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青い半魚人  作者: 松下真名
第三章
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弥彦

 山の中で一晩を過ごしたあと、侑子とヤチヨは朝から山中を進み続けた。

 侑子はあまりにも軽装だった。こんな険しい道なき道を歩いた経験もない。

 ヤチヨはたびたび足を止め、侑子の手を引いてくれた。勾配のきつい坂では後ろに回り、背中を押してくれる。

 何度目かの休憩で息を整えていると、ヤチヨがタブレットを差し出した。

(ここで兄と合流する)

「お兄さん? ヤチヨちゃんの?」

(名前はヤヒコ。ここまで来れば、里はもう近い。兄に背負ってもらえばいい)

「え。いいよ。もうゴールが近いなら、自分で歩けると思うし」

(あと三キロくらい。登りあり。あなたの足だと二時間くらい)

「うーん……」

 具体的な数字を見て、侑子の気持ちは揺らいだ。障害物のない平地を三キロ歩くのとはわけが違う。登山には詳しくないが、道に角度がつくだけでこれほど身体に堪えるとは思わなかった。

(無理しない方がいい。でも、早く廃墟から離れた方がいい)

 ヤチヨの顔から笑みが消えている。

「分かった」

 侑子は頷いた。

 休憩のたび、侑子はヤチヨから少しずつ新しい情報を聞いていた。

 天膜を壊している者たちは『カギ』の守役を狙っている。そして新たな来訪者が現れたことにも、いずれ気づく可能性が高いという。

 だから一刻も早く遊園地から離れる必要があった。ヤチヨが侑子の魔力を隠そうとしたのも、そのためだ。

(里に着けば、ひとまず安心。少し休んで、その間にうちの長(おさ)にも会ってほしい)

「メムの長老さんね」

「長老ってほど年寄りでもないけどな」

 返事をしたのは、ヤチヨではなかった。

「えっ?」

 突然背後から聞こえた第三者の声に、侑子は飛び上がった。——気配などまるでなかった。鬱蒼と木々が茂っているのに、足音どころか葉の擦れる音さえ聞こえなかったはずだ。

「魔法なの?」

 動転した侑子は思わず口走った。

 背後に立っていた男が、愉快そうに笑う。

「驚かせて悪かったよ。でも俺たちは魔法を使わない。メムの民は、もともと魔力を持ってないからな」

 バシッ、と鋭い音がした。

 ヤチヨが男の背中を平手で叩いたのだ。眉を吊り上げ、非難するように睨んでいる。

「悪かったって。どう登場しようか、いろいろ考えててさ。……申し遅れたね。君が来訪者のお嬢さん? 俺はヤヒコ。こいつの兄貴だよ」

 唇を引き結んだヤチヨの頭に手を置き、男は侑子にそう名乗った。

 柔らかそうな黒髪に、ヤチヨと同じ黒い瞳。妹と同じく整った顔立ちだが、こちらは少し険がある。

 その姿を見て、侑子は今さらながら気づいた。

 ヒノクニで出会った人々は、髪も瞳も様々な色をしていた。しかし目の前の兄妹は黒髪に黒い瞳を持ち、このまま日本の街を歩いていても違和感なく馴染んでしまいそうな外見をしている。

