八千代
侑子はヤチヨに連れられ、廃墟を出てしばらく山道を進んだ。道と言っても、辛うじて丈高い藪を取り除いただけの獣道よりも曖昧なものだった。前を歩くヤチヨが時折小さなナタを振って道を切り開いていく。慣れた手つきだった。
先ほどヤチヨが被せてきた薄布の存在が、今となってはありがたかった。半袖姿では、露出した腕が枝葉に引っかかって痛い。
何度曲がっただろう。どこをどう歩いてきたのか、侑子にはまるで分からなかった。ランタンがあるとはいえ辺りは夜の闇に沈んでいる。何度も足を取られ、体力には自信のある侑子もすぐに息が上がった。
やがて少し開けた場所に出た。腰掛けるのにちょうどいい倒木や切り株が点在し、あらかじめ野営できるよう整えられているらしい。
(ここで寝る)
「分かった」
侑子は促されるまま、大きな切り株に腰を下ろした。気にしないようにしていたが、座った途端どっと疲れが押し寄せてくる。
ヤチヨが水を注いだシェラカップを手渡し、タブレットを見せた。
(ユウコのこと、教えてほしい)
「ありがとう。喉カラカラだったから嬉しい」
侑子は素直に受け取ると、ヤチヨに向き合って座り直した。
「私のことか。何から話したらいい?」
ヤチヨはほっとした表情を浮かべ、嬉々としてペンを走らせる。やはり気持ちが顔に出やすいらしい。
(ヒノクニに来るの、二度目って言った。一度この国を出たってこと?)
「そうだよ。初めてヒノクニに来たのは七年前。十三歳の時だった。一年間王都で暮らして、十四歳の時に元の世界へ戻ったの」
そこまで話したところで、ヤチヨの手が止まった。大きな目がさらに丸くなる。
「ア、ア」
何かを言おうとしても音にできないことが、ひどくもどかしそうだった。苦しげに喉を鳴らしたあと、慌ててペンを握り直す。
(戻った? トコヨノクニに? 十三歳より前にいた世界に?)
「そう。突然だったからびっくりしたよ。そのまま六年間、向こうで普通に暮らしてたの。……あ。ちょっとだけ、普通じゃなかったか」
侑子はユウキとの文通についても説明する必要を感じた。この少女になら、すべて話してもいい気がする。理由は分からないが、そう思えた。
「私のこと、何でも話すよ。その代わり、私の話が終わったらヤチヨちゃんのことも教えてほしい」
ヤチヨは笑顔で何度も頷いた。
侑子は自分の直感を信じることにした。
◆◆◆
すべて話し終える頃には、夜はさらに深くなっていた。
ヒノクニで過ごした一年のこと。トコヨノクニへ戻ってからの六年間。そして屋根裏を通して、ユウキと手紙を交わしていたこと。
今度はヤチヨが自分のことを話す番だった。
(私はメム人。ヒノクニの山で暮らしてる。いくつかの小隊に分かれて、場所を移しながら暮らす)
「メム人……」
聞き覚えのない言葉だった。
(それと、私もユウコと同い年)
「えっ」
思わずヤチヨの顔をまじまじと見つめた。
「同い年!? 私、てっきりもっと年下かと……」
ヤチヨは少し不満そうに唇を尖らせた。その顔がますます幼く見えて、侑子は笑いそうになるのを堪えた。
しかし続けて示された画面を見て、表情を引き締める。
(今、ヒノクニはたくさんの災害で荒れてる。私たちは原因もだいたい分かってる)
「原因?」
(これ以上ひどくならないように、カギの守役に協力してもらった。来訪者を呼ぶために)
「『カギ』って……三種の神器の?」
七年前、ハルカやエイマンたちからヒノクニの歴史や一般常識を教わっていた時、その名を聞いた覚えがあった。ただ、詳しいことまでは思い出せない。
ヤチヨは頷いた。
(守役はねらわれてる。だから今は、私たちが守ってる)
「狙われてるって……誰に?」
ヤチヨは少し迷ってからペンを走らせた。
(この国をこんなふうにした人たち)
それ以上は書かなかった。
侑子も今は問い詰めず、次の言葉を待つ。
(来訪者を呼ぶ準備ができた。だから、あの廃墟で待ってた)
「それでやってきたのが、私だったってこと?」
ヤチヨが大きく頷いた。
(ユウコが来るとは知らなかった。一度トコヨノクニに戻った来訪者がいたことも、その人がまた来ることも、聞いたことない)
「そんなに珍しいことなんだ」
ヤチヨはまた何度も頷き、驚くほどの速さで文字を書いた。筆談が日常の動作なのだろう。
(トコヨノクニと手紙をやりとりした話も、聞いたことない)
約四年続いたユウキとの文通について、ヤチヨは神妙な顔で聞いていた。
屋根裏で交わされていた、不思議な文通。侑子の心を支え続けた、大切な交信だった。
(ユウキちゃんのこと、心配?)
