解錠
ヤチヨは言葉を話せないが、幼い頃からそうだったわけではない。
平空政争の混乱が各地に広がっていた頃。一度だけ、移動の途中でメムの仲間とはぐれたことがある。見知らぬ街で一人きりになり、再び仲間たちのもとへ戻った時には、もう言葉を声にすることができなくなっていたのだ。
喉から音を出すことはできる。頭の中で思いを巡らせることも、他者の言葉を理解することも、文字を書くことも問題ない。
けれど、それを声に乗せようとすると、言葉だけが舌の上で消えてしまう。悲鳴や嗚咽、アーアーという乳児の喃語に似た音しか、口から出すことができなかった。
だから、他者との意思疎通は専ら筆談で行う。
(大丈夫。後のことは心配しないで。決めた通りにするから)
黒い小型の板の上を、ペンが走る。そこに書かれた文字を読み、ミネコは静かに頷いた。
板の角にある小さなボタンを押す。文字が消え、何も書かれていない黒い画面が現れた。
ヤチヨは新たな文を書き込む。
(来訪者、きっと来るよ)
「そうね。きっと来るわ……来てもらわないと困る……いよいよこの国は立ち行かなくなる。そんなことには、絶対させない」
そこで一度言葉を切り、ミネコは胸元に手を添えた。
「きっとカギだって、そう思ってる」
(でも、どうしてあの場所なの?)
ヤチヨは訊いた。
扉を開く場所について、ミネコはずっと以前から決めていた。
かつて遊園地として造られながら、開業することなく打ち捨てられた場所。今では人の寄りつかない、ただの廃墟だ。
「分からないの」
ミネコは少し困ったように笑った。
「人目につかない場所なら、他にもあるでしょう。あそこでなければならない理由なんて、本当は何もないのよ」
それでも、あの場所が頭から離れなかった。 ——初めて思いついた時からずっと、そこに扉を開かなければならないという感覚だけが、消えずに残り続けている。
(カギが教えてる?)
「そうかもしれない……いえ、分からない」
胸元に添えた手に、僅かに力がこもる。
「でもね、理由のない確信ほど、無視してはいけない時があるの。そういうものなのよ」
ミネコはいつもの登山服の上から、大麻で織られた衣を羽織っていた。
踝近くまで届く長い衣。その胸元で、首から下げた小さな物が白く仄かな光を放っている。丸みを帯びた下部から僅かに尾を引き、その先は弧を描いていた。
――勾玉
ヤチヨがその古代の装身具の名を覚えたのは、まだ言葉を話すことのできた幼い頃だった。その文字を書けるようになったのも、同じ頃だ。 なるほど文字の通りの形をしている。そう思ったことを覚えている。
ただ一つ、昔から不思議だった。なぜ勾玉の形をしたこれを、「カギ」と呼ぶのだろう。こんな形をしていて、いったいどんな鍵穴に差し込むというのか。
「ヤチヨちゃん」
ミネコに呼ばれ、意識が過去から引き戻される。
「どうかお願いね。もし誰かが来たら、その人をここから連れ出して。できるだけ早く」
ヤチヨは頷いた。
「でも、危ないと思ったら迷わず逃げて」
そう言ったミネコの顔に、初めて迷いが滲んだ。
——逃げてほしい。けれど、ここにいてほしい
来訪者が本当に現れるのかは分からない。明日かもしれない。ずっと先かもしれない。あるいは、誰も来ないのかもしれない。
それでも、ヤチヨがここを離れた、その僅かな間に誰かがやって来たら。 見知らぬ世界にたった一人で放り出された来訪者を、誰が導くのだろう。
そんな偶然を恐れること自体、馬鹿げているのかもしれない。
それでもミネコには、ヤチヨがこの場所を離れることが、ようやく繋いだ細い糸を自ら断ち切ることのように思えてならなかった――逃げてほしいと願いながら、待っていてほしいとも願っている。
その矛盾を口にすることができず、ミネコはただヤチヨを見つめた。
ヤチヨには、それで十分だった。
安心させたくて、彼女の手を握る。
こうすると文字は書けなくなる。けれど、不便に思うことはあまりなかった。手を繋ぎ、肌を触れ合わせている時には、文字などなくても、互いの感情が直に伝わるような気がするのだ。
それにヤチヨは、見知らぬ場所にたった一人で取り残されることが、どんなものかを知っていた。もし本当に誰かが来るのなら。 その人を、一人にはしたくなかった。
「ヤヒコくんにもよろしくね。近いうちに、また会いましょう」
ヤチヨは深く頷いた。
――また会いましょう
その意思が、しっかりと彼女に伝わるように。
ミネコが手を離した。
「開きます」
その言葉は、ヤチヨに向けたものではないのかもしれない。
ミネコの声は、一人の人間が発したものとは思えなかった。
幾重にも重なる大勢の声が、一つの言葉を発しているような、不思議な響きを纏っている。
「解錠」
ミネコの唇が、確かにその音を生み出した。
――扉が、開く
開いていく。
胸元で光る勾玉が、一瞬だけ輝きを失ったように見えた。
次の瞬間、凄まじい光が溢れ、ヤチヨの視界は真っ白に塗り潰された。