「五十嵐侑子です。ヤヒコさん。ヤチヨちゃんから、いろいろ聞いてます」

「おや。ふうん? やけに飲み込みが早そうな様子だな。来訪者って、こっちの世界について何も知らずに来るもんじゃないの?」

「ああ、えっと……普通はそうなのかもしれません」

 ヤヒコが興味深そうに侑子を見る。

 すかさずヤチヨがタブレットを掲げ、猛烈な勢いで文字を書き始めた。

 ヤヒコは妹の説明に目を走らせる。何度か画面が書き換えられたあと、再び黒い瞳が侑子を捉えた。

「……へえ。ユウコちゃん。来訪者ってだけでも珍しいのに、君は輪をかけて珍しいみたいだね」

 ヤヒコは目を閉じ、数秒間黙り込んだ。

 誰も口を開かない間、遠くの鳥の声と風に揺れる葉音だけが聞こえていた。

「とにかく進もうか。今頃、あいつらが君の現れた場所を見つけててもおかしくない。足取りを追えなくなるところまで、さっさと離れよう」

 話している内容は不穏なのに、ヤヒコの口元には面白そうな笑みが浮かんでいる。

 ヤチヨは頷き、大きなザックを背負い直した。対してヤヒコは比較的軽装で、荷物もヤチヨの半分ほどしかない。

 そのヤヒコが侑子に背を向けてしゃがみ込んだ。

 背中には、パイプ椅子から脚を取り払ったような形の背負子(しょいこ)が取りつけられている。

「ほら。乗って。あと悪いけど、俺の荷物持ってくれる?」

「ここに座るの? ……いいんですか?」

 ヤチヨに促され、侑子は恐る恐る背負子へ腰を下ろした。おぶってもらうと聞いていたので、想像していた姿勢とはだいぶ違う。

 ヤヒコと背中合わせになる形だった。背負子には厚いクッションもつけられていて、思ったより座り心地は悪くない。

「背負子は初めて? まあ、普通は乗る機会ないか。座った? チヨ、固定してやって」

 ヤチヨは慣れた手つきで、幅広のベルトを侑子の肩と脚に回した。バックルが留められると、ヤヒコはすっと立ち上がる。

「わっ!」

 身体が一気に持ち上がり、侑子は声を上げた。

 予想していたらしいヤヒコが笑う。

「あんまり乗り心地は良くないだろうけど、ちょっとだから辛抱な。君に歩いてもらうよりずっと早い。その服じゃ山道は辛いだろ」

「お、重くないの?」

「普段はこの倍くらい背負うこともあるよ。あんまり力んでると後で辛くなる。なるべく楽にしてて」

(大丈夫。メム人はみんな力持ち)

 ヤチヨがにっこり笑う。

 その美貌に侑子が呆気にとられている間にも、ヤヒコは山道を進み始めた。

 

 メム人は力が強く、重い荷物を背負って山を歩くことに慣れている。兄妹の話は大袈裟でも何でもなかった。

 ヤヒコとヤチヨは、身体からはみ出すほどの荷物を背負っているにもかかわらず、ほとんど呼吸を乱さない。しかもヤヒコが背負っているものの一つは、生身の人間である。

 二人の足は迷いなく道なき道を進んでいく。ヤヒコに至っては、侑子と話をする余裕さえあった。

「さっき、メムの民は魔力を持ってないって言ってたけど、それも天膜が壊された影響ですか?」

 背中合わせなので、ヤヒコの顔は見えない。侑子から見えるのは、後ろを歩くヤチヨと、その向こうに連なる深い木々だけだ。

「いや、違う。メム人は昔から魔力とは無縁の民なんだ」

「この世界の人って、みんな魔法が使えるんじゃないの?」

 侑子には意外だった。ヒノクニでは子供から老人まで、魔法を使って暮らすことが当たり前だったからだ。

「ユウコはこっちの常識にずいぶん慣れてるみたいだけど、知らないことも多そうだな。まあ、ヒノクニで暮らしてる人間だって似たようなもんだから、無理もないけど」

「どういうことですか?」

 振り返りたいが、身体を固定されているのでかなわない。

「細かい話は里に着いてから、腰を落ち着けて聞いた方がいい。俺からは単純なことだけ教えておくよ」

 ヤヒコの声は濁りがなく、よく通った。歌ったらかなりの美声なのではないかと、侑子の頭にどうでもいい考えが一瞬だけよぎる。

「ヒノクニの外まで含めた、この世界全体の話な。人間には大きく分けて二種類いる。魔力を持って生まれる人間と、持たずに生まれる人間」

 ヤチヨと目が合った。彼女は微笑み、小さく頷いた。

「ユウコが今まで出会ってきたヒノクニの人間は、魔力を持ってる側。そして俺たちメム人は、持ってない側。どう? 単純だろ」

「それって……こっちでは常識なんですか?」

 もしそうなら、侑子がヒノクニで暮らした一年の間、誰も教えてくれなかったことになる。むしろ当時、魔力を解放できなかった侑子自身が珍しがられていた。

「ヒノクニは特殊なんだよ。この国じゃ、誰もが魔法を使えるのが当たり前だと思われてる。だから最近、魔力を持たない赤ん坊が生まれるようになって大騒ぎになってるだろ。でもヒノクニの外へ出れば、魔力を持たない人間そのものは、ここほど珍しくない」

「そうなんだ……」

「場所によって扱いはずいぶん違うけどね。俺はたまたまヒノクニに生まれて、かなり運が良かったと思ってる」

 ザッ、と鋭い音が響いた。

 ヤヒコがナタで行く手の枝を払ったのだろう。侑子はもう、その音にも慣れていた。

「魔力を持たない人間が、見下されたり迫害されたりする場所もある。逆に珍しさから特別な存在として崇められる土地もあるらしい。両極端すぎて笑えるだろ。俺はどっちも御免だ」

 明るかった声から、わずかに笑みが消えた。

「だから俺は、この国で生きられて幸運だと思ってる。そんな国を失うわけにはいかない」

 その言葉のあと、ヤヒコの足が止まった。

 揺れが消え、侑子は無意識に身体の力を抜く。

「着いたよ、ユウコ」

 後ろからヤチヨが回り込み、タブレットを掲げた。

 そこに記された文字が、どこか弾んで見えた。

(ようこそ、メムの里へ)

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