廃墟
パキリと、何か硬いものを踏みつけた音が靴底から聞こえてきた。視線を落とすと、薄いガラスの破片が足の下で真っ二つに割れている。
右手だけを前に伸ばした不自然な姿勢のまま、侑子は片足を一歩前に踏み出していた。
「野本くん」
名前を呼んだが、目の前にいたはずの裕貴は忽然と姿を消している。彼の手の上に置いたはずの侑子の手は、抵抗を受けることなく静かに下へと落ちていった。
月明かりが明るい。辺りは夜だった。
足元に光源があることに気づいて下を向くと、炎の灯ったランタンが一つ置いてあった。
人の気配はない。
――誰のものだろう
侑子はランタンを手に取った。夜なのだ。灯りがないと困ることは目に見えている。
――野本くんが消えたんじゃない。私が消えたんだ
そう判断するのは早かった。侑子の前から消えたのは、裕貴だけではなかったのだから。
出口で誘導していた係員も、ドアの向こうを行き交っていた人々も。色とりどりのアトラクションも、土産物屋やレストランの建物も、チュロスやポップコーンの甘い香りすら。——全てがそこになかった。そして時間までまるで違っている。
自分が出てきたのは、元が何だったのか分からないほど朽ち果てた、小さな四角い建造物の残骸だった。ドア板もない。ぽっかりと空いた縦長の穴が、そこが出入り口だったのだろうと辛うじて想像させる。内部には雑草が茂り、床は夜の闇に沈んでいた。低い天井には蔦がへばりつき、黒っぽい汚れが虫なのかシミなのかも判別できない。
――廃墟
後方の不気味な空間から逃れるように、もう一歩前へ進んだ。辺りを見回し、侑子はようやくそこが広大な廃墟であることを飲み込んだ。
出てきた建物の他にも、大小さまざまな建造物の残骸が一つの街を成していた。どれも壁や天井が崩れかけ、中の鉄骨がむき出しになっている。形を保っているものにも、大きなひびが走っていた。
――ああ、ここは
侑子は息を呑んだ。
――ここは遊園地だったんだ
月明かりが特徴的なシルエットを浮かび上がらせていた。
背の高い、錆びついたアトラクションの遺骸。丸く形を残しているそれは観覧車だった。その足元に見えるのはコーヒーカップだ。
現実感が薄いまま、侑子はそちらへ歩いていった。コーヒーカップの一つに触れられる位置まで近づき、円盤状のハンドルに手をかける。ザラザラとした感触。分厚い錆が、手のひらを引っ掻くぞと威嚇しているようだった。
――ここはどこだろう
侑子は自身を見下ろした。
白い丸首の半袖ニットに、淡いブルーのワイドデニム。足元は白いスニーカー。肩から斜めにかけた小さなバッグも、ついさっきまでと変わらない。
けれど、その周囲にあるものは何もかもが違っていた。
唐突な場面転換は初めてではない。今までに二度、体験したことがある。
一度目は十三歳の終業式の日。
二度目はそれからちょうど一年が経った夏の日。
そしてこれは。
――三度目?
侑子は手を目の前にかざした。久しぶりの感覚だったが、すぐに思い出すことができた。自分の身体から、光り輝く靄のようなものが湧き出ている。
目を瞠り、しばらくただぼんやりと見つめた。
――魔力。私の、透明な魔力だ
六年ぶりに見た、不思議な力の気配。
侑子はようやく、自分の置かれた状況を咀嚼し始めた。
バッグに手を突っ込み、震えそうになる手で銀のブレスレットを取り出す。左腕に通し、青い鱗が輝く紐端を引いた。身体から溢れ出るように見えていた魔力の気配が鎮まり、侑子は思わず「ああ」と声を漏らした。
間違いない。
――戻ってきたんだ。私は、戻ってきたんだ……
ヒノクニへ。
◆◆◆
侑子は確信しつつあった。自分が今いるのは、魔法が存在するあの並行世界なのだと。
試しに足元の瓦礫の破片を拾い、サファイアに変えてみた。
六年ぶりでも魔法はあの頃と同じように作用した。侑子が思い描いた通りの色合いと透明度を持つ石が、手のひらに転がっている。
マスクは必要ないだろう。人の気配はなく、密を心配するような場所でないことは明らかだった。
侑子はマスクを外した。
夜の空気が、籠もった呼気で湿った口元を撫でていく。
風に乗って潮の香りがした。
――ここはヒノクニなの?
そこだけはまだ確信できていない。この廃墟には、ここがヒノクニであることを示すものが何一つなかった。看板の一つでも残っていれば文字を確認できるはずなのだが、そういったものは目につかない。錆びついたアトラクションを一つ一つ確かめてみても、注意書きすら見当たらなかった。ただあるのは、瓦礫と機械の遺骸だけだ。
そして侑子をさらに途方に暮れさせたのは、透証がまったく動かないことだった。手を翳して懐かしい人々の名前を呼びかけてみても、何の反応もない。ただのとんぼ玉である。
――どういうことだろう……。そういえば文通ができなくなる直前、ヒノクニはかなり混乱しているようだった
繰り返される天災に加え、人々の魔力が枯渇するという謎の現象。
透証は魔石と同じようなものだという、エイマンから聞いた説明が頭を過ぎった。王の神力が宿っているため、一般的な魔石とは違って魔力切れは起こらないはずだったが。
――まさか透証まで、使えなくなってしまったの?
侑子が最後にヒノクニの状況を確認できたのは、もう二年も前だ。あれからヒノクニでは何が起こったのだろう。突然文通という交信手段が絶たれたのも、こちらの世界が何かしらのっぴきならない状況に陥ったことが原因なのかもしれない。
幹夫の仮説通りだ。
胸は早鐘を打ち始めたが、ここからどうするべきなのか分からない。第一、この場所はいったいどこなのだろう。
――ヒノクニと日本の位置関係は、大体一致していたはず
侑子の自宅とリリーの家は、きっと同じ位置にあったのだ。だから侑子の一度目と二度目の移動では、同じ場所に出たと推測できる。紡久が発見された場所も、彼の自宅があった街と一致していた。
――じゃあここは、富山県?
ヒノクニは日本のように全国を四十七の都道府県に区切ってはいないが、国の形に大きな違いはないはずだ。
侑子は今日、東京から富山まで移動していたのだ。
『たまには遠出してみようか』
裕貴の思いつきの一言がきっかけだった。東京近郊のテーマパークを選ばなかったのも、完全に気まぐれだった。
――王都までどうやって移動すればいいんだろう
ここがヒノクニだとして、なぜあの遊園地とこの場所が繋がっていたのか、侑子には分からない。しかし今「するべき」だと分かるのは、知っている場所へ向かうことだった。
――皆、どうしてるの。元気なの?
いてもたってもいられない。
止まってはいられなくなり、侑子はランタンを握って夜の廃墟を歩き出した。