画面に記された名前を見ただけで、胸が締めつけられた。
「会いたい」
こぼれ落ちるように言葉が出た。——文通が途絶えてから諦めようとしていた想いは、もう息を吹き返している。同じ世界に立っていると知ってしまった今、気持ちに歯止めをかけることなどできなかった。
「ねえ、どうして透証は動かないの? 国が混乱してるって、どういうこと? 二年前よりひどくなってるの?」
矢継ぎ早に尋ねても、ヤチヨは嫌な顔ひとつせずペンを走らせた。
(透証に宿る王の神力が足りない。王は今、ほかのことに神力を使ってる。直接この国を守るために)
「直接、国を守る?」
(ユウコ、「天膜・テンマク」って知ってる?)
侑子は首を振った。聞いたことのない言葉だった。
(ヒノクニと、ここに暮らす人を守る透明な膜。それが天膜)
「膜……」
(ふつうは見えない。国土にも、人のからだにもある)
「それを王が作ってるの?」
ヤチヨは少し考えてから書いた。
(王の神力だけじゃ作れない。来訪者の魔力も必要)
「来訪者たちの魔力……? 色のない、透明な魔力のこと?」
ヤチヨはゆっくり頷いた。
(そう。だから昔から、来訪者はヒノクニを守るために重要だった)
侑子は、はっとした。
アミから聞いた『逆さ雪』の伝承。来訪者が魔法を使った時、稀に見られるという、天へ昇っていく白い光の粒。
――もしかしたら、あの伝承も天膜と関係がある?
点と点がつながりかけた気がして、侑子はヤチヨを見つめた。黒い瞳も真っ直ぐこちらを見返している。
ヤチヨは再びペンを走らせた。
(その天膜が、数年前から壊されてる。自然に壊れたんじゃない。だれかが壊してる)
「誰かが……?」
(国土の天膜がなくなると、災害や外からの危険を防げない。地震。長雨。大きな噴火。人の天膜がなくなると、厄介な病気からも守れなくなる)
「そんな……」
侑子は画面を見つめたまま、言葉を失った。
地震。長雨。
ユウキたちの手紙に書かれていた異変が、頭の中で次々につながっていく。
――あれは全部、別々に起きていたことではない?
「じゃあ、王の神力が透証にまで回らなくなってるのは、壊された天膜を直してるから?」
侑子は腕の透証に触れた。
(たぶん。王はずっと天膜を直してる。でも王の神力だけじゃ足りない。来訪者の魔力がいる)
ヤチヨはそこで一度ペンを止め、侑子を見つめた。
(ユウコが来るまで、この国にいた来訪者は一人だけ)
「紡久くんのこと?」
ヤチヨは強く頷いた。
(一人じゃ足りない。直すより、壊される方が速い)
その言葉を見て、侑子はようやく自分がこの世界へ呼び戻された意味に思い至った。
「だから……来訪者を呼んだの?」
ヤチヨはすぐには書かなかった。
タブレットを切り株の上に置き、自由になった両手で侑子の手を包み込む。
真っ直ぐな黒い瞳だった。
小さな手に一度だけ強く力がこもる。
やがて手を離したヤチヨは再びタブレットを取り、今までよりゆっくりとペンを動かした。
書き終えた画面を、侑子へ向ける。
そこには太い文字で、たった一言だけ記されていた。
(お願い。私たちを助けて)




