爪痕
わざとらしいリップ音と共に、こめかみに柔らかなものが押しつけられた。
ユウキの意識は、現へと引き戻される。
――今日も夢は見なかった
「おはよう」
甘い声だった。
聞き覚えがないと思う一方で、馴染み始めたようにも思う女の声。どちらにしろ、ユウキにとって有象無象に分類される類のものだった。
――最低だ
起き抜け早々、そんなことを考える自分に嫌気がさした。
女の腕が、シーツの下でユウキの身体に絡みついてくる。肌をなぞる指先には、明らかな誘いが含まれていた。
「……もう少しだけ、いい?」
耳元で囁かれる。
昨夜のことを思えば、彼女が何を求めているのかは明らかだった。
ユウキは深く息を吸い、気取られないよう静かに吐き出した。
胸の内に湧いた小さな嫌悪感も、余計な思考も追い払って、彼女の期待に応えることは難しくない。何も考えず、ただ身体の感覚に任せればいいのだから。
花柄のカーテンの隙間から朝日が差し込んでいる。この部屋で午前中の光を見るのは、何度目だったか。
そろそろ終わりにする時かもしれない。
――最低だな
胸の内で繰り返した言葉は、声には出なかっただろうか。
「ねえ、どう?」
「……いい」
ユウキは自分の身体を這う女の手を退けた。
「帰るよ」
床に脱ぎ散らかした服を拾い、手早く着衣を整える。
素面のユウキはいつだってそうだった。女は不満げに大きな溜息をつく。
「もう少し優しくしてくれたって、いいんじゃないの」
投げられた言葉を無視することはせず、ユウキは女に背を向けたまま靴を履いた。
「なんで?」
「仮にも何度か、こういうことしてる仲なんだし」
「仲?」
「何度も寝てるじゃない」
「仲ね」
「私のこと、好きじゃないの?」
振り返ると、女の顔は悲しみと憤りで歪んでいた。そんな顔にさせたことに罪悪感を覚えるのも確かだった。
「そういうふうに考えたことない」
ユウキの言葉は容赦がなかった。少しも揺れない声音に、女は小さく叫ぶ。
「ひどい!」
「期待するなって言ったはずだ」
それでもいいと腕を絡め、自分の家へ引っ張り込んだのは彼女の方だった。割り切ってやろうと言い出したのも。
「あんたの歌なんか、もう二度と聴きに行かない」
「いいよ」
――君のために歌っているわけじゃないし
続きは声にしなかった。余計な火種になるだけだ。
玄関へ向かおうとした瞬間、背中に軽い衝撃があった。
グチャリ、と柔らかなものが潰れる。
女が生卵を投げつけたのだった。
「二度と来るな」
――笑えるほどベタだな
滑稽に思えたのは女の行動か、それともこんなことを繰り返す自分自身か。
ユウキは振り返らず、玄関のドアを閉めた。
言われなくとも、もう二度と訪れることはないだろう。
◆◆◆
「背中で料理しようと思った?」
自宅へ戻る途中、ユウキはジロウの家に寄った。着替えを借りようと、卵の直撃を受けたシャツを脱いでいたところへ、スズカが声をかけてきた。
「何となく何があったのか、予想はつくけど」
「何だと思う? 答え合わせしてあげる」
ユウキが穏やかに返すと、スズカは笑った。その笑みには、呆れも同情も浮かんでいない。
数年前のスズカなら、友人のこんな愚行を真っ当に責め、やめさせようと躍起になっただろう。しかし、当時のユウキはこんな男ではなかったし、今のスズカには彼を責める気力もなかった。
――とりあえず毎日を生き延びて、形だけでも笑顔を作れれば、それで十分
それ以上のことを、自分にも他人にも求める気にはなれなかった。
「そうねぇ。昨夜ステージが終わったあと、女の子と並んで帰ってたってハルカから聞いた。最近よくユウキのこと待ってる子。可愛い顔してて、スタイルも良くて……いかにもモテそうな子だったよね」
悪戯っぽく笑いながら、スズカは無意識に腹を撫でていた。まだ外から見て分かるほど膨らんではいないが、彼女は妊娠していた。
「そこから推測するに、また女の子を一人敵に回しちゃった感じ?」
「正解。さすがだな」
「何、さすがって。全然嬉しくないから」
吹き出したスズカが、ユウキの肩を小突いた。
「……脱いだらそこに置いといていいよ。洗ってあげる」
「いいよ。自分でできる」
スズカはユウキの手からシャツを奪った。
「いいから。今日、調子いいの。少し働きたい」
朗らかな顔をしているが、頬は以前よりずっとこけている。
「調子いいなら、何か食ったら」
「ダメダメ。食べ物の話しないで。想像するだけでダメなの」
猛烈な勢いで止められた。
「知らなかったよ。悪阻ってそんなにキツいもんなの」
「私も知らなかったよ。リリーさんとか全然なかったじゃない。聞いてないよー」
ぼやきながら、スズカは洗面器に水を張り始めた。
蛇口から勢いよく水が注がれる。
この辺りの上下水道が復旧したのは、つい最近のことだった。一月前の地震で、再び一部が破損したのだ。
「……ウッ、やっぱダメかも。卵と水の匂い、ダメだ。ゴメン」
