対
円陣を組むテントのうち、最も小さな一張りへ侑子は招き入れられた。
「ラン、連れてきたよ」
入り口の布は左右に巻き上げられ、紐で留められている。
ヤヒコと並んで中へ足を踏み入れた侑子は、思わず辺りを見回した。
外から見れば簡素な一張りのテントだったが、中には思いのほか濃い生活の気配があった。地面には厚手の敷物が何枚も重ねられ、その上に幾何学模様の織物が広げられている。壁際には布張りの収納箱や籠が並び、畳まれた毛布や衣類、食器などが収められていた。どれも持ち運びを前提にしているらしく、大きな家具は一つもない。
代わりに目につくのは、折り畳み式のテーブルや椅子、金属製のランタン、保冷箱といった見慣れたキャンプ用品だった。その隣には使い込まれた木の器や編み籠、色鮮やかな織物が並んでいる。古いものと新しいものが、不思議なくらい自然に同居していた。
中央には小さなストーブが据えられ、その上で薬缶が湯気を立てている。煙突だけが天井の穴から外へ伸びていた。
侑子には、それが仮の宿には見えなかった。一年も経たずに畳まれ、別の土地へ運ばれていく。それでもここにいる間は、確かに誰かの家なのだ。
「ご苦労さま。そちらがユウコさん」
声の方を見ると、一人の女性がストーブのそばで急須を手に振り返ったところだった。
「よくいらっしゃいました」
なるほど、長老という呼び方は彼女にそぐわない。
侑子に会釈を返したその人は、長身の女性だった。アーモンド型の凛々しい目元と、口元のほくろが印象的な、壮年期半ばと思わせる外見だった。背筋がぴんと伸び、高い位置で一つに結んだ黒髪が美しいせいか若々しく見える。少なくとも侑子の両親よりは下の世代だろう。
「どうぞ、楽にして。疲れたでしょう。この辺の山は結構険しいから。お茶でも飲みながら、寛いでお話ししよう」
麻のシャツとジーンズという格好も、このテントの中によく馴染んでいた。
侑子は勧められるまま、ローテーブルの前に置かれた厚いクッションへ腰を下ろした。
ランがストーブの薬缶から急須へ湯を注ぐ。ほどなく目の前に置かれたカップから、麦茶に似た香ばしい匂いが立ち上った。
「さあ、何から話しましょうかね。私の名前はラン。もう聞いてるかな」
「はい」
小ぶりの菓子器には、小さなチョコレートが入っていた。それを勧めながら、ランの視線がしばらく侑子の顔の上を彷徨う。
「可愛らしいお嬢さんだこと」
「いえ」
「あら、謙遜しなくていいのに。可愛いよ。王都に、親しい人がいたのでしょう?」
侑子は顔を上げた。
ユウキとの文通の話まで、もう把握しているのだろうか。
「ヤチヨから聞いているよ。……私も上の世代から、この世の道理や歴史をいろいろ教わってきた。けれど、こんなことは初めて」
ランの視線が侑子の左腕へ移った。銀のブレスレットと透証がそこにある。
「あなたがその魔道具を外したとしても、私たちには魔力は見えない」
侑子のすぐ隣には、支えるようにヤチヨが座っていた。向かい側にはランとヤヒコ。テントの入り口から、コルとミサキが興味深そうに大人たちを観察している。
「この世は全て、対なのだよ」
ランの声は穏やかに響いた。
「相反する対照的なものが二つ。必ず対を成している。男と女、陰と陽、昼と夜」
ランは両手をそれぞれ同じ高さに掲げ、対を表現した。
「魔力を持つ者、持たない者。それも対の関係。世界は対のバランスを取りながら成り立っている」
「バランス?」
侑子の呟きに、ランは「そうだねぇ」としばし思案した。やがて思いついたように立ち上がり、テントの片隅から何かを持ってくる。
重さの計量に用いる天秤だった。
ランはローテーブルに天秤を据えると、片方の計量皿にチョコレートを数粒置いた。当然、天秤は傾いた。
「今のこの世界の人類のバランスは、こんな感じ」
ランは言った。
「圧倒的多数が、魔力を持つ人間。私たちメム人はこちら」
宙に浮いてぶらぶらと揺れる、何も載っていない計量皿をランの指が示した。
「魔法を使えない人間は、どうしても不便するからな。数が少なくなりがちだ。その分工夫して生きているけど、魔法が使える人間からすると、見下しの対象か、希少さゆえの崇拝の対象になる。さっきも言っただろう」
ヤヒコが薄く笑った。
「魔法を使えない人間も、使える人間も、本来は大体同数になるように世界の理はできている。対の関係だから。けれどこの世界の多くの地域では、魔法を使えない人々はどうしても繁栄しづらい。人数はいつの時代も、魔法を使える人間より少なかった」
