で友人作りの上手い自分と正反対の性質の妹は、心配の種でもあった。

 せめて両親がもっと家に長くいてくれたら、接し方も普通の兄らしかったのかもしれないが。すっかり保護者のようになっている。


「お父さん達、お盆は帰ってくるのかな」

「母さんは帰ってくると思うけど、まだ連絡こないな。父さんは来ないだろ」


 後半は諦めすら滲ませない、さっぱりした口調だった。

 もう何年もこんな感じなのだ。朔也と侑子の両親は、普通の家庭の父母とはちょっと違っていた。家にいる時間が大変短いのだ。

 父の幹夫は物理学者で、海外の大学で長年研究を続けている。帰ってくるのは、年に一度あればいい方だ。母の依子はそんな父の付き添いだ。それでも朔也が社会人になるまでは、母だけは日本にずっと残っていたのだが、息子が就職した途端に頻繁に海外の父のもとへ通うようになった。


 その為、この家――五十嵐家はほぼ兄妹の二人暮らしだった。

 二十代半ばの、社会人としてはまだまだ半人前の兄。そして中学生になったばかりの内向的な妹。

 この二人でなんとか家庭を回しているのは、近所に母の実家があったからだろう。

 祖父母は既にいないその家には、母の弟家族が暮らしている。彼らが何かと世話をして、気にかけてくれているのだった。


「そうだ。俺今日遅くなるから、夕飯は賢ちゃんちで食わせてもらえな。後で俺からも連絡しとくから」


 賢ちゃんというのは依子の弟、兄妹の叔父にあたる高橋賢一のことだ。

 五十代の依子より大分年若く、まだ三十代だ。朔也にとっては叔父というよりも兄のような存在で、侑子にとってもそれは同じだった。

 賢一には侑子と歳の近い三人の子供もいて、従兄弟たちとの時間も、侑子は気負わずに過ごせて好きだった。そんな訳で侑子は、朔也がいない時間は賢一の家で過ごすことのほうが多いのだった。


「分かった。学校終わったら直行しようかな」


 賢一の家は隣の学区だったが、ちょうど学区と学区の境目に位置する侑子の自宅からは、さほど離れていない。脇道を選んでいけば、かかる時間もそんなに変わらなかった。


「通知表ちゃんと見せろよ」

「見せられないような成績とってないです!」

「じゃあそろそろ行くわ」

「行ってらっしゃい」

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