突然口元を押さえたスズカは、ユウキが狼狽えるより早く洗面所から駆け出していった。
スズカの第一子の妊娠が分かったのは三ヶ月前。
彼女と夫のサクヤがこの場所に住み始めたのは、二年前のことだった。
◇◇◇
二年前。
暖かな春の日だった。
王都を直撃した地震は、甚大な被害を残した。
満開だった桜の木々はいくつも根元から折れ、瓦礫と桃色の花弁が市街地を埋めた。家屋は倒壊し、多くの人々が家族や友人を失った。
スズカの実家も、地震のあとに発生した大規模な火災に呑み込まれた。
両親と妹が見つかることはなかった。
◆◆◆
洗濯板にシャツを擦りつける音が、洗面所に響いていた。
窓の外では蝉が鳴いている。開け放した窓から湿った夏の空気が入り込み、石鹸の香りと混じり合う。
「こんなもんか」
ユウキはすすぎ終えたシャツを固く絞り、パンと音を立てて広げた。額にはじんわりと汗が滲んでいる。
洗面所には屋外へ直接出られるドアがあった。洗ったものをすぐ外へ干せるよう、ジロウが設計したのだ。
かつてジロウの屋敷があった土地には、以前よりずっと小さな集合住宅がいくつも建っている。
二年前の地震で屋敷は倒壊こそ免れたものの、至るところに亀裂が走り、そのまま住み続けることはできなかった。
ジロウの決断は早かった。
屋敷も、家庭菜園も東屋も庭園も、すべて一度更地にした。そこへ集合住宅を建て、震災で住む場所を失った人々に提供したのだ。
スズカとサクヤ夫婦の入居は真っ先に決まった。二人は今、ジロウとノマが暮らす家屋に同居している。
「暑いな」
これならすぐに乾きそうだ。
ユウキはシャツを干し、空を仰いだ。
雲ひとつない、鮮やかな夏空だった。
「おう、ユウキ。来てたのか」
自転車の鍵を外しているところへ、ジロウが声をかけてきた。片手には鞄を提げている。
「おはよう、ジロウさん。今帰り?」
「ああ。本当は泊まり込むつもりなかったんだが、気づいたら事務所で寝てた」
はははと大きく笑い、「腹が減ったなぁ」と続ける。
「今日はユウキ、夕方からだったな。ステージ前にうちで飯食ってくか?」
「お言葉に甘えようかな」
「よし」
いつものように交わされる会話だった。
変身館の入っていた雑居ビルも震災で大きな被害を受け、取り壊された。周囲の商店街も似たような状況だった。
それでも、この二年間、人々は少しずつ復興を続けてきた。
変身館も小さな掘っ立て小屋から再出発し、つい最近、簡易的な音響設備を置ける建物まで再建された。
魔法がほとんど使えないため、復興作業の大半は人の手に頼っている。電力についても、限られた魔力を効率よく利用する発電装置が普及し始め、ようやく日常生活に必要な分を賄えるようになってきた。
「朝飯は? もう食ったのか?」
「まだ。でもいいや。最近、朝食べないこと多いんだ。腹減らないし」
「朝は食った方がいいぞ。健康のためには、できれば九時までに」
「大丈夫。まだ若いから。一旦家帰るよ。夕方また来る」
「おう」
「Tシャツ一枚借りてくね」
ユウキは手を振り、自転車に跨がった。
「二十五はもうそろそろ若くないぞーっ!」
後ろからジロウの声が追いかけてくる。
◆◆◆
ユウキが『家』と呼んでいるのは、二年前までリリーの家が建っていた敷地内に残る、古い蔵だった。
かつて農具や養蚕の道具が雑多に詰め込まれていたその建物だけが、震災を耐え抜いた。堅牢な造りだったことが幸いしたのだろう。
二年前、リリーの家は全壊した。養蚕を行っていた作業場も、母屋につながる離れも、すべて倒壊した。
その光景を、ユウキは今でも鮮明に覚えている。
◇◇◇
二年前の花見の日。
大きく揺れ始めた、あの時。
ユウキはジロウから預かった侑子への手紙と、自分が書いた手紙を一つの封筒に入れ、魔石ソケットの隣へ置いたところだった。
突然、全身を大きく揺さぶられた。
平衡感覚を失い、床へ転がる。
強い一揺れだった。
しかし収まるどころか、揺れはますます激しくなっていく。
背中を強打して悶えながらも、本能が危険を訴えていた。ユウキは這い転がるようにして中庭へ出た。
その瞬間。
これまで聞いたこともないような、木の軋む音が響いた。
本来なら折れるはずもないほど太い柱が、見えない巨人に揺さぶられたように傾いていく。
轟音と共に、あっという間に家が崩れた。
立ち上る土煙。落下する木片と瓦礫。その隙間から、魔石の光が一瞬だけ見えた。
――手紙
声に出したのかどうか、自分でも分からなかった。
目の前で起きていることが、どこか遠い異国の惨状か、映画の一場面のように思えた。
『ユーコちゃん』
呼んだその名前は、もう一生その人の耳に届くことはないだろう。
その人の名を記した手紙さえも、目にしてもらうことはないのだろう。
その絶望的な確信を得たのと、ユウキが目の前の倒壊を理解したのは、同時だった。