ランの説明に、ヤチヨはただ頷いている。
「それゆえ、生まれながら魔力を持たない赤子が誕生する。魔力持ちの両親のもとからね。そうやって世界はバランスを取ろうとしてきた」
その説明を聞いて、侑子は初めて怪訝な顔をした。
「それじゃあ……」
「昨今、ヒノクニでも突然、魔力なしの子供が生まれるようになった。それも同じ道理だね」
侑子の疑問は、すぐにその場のメム人全員に悟られた。
「ヒノクニだけが、特殊だったんだ。ずっと、古い昔から」
ヤヒコが言った。
「魔力ありの両親から魔力なしの赤ん坊が生まれることなんて、他の国では日常茶飯事なんだよ。魔力なしを厭う地域では、特にね。バランスを取るための理さ。皮肉だよな」
「その理は、ヒノクニでは通用してなかった……?」
侑子は呟くように続けた。
「だって、聞いたことなかった。私は前回、一年しかこの世界にいなかったけど、その間、一度もあなたたち――メム人の存在を聞いたことはなかった。私の周りの人たちが、あなたたちのことを知っている様子も全くなかった」
メムの民は、普通の人々が近づかない深い山中を移動しながら、一箇所に留まらない生活を繰り返しているという。魔法を扱うヒノクニ国民と同数のメム人が、そのようにひっそりと存在を知られないまま暮らせていたとは考えづらかった。
「ヒノクニの中でも、魔力ありと魔力なしの人々の均衡は取れていなかったってことですか? それなのになぜ今になって……」
侑子の質問には、あっさり答えが与えられた。
「そうだね。大昔からヒノクニにおけるメムの人口は、圧倒的に少ない」
ランは計量皿にチョコレートを追加した。天秤はさらに傾き、チョコレートの載った皿はついにテーブルへ届いてしまった。
「そこが、ヒノクニが特殊な国だと言われる所以」
ヤヒコが侑子に顔を近づけた。
「知ってた? 他国からヒノクニは、こんなふうにも呼ばれてきたんだよ。『無色の国』と」
「無色の国……?」
あんなにも色とりどりの髪や瞳、肌の色をした人々で溢れているのに。ヒノクニという国に無色とは正反対の印象しか持っていなかった侑子は、その意外性に次の言葉が出てこなかった。
「この国には対の法則が効いていない。世界の理から外れている。そういうふうに見えるんだろうな。だから無色。理の色に染められていない国ってことだ。実際、俺たちは目立たないように生きてきたし、外から見たら魔力ありの人間しか住んでいない、不可解な国に映ったことだろう」
ヤヒコが語る間、ヤチヨはタブレットに文字を書いていた。
(人口バランスが崩れてるのに、ヒノクニが長く安定してたのはなぜだと思う?)
「天膜……?」
侑子の呟きに、ランが「正解」と頷いた。
「天膜は、他国とヒノクニを分断する物質。この国の国土と国民を包み込んでいた」
過去形になった語尾に、侑子は緊張を覚えた。
天膜は破壊され続けている。
「天膜があったことで、ヒノクニは他国と同じ対の理に影響されることがなかったの」
天秤の次にランが取り出したのは、紙風船だった。ふうっと息を吹き込んで丸くすると、吹き込み口を指の腹で塞ぐ。
「風船の内側がヒノクニ。外側がそれ以外の国々だとしましょう。風船が天膜ね。天膜に穴一つ開いていない状態では、外の空気――対の理――は通ることがない。天膜の中の空気だけで、ヒノクニはやっていくことができる。人口バランスが不均衡な状態でね。だけど」
吹き込み口を塞いでいた指を、ランはどけた。
「天膜に穴が開いたら、その瞬間、外の空気と中の空気は混じり合う。……外の空気と否応なく同化していく」
「外国と同じ対の理が、ヒノクニにも適用されるってことですか」
「その通り」
侑子の答えに、ランはわずかに微笑んだ。
「外の国の理とつながったことで、世界全体の均衡の中にこの国も組み込まれたってこと。だから突然魔力なしの子供が生まれるようになったし、それ以外の人々の魔力も、本来持っていた分より減ったり、枯渇したりするようになった」
ランの手に力が加わり、紙風船がくしゃりと形を歪めた。
しわくちゃになった風船を見つめながら、侑子は頭に浮かんだもう一つの疑問を口にした。
「どうしてヒノクニだけが、天膜を持つことができたんですか……?」
その問いへの答えは、なかなか返ってこなかった。
戸口からこちらを見ていたコルとミサキは、いつの間にか侑子のすぐそばに座り込み、一緒にテーブルを囲んでいた。二人もその答えを知っている様子ではない。
「いい? ユウコさん」
ようやく口を開いたランが、侑子の顔を覗き込んだ。
「ここから先の話は、私も、私の前の長も、先人の言葉を聞き継いできたに過ぎない。どこまでが事実で、どこからが創作か分からない。だから鵜呑みにしてはいけないよ」
「分かりました」
◆◆◆
よし、と頷いて、ランは語り始めた。
「大昔のヒノクニは、独自路線を行くことにした」
「独自路線?」
「対の関係に、もう一つ特別な柱を追加したんだ」
傾いた天秤の片側の腕を、ランの指先が下から持ち上げた。強制的に傾きが均され、チョコレートで満たされた皿と空っぽの皿、二つの皿が同じ高さで揺れる。
そして天秤の腕を持ち上げていた指を、もう片方の手で掴んで退けた。
天秤は再び傾いた。
「今、均衡を正した私のこの指が世界の対の理。そして、その指をどけた手が、あなたたち来訪者」
ランの唇は弧を描き、侑子を見るアーモンド型の目は優しい。
「この国の三種の神器を知ってる?」
「はい。確か……『器』と『鏡』と『カギ』ですよね」
「そう。神器がどのように生み出されたのか、その由来を知る者はいない。だから、なぜヒノクニだけが来訪者を迎えるための扉を意図的に開くことができるようになったのか、その理由は今では分からない。けれど太古の私たちの先祖は発見したのだろうね。異世界からやってきた人々の魔力は、この世界の理に対抗しうる神秘を秘めていることを」
ランはカップを口元へ運び、静かに一口飲んだ。
「ヒノクニの王とメムの民は、共に神器を利用しながら来訪者を迎え入れていた。そして彼らから、天膜の原料を提供してもらっていた。この国での暮らしを保証する、その見返りとしてね」
「見返り……?」
「ピンときてないな。そりゃそうか」
ヤヒコが笑った。
「大昔の王とメム人たちは、お互いにウィンウィンの関係を築くことで、世界の対の理から脱しようとした。ヒノクニ独自の理を作ろうとしたんだ。魔力ありの人間には滞りない魔力の継承を。魔力なしの人間には平穏な生活を。お互いに確約した。そのために利用したのが、この世界の理から外れた存在である、来訪者だったのさ」
侑子は均衡を失ったままの天秤を見つめていた。
「透明な魔力は王の神力と混ざり合い、国の安寧を願う想いを具現化した。そして生み出されたのが天膜。天膜は世界の対の理から、この国を守り続けることとなった。いわば、魔法で生み出された見えない鎧みたいなもんだ。他国からの攻撃も、予測できない自然災害からも守ってくれる、便利で神聖な、強固な鎧」
ヤチヨの白い手が、侑子の手の上に重なった。
侑子本人は気づいていなかったが、彼女の手が緊張で強張ったのを、その場のメム人たちは皆知っていた。
「ユウコ、これも知っておきな。来訪者たちが天膜の原料——これを『副産物』と呼んだりするのだが——これを生み出すのは、彼らが慈愛の念を抱いた時だ」
「慈愛?」
「愛する気持ちだよ」
そう言って笑ったヤヒコの顔から、厳しいものが抜けていた。侑子を見る視線は穏やかで、そんな表情はヤチヨに少し似ていたが、どこか哀しげでもあった。
「来訪者がヒノクニと民を愛し、慈しむ時。その想いが王の神力と混ざり合って、天膜を生み出すんだ。天膜は国土と国民をくまなく包みこんで守っている。——だけど国政が荒れたり、人民の心が荒むと天膜は腐食し弱くなる。そうなったら来訪者を迎え入れ、修復をする。それを繰り返してきたのさ」
「素敵な話だね」
素直な感想だと侑子は思ったが、ヤヒコは複雑そうに表情を歪めた。
「お人好しだな。一番割に合わない役目を負わされてるの、お前たち来訪者だと思うぞ」
はぁ、と溜息をついた。
「突然家族や生まれ育った場所から引き離されて、訳の分からない場所に連れてこられて。その上、この国を愛して下さい、守って下さいなんてさ。一方的すぎるよなあ」
「それをお前が言うのも、おかしなものだけどね、ヤヒコ」
皮肉めいたランの言葉に、ヤヒコはすぐ返した。
「分かってる」
「メムの次の世代を引っ張っていくのは、お前なのだから。ユウコさんに頭を下げて、哀願せねばならない立場なのだよ。私たちは……」
ランのアーモンド型の瞳が、計量皿の上のチョコレートで止まった。しばらく侑子の方を見ず、言葉の続きを保留したまま沈黙する。
やがて続きを紡いだランの声は、固く乾いていた。
「私たちは、魔法を使えないのだから。ただ移動して、導くことでしか、返すことはできないのだからね」




